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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

国際競争力の低下

2020-01-26 04:14:45 | 教育
(略)
>大学と受験生の序列化 (略) 
>  私立大学では、センター試験を入学者選抜にどう利用するかは、各大学が個別に決めており、センター試験だけで選抜をしたり、二次試験を免除する受験生の選抜に用いたり、二次試験の結果と合計して合否判定に用いたりしている。
>いずれにしても、受験生の序列化がセンター試験で行われるため、これが日本の初等中等教育に及ぼしてきた影響は、極めて大きい。

そうですね。

>  受験生が良い大学に入るために序列を高めるには、(評判の)良い高校に入っている必要があり、そのためには良い中学校に入っている方が有利で、そのためには良い小学校に入っている方が良い、ということになって、日本の子供たちは、小さいときから受験に翻弄されている。

‘良い’ とは何かの問題ですね。それは、序列順位の高い事でしょう。

>そして、各段階での入試に合格するために、学校での勉強だけでなく、学習塾に通うことが当たり前になっている。>学習塾では、学校で教えている内容よりも早く学習内容を先に進めて、入試前に試験対策の特別指導を行う期間を確保したり、入試での問題を短い時間で解けるようにするための、学校で教えない技術や公式を教えたりしている。

それは処世術 (現実) ですね。哲学 (非現実) ではないでしょう。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

>子供たちは、学習塾での序列などでお尻を叩かれて、そのような技術や公式を、理屈なしで暗記することが指導される。

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。答えはただ一つ。だから、考える必要がない。楽ちんである。

>  こうして、自分の頭で考えるよりも,覚えこまされた技術や公式を素早く用いて、回答を導き出す指導が行われる。>このようして、本来初等中等教育で何を教育すべきかという理想とは別の要因で、教育の道筋が曲げられてきた。

日本語には階称 ‘言葉遣い’ というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の序列判断が疎かであると、日本語の日常会話にもことを欠く。だから、世俗の上下判断の基準となる人間の序列順位表が必要である。かくしてわが国の学歴社会はもたらされた。
その上わが国の礼儀作法は序列作法になっているために、世俗の上下判断が疎かであっては ‘礼儀正しい日本人’ にもなれない。序列なきところに礼儀なしである。
人を見損なってはいけないという想いが強迫観念の域に達していて、日本人は堅ぐるしい日常生活を送っている。だから、向上心とか出世欲が湧いてくる。入試地獄が激化する。

> 大学で何を学んだかが問われない社会
>  センター試験での序列に従って入学した大学を卒業すれば、大学で何を勉強したかは問われずに、「○○大学卒業」という肩書と面接技術で企業に就職でき、社会に出ていくことができる。

そうですね。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)  

>入試や塾で与えられる序列は、それぞれの人の多様な価値の、ほんの一側面であるのにも関わらず、それが絶対であるかのように受け入れられ、与えられた場所と仕事で、他人任せの人生を送るようになる。

そうですね。わが国の知識人に問題がありますね。
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

>  大学は本来、プロフェッショナルとしての知識や能力を身に着ける、重要な場所であるはずである。>従って、センター試験のような手段で、おおざっぱなレベル分けが行われたとしても、どこの大学に行けば何が学べるか、何が身に着くかによって、受験する大学が選ばれるのが、本来の姿であろう。

そうですね。

>  筆者が働いているアメリカでは、学生は、学部の4年間で基礎学問を広く学び、通常、別の大学の大学院に進学して、専門能力を身に着け、修士あるいは博士の学位を取得し、社会で働くことになる。>筆者の学術分野である人工知能(AI)では、学部で物理を学び、大学院でAIを学んだというような専門家が多い。

そうですね。彼らは、大学で哲学 (非現実) を学び、大学院で ‘高度な職業人’ になる為に技術 (現実) を学びますね。

>  日本では、大学教員として働くような場合は別として、一般社会で働く場合には、大学で何を学んだかが問われない。>会社や役所では人事異動が定期的にあって、一人一人の専門性が重視されない。

そうですね。わが国は序列社会ですし、我々は序列人間ですからね。外国の非序列社会にまで出かけて行って専門家になろうとする意欲もありません。

>これが、あらゆる分野での日本の国際的競争力の低下の原因になっている。

そうですね。序列人間ばかりでは、国際競争力は高まりませんね。


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鵜呑みと垂れ流し

2020-01-23 16:31:24 | 文化

>285268 日本のメディアの欺瞞性は世界有数、それゆえに国民は意識転換が必要。 >猪飼野 ( 50歳代 営業 )  13/12/19 PM06 【印刷用へ】 >イギリスの新聞「インディペンデント」紙では、日本政府が「原子力関係の情報は、特定秘密なので公表できないかも」と発信した事を紹介。
>こんな危険な重大発言を、マスコミがほとんど批判していない事の問題を指摘。

批判精神の欠如している日本人は危険ですね。

>そして、最新2013年の世界報道自由ランキングで、日本のマスコミは53位とマスコミの事実報道が遅れていると認定されている事を紹介した。

わが国のマスコミは、大衆への大量的な伝達の役に立っていませんね。だから53位でしょうね。

> <インディペンデント紙 11月26日からの引用>リンク~~~~~~~~
>■Japan's media is already compliant > 「日本のメディアは既に迎合的」との指摘も 

日本人には批判精神がない。だから、日本人は、常になれ合い迎合的ですね。

>森内閣府特命担当相は、11月に行われた国会での審議中に、原子力発電所に関する情報も特定秘密に指定される可能性があることを認めた。>テロリストに情報が渡る可能性があるというのが理由である。

テロリストは困りますね。

>指定作業の大部分を担当するのはエリート官僚たちだ。>法案に反対する者たちは、日本の主要メディアの多くは既に批判精神に欠けていると言う。

日本人には批判精神 (critical thinking) がない。だから、批判精神の存在を高く評価する伝統もなければ教育もない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。非現実 (考え) の内容は、文法上の時制 (tense) のある文章により文章化される。非現実の世界は、それぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) になっている。人生の始まりにおいては、これらの三世界は白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって各人はその内容を蓄積させている。この内容は世界観 (world view) と呼ばれるものである。考えの内容は人それぞれである。’あるべき姿’もその中にある。自己の世界観 (非現実) に従って現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を示したことになる。だが、日本語文法には時制がないので、日本人は、自己の世界観を持つことができない。そして、批判精神に欠けている。だから、わが国の主要メディアはエリート官僚の示す内容をただ垂れ流すしか方法がないのである。

>ジャーナリズムの監視機関である「国境なき記者団」が発表した最新の世界報道自由ランキングにおいて、日本はほかの先進民主主義国やリトアニア、ガーナよりも下位となる53位に位置している。

そうですね。国境なき記者団の評価はリーズナブルだと思えますね。

> <以上引用>~~~~~~~~・~~~~~~~~~
> 確かに、ウキペディア「世界報道自由度ランキング」リンクで53位だ。
>しかし、一方で『日本国民は、メディア信頼度<鵜呑み度>が世界一』リンクと言うように、マスコミ内容を鵜呑みする傾向がある。

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要がない。楽ちんである。正解は一つに限られている。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。話の内容を納得する為には文法に従って文章を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常努力を要する理解というものはしないで過ごしている。
理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度と理解は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈によるものであるから、現実 (文章) 直視になっていない。話し手にも忖度の責任はない。話の内容に食い違いが生じていても議論にもならない。ただ、忖度の主は孤立する。
鵜呑みも現実無視である点で忖度と変わりがない。騙された場合には、ただ ‘相手を信じた’ として被害者は自己の正当性を主張する。相手を信用する前に論理的に結論を得た形跡はまつたくない。ただ、気分・雰囲気による行き掛かりの結果であることが多い。全国民を挙げて知的な努力が足りないと言えるであろう。国民の知的水準はまことに危険な状態にあると言えますね。

>メディアが事実を発信しないという問題指摘も重要だが、国民が事実を見極める(≒マスコミのうそを見破る)という意識転換がより必要だ。

そうですね。意識転換が必要ですね。
現在の状態は、グリム童話の‘オオカミと七ひきの子ヤギたち’ の話に似ています。子ヤギたちはオオカミの ‘しわがれ声’ や ‘黒い足’ を現実の内容として問題にしていますが、本当にオオカミが悪いのは子ヤギたちを丸のみにするという意思 (非現実・考え) であります。目先・手先の内容に囚われて、非現実 (考え) の内容を放置する人たちは浅はかだと言わざるを得ません。我々も非現実 (考え) の内容を想定内において、思慮深い人間になる必要がありますね。


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跳ぶ

2020-01-23 00:04:13 | 社会
(略) 
>  最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。>自然をぼんやりと観察している。     

そうでしょうね。

>でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。>それは「パターン」を発見したときです。

新発見があったのですね。

>  自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。>そういうものなんです。

そうですね。自己の世界観獲得の始まりですね。

>一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。

直感は洞察力ですね。

>雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。>そうするといきなり集中力が高まる。

そうですね。興味津々ですね。

>もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。>果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。

ご成功を祈ります。

>>学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。>>目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。

そうですね。科学に関する考えは、科学哲学になります。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

>>おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。

新発見ですね。めでたいことです。
外人は、 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン) と言っていますからね。

>>論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。>>それが「跳ぶ」ことです。

‘跳ぶ’ とは、自己の世界観を延長することですね。

>  でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。

そうですね。日本人は、意気地なしですからね。優柔不断・意志薄弱であることが常のようです。

>ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。>彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がない。仕方がないので、無為無策でいる。ここでとん挫する。
  ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)
意思は未来時制の文章内容であるから、文法に時制 (tense) というものが必要です。しかるに、日本語の文法には時制がない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>  今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。

それは、意思がないということでしょうね。だが、日本人には意思はなくても恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて意地・根性・大和魂とするのがわが国の習慣であります。これは、精神主義ですね。
 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇) 

>自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです。

日本人には、意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
意思は文章内容になっているので意味があるが、恣意はバラバラな単語のままで存在し文章にならないので意味がない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
日本人には、意思疎通が無くて恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。
対話が無くて、談合 (腹の探り合い) がある。
意思決定 (理性判断) が無くて恣意決定 (盲目の判断) がある。
説明責任が取れなくて過ちの処理にけじめがつけられない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

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けじめをつけない文化

2020-01-21 17:21:51 | 国際・政治
(略)
>  徴用工問題は三菱重工業を訴えたものだが、近場を見ても麻生財閥が8000人近い朝鮮人徴用工を働かせていた筑豊の麻生炭鉱しかり、山口県では宇部市の長生炭鉱(水没事故で137人の朝鮮人労働者が犠牲になった。遺骨収集すらされていない)しかり、収容所のような劣悪なたこ部屋に朝鮮人労働者を囲い込み、「人権」という言葉など入り込む余地すらないような環境で奴隷的労働に従事させていた事実はかき消すことなどできない。

そうですね。過去の事実から得られる教訓を現在に生かしたいですね。

>三菱重工業に限らず、麻生のような地方財閥に至るまでが朝鮮人労働者をこき使って戦争経済の受益者となり、今につながる資本の原始的蓄積を遂げたのである。
>  「国を奪い、家族を奪い、生命を奪い、言葉を奪い、名前を奪い、すべてを奪っていった。日本の帝国主義ほど野蛮なものはない」--。
>時折豪快な笑いも交えつつ語るSさんの言葉は重いものがあった。
>そして同時に、決して屈服などしていない在日朝鮮人としての誇りや強さを目の奥の鋭い眼差しに感じたのだった。
>私たちのような20~30代の記者たちが、日本人として知らなければならない歴史の真実を丹念に掘り起こし、嫌韓ブームなるものは「いい加減にせい!」と声を大にして指摘しなければならないのだと強く思った。

歴史の事実から得られる教訓を現在に生かしたいですね。 

>朝鮮人を虐げた為政者の側の意識に染められて一緒になって対立を煽ったり、「お爺ちゃんは悪くない」の安倍晋三や麻生太郎と精神世界を共有し、彼らのルーツを正当化するのに加担するわけにはいかないのである。

我々は、過去の過ちを率直に認めたら良いですね。

>  あの大戦で侵略をおこなった軍国主義の為政者どもが、近隣諸国に対して74年前のけじめをつけぬまま今日に至っている。

そうですね。
日本人は無哲学・能天気であるから ‘あるべき姿’  (things as they should be) というものがない。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
だから、基準のない日本人には比較により結論を得ることができない。つまり ‘けじめ’ がつけられない。だから、うやむやに終わるのが常になる。

>戦後もシレっと息を吹き返して責任をとることなく、今度は原爆を投げつけたアメリカに絶対服従しながら、旧植民地に対しては占領者意識丸出しのまま今日に至っているのである。

これは、‘上と見るか・下と見るか’ の序列メンタリティによるものですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。世俗の上下判断の疎かな者は、日本語の日常会話にも差し支えるほど重要なものである。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断に疎い者は、’礼儀正しい日本人’ にもなれない。
勝者に対する絶対服従は、日本人の序列作法にかなった行いである。

>統治機構しかり、メディアしかり、ドイツのように徹底的に打倒されて然るべき連中が、戦後のアメリカによる占領統治の都合から再登用され、現在につながる屈折した隷属国家をつくりあげてきた。

序列体制のわが国は、ドイツのようにはなりませんね。ドイツ人には意思があるから悪意もある。だから、悪意を打倒できる。
日本人には意思がない。戦時中の言動を糾弾したら無心の子供に自虐を強要す.することになる。日本人は、まだ12歳だからである。
日本人は鬼ヶ島で桃太郎に降参した鬼のようなものである。意思がなければ悪意は無い。

>  そして、けじめをつけない文化はいまやあちこちで開花し、例えば福島爆発事故についても東電の幹部は誰一人として逮捕されず、原発を推進した自民党政治家たちも誰一人として責任を問われず、逃げ切りをはかる。>モリカケしかり。睡眠障害の甘利明しかり。小汚い斡旋利得罪疑惑の政務官しかり。

反省のない人たちには手が付けられませんね。

「桜の国の腹切り文化」はどこへやら。

気分・雰囲気を楽しむ余裕はないですね。

>けじめもなく、ろくでもない政治状況、経済状況が蔓延している。

政治哲学や経済哲学がないからでしょう。

>アベノミクスが弾けた後も、おそらくけじめなどつける気はさらさらないのだろう。

そうですね。現実は千変万化する。哲学 (非現実) が無ければ決着はつかない。垂れ流しは困ったものですね。

>どの世界にあっても、「戦犯」にはきっちりと責任を負わせることがいかに重要であるか、そのことを深く考えさせる。>反省がない者が開き直るのだ。

そうですね。日本人には意思がない。だから、加害者意識もない。罪の意識に苛まれて深刻な反省に陥ることもない。いつも朗らか。 過ちはエンドレスとなる。国際社会からの信用が得られない。 日本の問題 (The Japan Problem) である。



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察する文化

2020-01-21 05:29:39 | 文化
(略)
>  ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。

そうですね。

>だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。>「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。

そうですね。考えは個人個人で違いますから、はっきり主張する価値がありますね。

>  日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。

日本人は、無哲学・脳天気ですからね。考えの内容がない。だから、ハッキリとものが言えない。つかみどころのない人間です。

>それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。

そうですね。‘察する’ は ‘忖度 (推察) する’ ということでしょうね。言えば ‘無哲学・能天気’ の実態がバレますから、’言わぬが花’ ですね。奥ゆかしいですね。

>  これには宗教観も大きく影響している。>ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。

ただ一人の神の意思が働きますね。

>その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。

頭の中の神は、どんなにでも絶対化できますね。

>ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。

自分の外側にいる神は、頭の内側に存在します。

>  それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。>だから身近にいろいろな神様がいる。

八百万の神々ですね。内外の区別がありませんね。頭の外側に存在しますね。

>中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。>仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。>僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要がない。楽ちんである。  
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
話の内容を納得する為には、文法に従って文章を理解しなければならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常 ‘理解’ をしない。その代わりに忖度 (推察) をする。
忖度と理解は似て非なるものであるから、要注意である。忖度は聞き手の勝手な解釈であるから現実直視になっていない。だから、話し手には何の責任もない。話の内容に食い違いがあっても議論にならない。捨てておかれる。
現実直視になっていないことを忖度の主に指摘すると、’だって、私は本当にそう思っていたのだから仕方がないではないか’ と、猛反発を受ける。だから、話にならない。忖度は、歌詠みのようなものである。
偶像崇拝される神は、頭の外にある。偶像崇拝を禁じられた神は、頭の中にある。

>  このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。

古代ギリシャの神々のようなものですね。

>ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。

個人主義は大切ですね。個性尊重でしょう。

>個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。

趣味・興味は個人個人違っていますからね。個人の自由が広がったということでしょう。

>  もちろんそれらの全部が悪いとは言わない。
>でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。

そうですね。人間もアニマルと共に自然の中に溶け込むことができなくなりますね。

>人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。

人間が自然の一部になっていると、人間の言動に関して本人の責任を追及することはできませんね。自然災害を自然の責任としたところで災害の解決には至りませんね。
不自然であれば、我々は個人の責任を追及できます。個人の言動を正す可能性が出てきます。我々は、この道を歩まなくてはならないでしょう。  

(略)

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