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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

首相批判  

2024-06-20 20:44:49 | 文化

>朝日新聞デジタル   >石破氏「国民のシンパシー得られぬ」首相批判の麻生氏に説明求める   >朝日新聞社によるストーリー・   >1日   

>■自民党・石破茂元幹事長(発言録)   

> (政治資金規正法改正をめぐり、自民党の麻生太郎副総裁が「将来に禍根を残すような改革だけはやっちゃいかん」と述べ、岸田文雄首相の対応を暗に批判したことについて)副総裁というのは総理を支える、ナンバー2と言ってもいい(存在)。   

>そういう方がこういうことを言われるからには、党内で「何でこういうことを言われたのか」ということをご説明いただいた方がいい。   

 

そうですね。麻生氏はできるだけ分かりやすく説明すると良いですね。      

 

> 何で禍根を残すような改革になるのか、世の中の人はなんだかよくわからない。   

 

政治改革は難しい。政策活動費の廃止とか政治献金の禁止を野党は言っているが、国民としては全部表に出してくれればそれでいいという考えなのだ。必要なものだったら堂々と使ってくださいと言っている。その代わり、いろんなカラクリはなしでやってほしいという単純な話です。だのに、与党は10年後に領収書を公開するという。語る側も聞く側もその場の頓智問答に打ち興じてわが身を案ずる余地がない。わが国はさながら子供の世界である。      

 

>プロセスがよくわからないままに、何だか(麻生氏が)激怒しているとか、(首相と麻生氏が)口もきかないとか、そういう状況というのは、あんまり国民のシンパシーを得られるとは思わない。   

 

そうですね。論理が先立たず、感情が先走っているのでしょうかね。あっけらかんとした世界の中でドライに割り切るセンス (判断力) が必要ですね。      

 

> (地方組織から首相への退陣要求などが相次いでいることについて)最高意思決定機関である党大会というのは簡単にできない。   

>それに代わる両院議員総会で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論があって、地方と中央がもう一回、一体感を取り戻していくことが、何々政権だろうがなんだろうが、地方組織が自民党を信じられる、そういうのを構築していくことが大事ではないか。   

 

日本人には世界観が無い。だから、個人的な世界観比べの議論が出来ない。自他共にあるべき姿の世界がおざなりにされている。政治には未来の先取りが必要である。政治家には政治哲学が必要である。        

 

>(BSフジの番組で)   

 

我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。わが国のジャーナリストはその要請に応える必要がある。事実の山と木鐸不在だけがあったのではわが国は立つ瀬なし。‘それがどうした’‘それでどうした’の問いに答えが出せない。我々には絶望の未来が待っている。今こそ我が国民の自覚すべき時である。      

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 


完璧  

2024-06-17 20:01:24 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >日本の「スクールカースト上位層」が、欧米ではむしろ評価されないワケ   >パントー・フランチェスコの意見・   >6時間・   

>人は自らの弱点を受け入れることで、ユニークな存在として生きられる。   

>それなのになぜ、日本人は自分や他人に完璧さばかりを求めてしまうのか。   

 

昔から日本人は見栄と外聞が大切ですかね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。浅薄であって、思慮が無い。       

 

>イタリア人精神科医である著者が、日本とイタリアの若年層のコミュニケーションの違いや「スクールカースト」という現象を通じて、偏狭な価値観を浮き彫りにする。   

>本稿は、パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。   

>脆弱な部分を隠して完璧であろうとする日本人   

> そもそも、私たちは誰もが脆弱な存在だ。   

>みな脆弱性を大なり小なり備えており、そこから簡単に逃れられない。   

>我々に残されているのは、自身の脆弱性を受け入れるか受け入れないかの二択である。   

>しかし、脆弱性を醜さや弱さとして扱ういまの世の中では、自分の脆弱性を隠す努力をして、そもそも脆弱性が備わっていないように振る舞う人が多い。      

 

そうですね。日本人の負けじ魂ですね。日本人は向上心が豊かですからね。      

 

>個人主義の要素が強い社会でも、その人の固有性が褒め称えられる文化背景はあっても、脆弱性に対する先入観はなくなっていない。   

> 脆弱性を敬遠する社会では、私たちは手に届かない「完璧」という幻を追い求めることになる。   

>難しい基準を生み出し、それに適応できない者を排除する。   

>無理に完璧を装い、自分の脆弱性には見て見ぬふりをする。   

> 脆弱性を有害なものかのように扱い、その役割を理解できない限り、人間個人の固有性の尊さも理解できないのではないだろうか。   

>きれいごとだと思う人がいるかもしれないが、筆者は一科学者として断固、そうではないと主張したい。   

>人はその弱点をもって受け止められるからこそ、ユニークな存在として生きられるのだ。   

> そう考えたときに、日本社会が脆弱性の尊さを認めている社会なのか、どうしても疑問が湧いてしまう。   

> 学術的な比較ではないが、日本とイタリアにおける若年層のコミュニケーションの違いから、その理由を説明したい。   

>舞台はとある高校の教室だ。   

>なお、この会話例は筆者が見聞きしたいろいろなケースから特徴的な部分を抜き出したものである。   

>【日本の場合】   

>学生A「ねえねえ、翔太くんと佐野ちゃんは付き合うべきだと思わない?   

>翔太くん運動神経いいし、勉強もできるし、顔もいいし。   

>男子からも憧れられてるし、お父さんは医者らしいよ。   

>佐野ちゃんはまず可愛い!   

>頭もいいし、みんなに優しいし、完璧すぎない?」   

>学生B「しかもその2人が付き合ったら、子どもの顔やばくない!?   

>絶対モデル顔じゃん」   

>学生A「ね~!」   

>【イタリアの場合】   

>学生A「ルカは本当に優しいね。   

>いつも面白い話してるし、この前もずっと付き合ってくれたし。   

>話しやすいしかっこいいよね~。   

>数学も、ルカが教えてくれるおかげで先生に質問する必要もないもんね」   

>学生B「キアラは医者になりたいらしくて、すごく勉強してるみたい。   

>先生たちもみんな褒めてるけど、大変そうだね。   

>彼女は認めたくないだろうけど、疲れていると思うんだよね。   

>ちょっと話しかけてみようか」   

> 2つの会話を比較すると、はっきりとした違いがある。   

>前者は脆弱性に全く触れられず、「完璧」に近いことが周囲の評価の対象になっていることがわかる。   

>一種のステレオタイプ的な会話ではあるが、日本の学校でこうした会話がなされていることは想像に難くないだろう。   

> ちなみにイタリアでは日本の同年代の会話と比較して、ポジティブなところだけではなくネガティブなところをさりげなく批判することもよくある。   

>空気を読んだり顔色をうかがおうとする気持ちは薄い。   

>ネガティブな感情に対する抵抗が少ないからである。   

>「スクールカースト」という過酷すぎる階級制度   

> 話は少しそれるが、学校という特殊な空間についても言及しておきたい。   

>学校はミクロな社会を形成しており、そこにはマクロな社会全体の断面が現れることがある。   

>保護者もまた周囲の大人たちから影響を受け、欲望を模倣し、価値観や規範を子どもへと伝えている。   

>すなわち、子どもたちは親だけでなく社会全体の大人たちから間接的に影響を受けて、学校という小さな社会の構成員となる。   

> 日本の学校空間には「スクールカースト」という奇妙な現象がある。   

>学者たちからも指摘されているし、もはや一般的にも知られた言葉だろう。   

 

序列と表現したら分かりやすいですね。   

 

>学校を社会の模型として解釈したとき、スクールカーストは極めて容赦ない階級制度だ。   

 

我が国は序列社会ですからね。学校も序列社会ですね。       

 

> 知らない読者のために簡単に説明しておくと、スクールカーストとはスクール(学校)におけるカースト(序列・派閥)である。   

>運動や勉強の能力、モテるか否か、面白さや雰囲気などで「イケてる」かどうかが決まり、自身の評価や属するコミュニティが左右される。   

> スクールカースト的な現象は、決して日本に限った話ではない。   

>ただ、「集団内でのコミュニケーションのうまさ」で序列がつけられる点が、日本独特といえる。   

>日本の学校空間では、集団コミュニケーションの出来具合で、周りの承認を得られてトップのカーストに「昇進」できる。   

> とはいえ、集団コミュニケーションがうまい人はたいてい何かを「所有」しており、そこに価値が見出されている。   

>運動神経、高いモテ度、ユーモア、親の社会的地位、家庭の金銭力……。   

> こうしたものが一つもなければ「地味」扱いされる。   

>それだけならまだよいが、存在価値すら認められず、無視されたりいじめの対象となることもある。   

>一方、生徒たちは何かを所有している生徒たちのことを崇拝するようになる。   

>スクールカーストは人間に対して条件つきの価値しか認めない、過酷な制度である。   

 

上と見るか、下と見るかの判断ですね。日本語文法の階称 (言葉遣い) によって要求される判断ですね。      

 

>「みんなと仲良し」スキルで上に行けるのは日本ならでは   

> この「条件つきの価値」は極めて人を苦しませるものだと思う。   

>条件を満たせなければ、他者に承認されない。   

>偏狭な基準のみで評価する/される生徒たちは、それぞれの才能や特質≒脆弱性を大事にするよりも、弱点として解釈してしまう。   

>「王道」の流れに飲み込まれて劣等感を覚え、己の才能を信じられなくなる。   

 

下におれ、下におれの掛け声は日本人の社会に満ち溢れていますね。日本人の礼儀は序列作法ですからね。      

 

> 本来、家族が偉いとか金持ちとか、自分の運動神経が良いといった属性は本人のコントロールの範囲外である。   

>だから、その人の価値を評価する際に重視されるべきものではない。   

 

そうですね。しかし日本人の場合は全て総合力ですからね。個人が無い。         

 

> もちろん生まれつきの才能や美しさを褒める対象にすること自体は問題ないが、あくまでもその人の価値を左右するところではない。   

> スクールカーストで「イケてる」男性には強さや運動能力の高さが求められる。   

>文武両道であればさらにいいし、人当たりの良さも欠かせない。   

>女性の場合、強さや自立心よりも優しさや母性が求められる。   

>ジェンダー規範に縛られた役割の強調がそこにはある。   

>たとえ本人が望んだものではなくても、特定の規範に沿った褒められ方をする点もまた、スクールカーストの問題である。   

> なぜ日本のスクールカーストが独特かといえば、欧米では「みんなと仲良くできる」ことが望ましい特性だと思われていないからだ。   

>むしろ、相容れない人が存在することは当たり前。   

 

そうですね。個性が無ければ和を以て貴しとなすが成り立つでしょう。      

 

>反感を抱かず誰とも仲良くできるなんてほぼありえないと思われている。   

 

考えの内容は人人により違いますからね。  

 

>「真正性」(自分が自分であること)が最も崇高な価値として位置づけられている欧米の文化において、「みんなと仲良し」というのはむしろタブーである。   

 

そうですね。自分に正直が良いですね。われ思う故にわれあり。   

 

 

 

 


パントー・フランチェスコ氏  

2024-06-15 18:11:10 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン  >【イタリア人精神科医が指摘】日本人を「孤独に闇」に突き落とす奇妙な文化とは?   >パント―・フランチェスコによるストーリー・   >9時間・   

>なぜ日本人は「他人に迷惑をかけること」を過剰に恐れるのか。   

>そして、なぜ自己感情よりも社会的アイデンティティを重視するのか。   

>心の診察を通じて多くの日本人と向き合ってきたイタリア人精神科医が、日本社会特有の奇妙なコミュニケーションについて問題提起する。   

>本稿は、パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。   

>「迷惑行為」を過剰に心配する世界的に特殊な日本社会   

> 筆者の私見では、自己記述に「関係性」「状況」を重んじる日本社会は個人的アイデンティティをないがしろにし、社会的アイデンティティを過剰に発生させる環境にある。   

 

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。考え・哲学がなければ個人的アイデンティティも無い。だが、事実があれば社会的アイデンティティはある。        

 

>その傾向ゆえに、パーソナルなコミュニケーションの機会が少なくなってしまう。   

 

そうですね。   

 

> この持論の根拠を、違う角度から説明してみたい。   

> 日本社会において「他人に迷惑をかけること」は最悪の行為とみなされている。   

 

日本人は序列人間ですから、他人に迷惑をかけることはマイナス点になりますね。   

 

>他者に迷惑をかけるのを必死に避けようとする社会は、社会的アイデンティティに偏りやすいと思う。   

>というのも、他者に迷惑をかけるリスクを考えれば、絶対に自己の感情表現を優先しないからだ。   

>「迷惑をかけたくない」という日本人の気持ちが最もよく表された日本語は「遠慮」だと思う。   

>他者に助けを求める行為、自分の感情をあらわにする行為は必死に避ける。   

>なぜなら、他者に不愉快と思われるのは最上の罪とされているから。   

 

迷惑は避けるべきですね。    

 

> ここでは迷惑をかけることを、相手の気を悪くする行為と定義したい。   

>この相手とは個人の場合もあれば集団の場合もある。   

>別に「迷惑行為」は日本社会に固有なものではないが、自己の感情を犠牲にしてでも懸命に迷惑行為を避けるほどの「迷惑(忌避)文化」は特殊なものかもしれない。   

 

日本人は負債を負いたくないですね。    

 

> 迷惑をかけるのが良くないということ自体は、常識のある人間なら誰だってわかる。   

>自分本位で欲望におぼれ、礼儀作法を忘れ、道徳をないがしろにすれば、どの社会でも戒めを浴びせられることになる。   

>その「罰」をおそれ、人間は常識の範囲を外れた迷惑をかけない。   

> 迷惑を避けることは社会学的なメカニズムである以上に、生き物の共存に必要な生物学的な機序である。   

 

そうですね。迷惑はお互いさまですね。   

 

> とはいえ、どうして日本社会には強力な「迷惑文化」が存在すると主張したいのか。   

>日本社会は迷惑行為によって起こりうる他者への不利益を、過剰に案ずる傾向があるのではないかと思う。   

 

そうですね。日本人の業績は点数の積算方式ですからね。みなさんそのことを忘れない。      

 

>たしかに相手のパーソナルな部分に触れることで、相手が不愉快になる可能性はどうしてもある。   

>しかしながら、それはポジティブな刺激をもたらすかもしれない。   

>他者のパーソナルなスペースに足を踏み入れることで初めて、その人を助けることができるだろう。   

>遠慮は思いやりではなく恐怖から成り立っている?   

 

そうですね。序列順位の低下は一生涯続きますからね。一時の恥が、一生の恥になりますね。         

 

> 相手のパーソナルなスペースに入ることは「侵略」ではあるが、健康的な行為ともいえる(図参照)。   

> ここでの「侵略」とは、迷惑行為になることをおそれず、知らない相手の自己感情を探る能力もしくは「勇気」のことである。   

>物理的にも感情的にも距離を詰めない限り、有意義なコミュニケーションは生まれにくい。

 

侵略は馴れ馴れしい図々しさでしょうね。   

 

> とはいえ無制限に相手のパーソナルなスペースに入っていいわけでもないし、立場と関係性によっては適切な距離を保つ必要があるかもしれない。   

 

親しき仲にも礼儀ありですね。日本人の礼儀は序列作法の励行ですね。      

 

>相手が望んでいないときには「余計なお世話」になってしまうだろう。   

>だから、相手の同意さえあれば自分は助けになるよ、という姿勢でコミュニケーションに臨むのが良いと筆者は考えている。   

> 困っている他者の「心の縄張り」に足を踏み入れる行為は、相手との信頼関係を築くきっかけになることもあれば、相手を不愉快にしてしまうこともある。   

>どちらの帰結もありうるが、必ずしも「お節介」になるばかりではない。   

>日本社会の「迷惑文化」は相手に嫌われたくないばかりに、後者の結果をおそれすぎてはいないだろうか。   

> もしこの仮説が本当であれば、遠慮とは相手に対する純然たる思いやりではなく、己を否定される恐怖から成り立っている。   

 

まさにそれですね。恐怖ですね。      

 

>迷惑をかけたくない、相手に嫌われたくないからパーソナルな部分には立ち入らない。   

>言い換えると、自分の個人的アイデンティティを、自己感情を否定されたくないから、当たり障りのない社会的アイデンティティで無難な会話を選ぶ。   

 

そうですね。日本人の社会は一種の点数社会ですからね。点取り虫が多いですね。          

 

> ちなみに、日本語の「お節介」に該当する英語はない。   

>お節介の概念自体は「meddling」にあたるだろうが、これは直訳すると「過干渉」である。   

>なかなかに興味深い。   

>「showing interest」はときに相手のためになる   

> 筆者が「侵略」という一見ネガティブな言葉で示したいのは、むしろそのポジティブなニュアンスだ。   

>英語でいうと「showing in-terest」(他者に対して興味を示す)が近いだろう。   

>相手の事情に積極的に関わる行為である。   

>それはあくまで、「相手のため」の意味合いが強い。   

>お節介は相手に関わることで不愉快さを与えるリスクに注目するのに対し、showing interestは相手のためになる可能性に注目する。   

> showing interestは家族、友達、恋人などの親しい間柄だけではなく、知らない他者にも可能な行為である。   

>欧米社会と日本社会の人間関係における大きな違いの一つだが、欧米社会は知らない他者に対しても「お節介」ができる。   

>困っている人を見れば、それが知らない人でも、余計なお世話と思われることがあったとしても、相手のパーソナルなところを「侵略」しても大したこととは思われない。   

> 例えば道端にカップルがいて、Aさん(女性)がBさん(男性)の攻撃的な態度に、明らかに困っているとしよう。   

>このとき、ヨーロッパだと赤の他人であっても「大丈夫ですか?」といった確認の声かけぐらいはする。   

>むしろ、そうしないとバッシングされるかもしれない。   

> 短絡的な考察は良くないが、とにかくここで言いたいのは、個人のアイデンティティを表現するポジティブなコミュニケーションのためには、ある程度お互いのパーソナルスペースへの「侵略」が必要だということだ。   

>日本ではこの「侵略」行為のすばらしさがあまり注目されていないと筆者は考えている。   

>それはどうしてだろうか?   

> このような、侵略行為が迷惑やお節介、ひいては自己否定につながるという「恐怖」を「迷惑ノイローゼ」と命名したい。   

>大げさに聞こえるかもしれないが、日本社会のコミュニケーションに対して問題提起したい一人の学者の、挑発を込めた気持ちが含まれていると思ってほしい。   

> 迷惑ノイローゼとは要するに、大したリスクがないのに、自分のせいで他者に不愉快な思いをさせるのではないかと過剰に心配することだ。   

>これのせいで、他者に共感したい、興味を持ちたい、関わりを持ちたい衝動があっても、言葉や態度に出すことをためらい、結局は関わらないままにしてしまう。   

>対人恐怖症に類似するところがあるかもしれない。   

>対人恐怖症は世界的にも日本の文化依存症候群の一つとして認められ、過剰な不安から他者と関われないことを意味する。   

>「自己感情」よりも優先される「社会的アイデンティティ」   

> 食事会の後、終電を逃した2人の同僚がいる設定で迷惑ノイローゼを例示しよう。   

>先輩のAさんは後輩のBさんに対し「もう電車ないよね、どうやって帰る?   

>私は車だから、よかったら送るよ」と言うが、Bさんは「いえいえ、自分は家が近いから歩いて帰ります。   

>大した距離じゃないし、ちょうど散歩したいし、本当に大丈夫です」と返す。   

>「本当に大丈夫?   

>遠慮しなくていいからね」   

>「ありがとうございます。   

>でも本当に大丈夫ですから」

> 先輩の提案を感謝しつつ断る後輩。   

>ごく普通のやり取りに見える。   

Aさんの提案は思いやりから生まれ、Bさんの断りは礼儀正しさから生まれているように見える。   

 

そうですね。   

 

> Bさんにとって大したことはないのかもしれないが、それでもBさんが車に乗らないのは奇妙なことだ。   

Bさんは徒歩で帰宅する労力よりも、先輩に迷惑をかけることへの心配をより大きな苦労と捉えているのだから。   

Aさんの立場も難しい。   

>提案を押しつけすぎるとお節介と受け取られかねないし、相手が異性だった場合は下心の疑惑が浮かんでくる。   

> このシチュエーションにおいて一番の問題は、両者のやり取りが「自己感情」に基づくものではなく、社会的アイデンティティの押しつけ合いになっていることである。   

> 日本社会的な振る舞いの特徴として、親しい人を「内」とみなして本心、つまり個人的アイデンティティを見せる一方、親しくない人を「外」とみなして、それらを一切見せないところがある。   

 

そうですね。日本人の社会は相対序列の社会ですからね。内外の区別はハッキリしていますね。      

 

>これは極端な二者択一ではないだろうか。   

>このような対人関係のあり方は、同一性を保てない主体を生み出すリスクを抱えている。   

>本音と建前にこうしたスイッチをつけることは、精神を不健全に追い詰めかねない。   

> 心理学において、社会から求められている行為を「社会的期待」(social expectations)というが、社会から求められるふさわしい反応を示さなければならないという葛藤から、社会的アイデンティティしか表出できないAさんとBさんは社会的期待に束縛されているのだ。   

 

そうですね。序列社会の期待される人間像ですね。   

 

> たかが食後の会話から飛躍していると感じるかもしれないが、こうした日常の連続から私たちは社会的期待の罠にかかり、孤独の闇に落ちてしまうのである。   

 

そうですね。それだけにわが国では一族郎党の団結は強いのかもしれませんね。序列協力のお陰でわが国には老舗が多いですね。  

 

 

 

 

 

 


国民バカ  

2024-06-15 13:58:46 | 文化

>現代ビジネス   >国民をバカにしている! 自民党が政治資金規制法改正で「外部監査強化」ではなく「第三者機関」にした許しがたい理由とは   >磯山友幸(経済ジャーナリスト・千葉商科大学教授)によるストーリー・   >6時間・   

>改正法案は可決の見通しだが   

>衆議院を通過した政治資金規制法改正案の参議院での審議が続いている。   

623日の国会会期末を控えて、自民党は早期の可決成立を目指している。   

>公明党と日本維新の会の主張を踏まえて修正した法案でもあり、この両党が翻意しなければ可決する見通しだ。   

>もっとも、この改正法が成立したからと言って、政治資金を巡る不正や不祥事が根絶できるとは到底思えない。   

>野党も新聞各紙も「ザル法」だと厳しく批判している。   

 

民(たみ)信(しん)無(な)くば立たず。(論語・顔淵)     

日本人について ‘うん、頭はいい。しかし、信頼できるかね’(フランク・ギブニー   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)   

日本人には世界観がない。‘あるべき姿’が想定外になっている。だから日本人は成り行き任せの(happy-go-lucky) の生活を送っている。意思が無いのでやむを得ない場合にしか反応しない。 

 

>国民民主党の玉木雄一郎代表も「ザルに申し訳ないですね。   

>ザルの方がもっと物がすくえる。   

>(改正案は)もう穴が開きまくっている。   

>裏金問題の対策にまったくなっていない」とまで言っている。   

>改正法では、政治資金集めのパーティー券について、購入者の氏名・職業を公開する基準を現行の「20万円超」から「5万円超」に引き下げたほか、政策活動費については、経常経費を除く全ての支出について項目別の金額や支出の年月を政党の収支報告書に記載することが盛り込まれている。   

>自民党案では当初、20万円超を10万円超に引き下げるとしていたが、連立与党の公明党も納得せず、結局、岸田文雄首相の決断で5万円超に引き下げた。   

>岸田首相や自民党議員からすれば、これだけ譲歩したのだから国会で通るのは当たり前ということなのだろう。   

>確かに一歩前進と見ることもできるが、これまで議論に上った会計責任者が逮捕された際の議員本人の「連座制」や、政策活動費の領収書公開、政治資金をチェックする外部監査の強化などは法案に具体的な条文は盛り込まれなかった。   

>付則には、政治資金に関する犯罪で起訴された場合に政党交付金のうち、その議員の人数割分を停止する制度を創設することや、政策活動費の支出の年間上限額を定めて10年後に領収書を公開すること、政治資金のチェック機能を強化するための「第三者機関」の設置などが盛り込まれている。  

>だが、いずれも具体的な制度設計などは国会論戦では明らかになっておらず、「先送り」の感が否めない。   

>しかも、成立したとしても、法律の施行が202711日となっており、それまでの間はパーティー券の規制は現状通りとなるため、ここにも批判が集まっている。   

>なぜ外部監査強化を避けるのか   

>ここで不思議なのは、政治資金のチェックに「第三者機関」が登場してきたことだ。   

>政党交付金などはすでに監査法人などによる「外部監査」が導入されている。   

>政治家本人が代表を務める政治資金団体の報告書でも、公認会計士や税理士による「外部監査」が行われている。   

>当初、議論に上っていたように、そうした外部監査を強化するのではなく、なぜ新しい「第三者機関」にチェックさせるという話になったのか。   

>比較的まともに監査している政党交付金監査では、独立した第三者である専門家集団の監査法人がチェックをしている。   

>不記載など不正の舞台になっている「政党支部」は本来、政党の組織だから、「連結決算」をきちんと導入すれば済む話だ。   

>会計士や税理士が行っている「政治資金監査」について、収入のチェックもなく、支出額と領収書を突き合わせる程度で、監査と呼べる代物ではない。   

>これをきちんとした世間並みの「外部監査」にしていくだけで、資金の透明性、収支の正当性は担保できる。   

>それなのに、監査法人や公認会計士といった「外部の専門家組織」ではなく、新たに「第三者機関」を作ると言う。   

>当初、政治資金規正法改正の柱として「外部監査の強化」が俎上に上がった際、日本公認会計士の幹部らは対応に苦慮した。   

>現行の政治資金監査が監査といえる代物でなく、それを強化するといっても簡単にはできないことを知っているからだ。   

>協会の幹部が自民党の政策担当幹部を訪ね、「外部監査の強化」と言うのは止めて欲しいと非公式に申し入れた、という噂が流れている。   

>要は、プロとして責任を負えないから、渦中から逃げた、と言うことなのか。   

>本来、会計の専門家集団ならば、政治資金の透明化に向けて監査制度をどう構築していくか、申し入れたりアドバイスしたりすべきところだが、すっかり口をつぐんでいる。   

 

協会の幹部は理に合わないですね。    

 

>「第三者機関」ほど当てにならないものはない   

>そこで登場したのが「第三者機関」だ。   

>企業が不祥事を起こすと最近は決まって第三者委員会などを立ち上げる。   

>だが、その「第三者委員会」がくせ者なのだ。   

>不祥事を起こした経営陣が委員を選んでいたり、第三者性に問題があるなど、独立性が疑われるケースが枚挙にいとまがない。   

>つまり、第三者と言いながら都合の良いメンバーが選ばれているのだ。   

 

八百長ですね。政治哲学の世界にはならず、空想・妄想の世界に入りますね。      

 

>そんな第三者委員会が出す報告書をチェックし、「格付け」をしているチームがある。  

>弁護士の久保利英明氏や青山学院大学名誉教授の八田進二氏ら9人が手弁当で行っている「第三者委員会報告書格付け委員会」だ。   

>この委員会が格付けした27件で、委員の総投票数224票のうち、Aという格付けを得た報告書は22票のみ。   

AからDまでの格付けで、CあるいはDと判定されるケースが圧倒的に多いのだ。   

>さらに評価対象にすら該当しない不合格のFと判定されたのが15件で60票にのぼる。   

 

骨折り損のくたびれ儲けですね。話の筋に照らし合わせて怒る常識というものが、わが国には存在しないですね。      

 

>上場企業など世の中の関心が高い不祥事の第三者委員会ですらそんな体たらくなのだ。   

>政治資金の透明性をチェックする第三者はいったい誰が選ぶのか。   

>チェックされる側の国会議員が選ぶのだとすれば、不祥事企業の経営者が選ぶ第三者よりも酷いチェック能力の乏しい機関になるのはミエミエである。   

 

歴史を研究すれば未来の結果は容易に予想できますね。   

 

>もちろん、きちんとチェックをされては困るから、外部監査の強化ではなく、第三者機関を作ることにしたのだろう。   

>こんな法案を通して、透明化が進むなどと真顔で言う国会議員は、とことん国民を舐めているとしか言いようがない。   

 

彼らはさすが漫画・アニメ大国の国会議員ですね。   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

 

 

 


国立大学協会  

2024-06-15 11:09:09 | 文化

>リシード   >国立大学協会、グローバル化アクションプラン策定   >15時間・   

> 国立大学協会は2024613日、国立大学のグローバル化のための戦略と具体的取組み・指標を定めた「国立大学グローバル化アクションプラン-国際社会における共創へのリーダーシップを発揮するために-」を公表した。   

> 「国立大学グローバル化アクションプラン—国際社会における共創へのリーダーシップを発揮するために—(NUGLAPNational Universities Global Leadership Action Plan)」は、国際社会で一層リーダーシップを発揮する人材を育成し、国立大学全体の国際化の推進に貢献していくための新しい取組みとして国立大学協会が策定。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任も無い。だから、指導者としての責任を負わせることも難しい。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文の内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 つまり、無心である。ものを言ってもそれが行動には繋がらない。だから、結果的に ‘うそぶく’ 人ということになる。これが、相手に不信の念をいだかせる。考えがあり、その実現に強い意思を示すという手順がわが国には存在しない。    

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないので仕方なく無為無策でいる。それで、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。仕方がない。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。   

 

>これからの10年における国立大学の新しいグローバル化ビジョンとミッション実現への戦略と具体的方策を定めている。   

> 国立大学は「世界の知の中核拠点」としての機能を一層拡充し、国境を越えた研究者のネットワークを形成して、世界最高レベルの研究を行うハブとなることを目指す。   

 

日本人の得意とする他人の受け売りとその後追いをやめるのですね。   

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。だから、日本人の知識の量も半分ということになる。   

 

>そのときキャンパスでは、リアルにまたバーチャルに、人種や宗教、価値観等の違いを超えて世界から人が集まり、さまざまな言語が飛び交いつつ、授業が行われ、闊達な議論が行われる。   

 

情景が空想じみていますね。さすがに漫画・アニメの大国ですね。      

 

>このような情景をグローバルな国立大学の未来と定義した。   

 

言語が違えば考え方も違う。それを乗り越える手立てはあるのですか。単に数値目標だけ掲げてもあだ花にしかなりませんね。空しい努力の繰り返しにならないことを祈りますね。          

 

> ミッション実現への戦略には、具体的取組例とともに2033年までに国立大学全体が目指すべきグローバル化へのメルクマール(到達期待値)を提示。   

>日本人学生の海外留学の割合は学部生11%、大学院生20%。   

>外国人留学生の国内就職率は40%(国内進学者を除く)。   

>外国人受入留学生の受入割合は学部生5%、大学院生が修士17%・博士44%。   

>また、英語での授業実施科目数(学部生)は16,000科目、英語のみで学位取得可能なプログラム数(大学院生)は1,000プログラム、といった具体的な数値目標を設定している。   

 

各数値には確とした裏付けがあるのでしょうね。   

 

> このほかにも、研究のグローバル化、グローバルな教育研究環境の醸成 、グローバル化への連携・協働など各項目において具体的取組例や指標を定めている。   

>詳細は国立大学協会のWebサイトで確認できる。   

> 国立大学協会は今後、86大学それぞれの国際化のあり方を尊重し、その取組みを後押しする。   

 

国際化には英語を中心とした活動が必要ですね。   

 

2013年度(平成25年度)から毎年実施しているフォローアップ調査については、今回公表したアクションプランに基づき実施予定としている。