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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

パントー・フランチェスコ氏  

2024-06-15 18:11:10 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン  >【イタリア人精神科医が指摘】日本人を「孤独に闇」に突き落とす奇妙な文化とは?   >パント―・フランチェスコによるストーリー・   >9時間・   

>なぜ日本人は「他人に迷惑をかけること」を過剰に恐れるのか。   

>そして、なぜ自己感情よりも社会的アイデンティティを重視するのか。   

>心の診察を通じて多くの日本人と向き合ってきたイタリア人精神科医が、日本社会特有の奇妙なコミュニケーションについて問題提起する。   

>本稿は、パントー・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。   

>「迷惑行為」を過剰に心配する世界的に特殊な日本社会   

> 筆者の私見では、自己記述に「関係性」「状況」を重んじる日本社会は個人的アイデンティティをないがしろにし、社会的アイデンティティを過剰に発生させる環境にある。   

 

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。考え・哲学がなければ個人的アイデンティティも無い。だが、事実があれば社会的アイデンティティはある。        

 

>その傾向ゆえに、パーソナルなコミュニケーションの機会が少なくなってしまう。   

 

そうですね。   

 

> この持論の根拠を、違う角度から説明してみたい。   

> 日本社会において「他人に迷惑をかけること」は最悪の行為とみなされている。   

 

日本人は序列人間ですから、他人に迷惑をかけることはマイナス点になりますね。   

 

>他者に迷惑をかけるのを必死に避けようとする社会は、社会的アイデンティティに偏りやすいと思う。   

>というのも、他者に迷惑をかけるリスクを考えれば、絶対に自己の感情表現を優先しないからだ。   

>「迷惑をかけたくない」という日本人の気持ちが最もよく表された日本語は「遠慮」だと思う。   

>他者に助けを求める行為、自分の感情をあらわにする行為は必死に避ける。   

>なぜなら、他者に不愉快と思われるのは最上の罪とされているから。   

 

迷惑は避けるべきですね。    

 

> ここでは迷惑をかけることを、相手の気を悪くする行為と定義したい。   

>この相手とは個人の場合もあれば集団の場合もある。   

>別に「迷惑行為」は日本社会に固有なものではないが、自己の感情を犠牲にしてでも懸命に迷惑行為を避けるほどの「迷惑(忌避)文化」は特殊なものかもしれない。   

 

日本人は負債を負いたくないですね。    

 

> 迷惑をかけるのが良くないということ自体は、常識のある人間なら誰だってわかる。   

>自分本位で欲望におぼれ、礼儀作法を忘れ、道徳をないがしろにすれば、どの社会でも戒めを浴びせられることになる。   

>その「罰」をおそれ、人間は常識の範囲を外れた迷惑をかけない。   

> 迷惑を避けることは社会学的なメカニズムである以上に、生き物の共存に必要な生物学的な機序である。   

 

そうですね。迷惑はお互いさまですね。   

 

> とはいえ、どうして日本社会には強力な「迷惑文化」が存在すると主張したいのか。   

>日本社会は迷惑行為によって起こりうる他者への不利益を、過剰に案ずる傾向があるのではないかと思う。   

 

そうですね。日本人の業績は点数の積算方式ですからね。みなさんそのことを忘れない。      

 

>たしかに相手のパーソナルな部分に触れることで、相手が不愉快になる可能性はどうしてもある。   

>しかしながら、それはポジティブな刺激をもたらすかもしれない。   

>他者のパーソナルなスペースに足を踏み入れることで初めて、その人を助けることができるだろう。   

>遠慮は思いやりではなく恐怖から成り立っている?   

 

そうですね。序列順位の低下は一生涯続きますからね。一時の恥が、一生の恥になりますね。         

 

> 相手のパーソナルなスペースに入ることは「侵略」ではあるが、健康的な行為ともいえる(図参照)。   

> ここでの「侵略」とは、迷惑行為になることをおそれず、知らない相手の自己感情を探る能力もしくは「勇気」のことである。   

>物理的にも感情的にも距離を詰めない限り、有意義なコミュニケーションは生まれにくい。

 

侵略は馴れ馴れしい図々しさでしょうね。   

 

> とはいえ無制限に相手のパーソナルなスペースに入っていいわけでもないし、立場と関係性によっては適切な距離を保つ必要があるかもしれない。   

 

親しき仲にも礼儀ありですね。日本人の礼儀は序列作法の励行ですね。      

 

>相手が望んでいないときには「余計なお世話」になってしまうだろう。   

>だから、相手の同意さえあれば自分は助けになるよ、という姿勢でコミュニケーションに臨むのが良いと筆者は考えている。   

> 困っている他者の「心の縄張り」に足を踏み入れる行為は、相手との信頼関係を築くきっかけになることもあれば、相手を不愉快にしてしまうこともある。   

>どちらの帰結もありうるが、必ずしも「お節介」になるばかりではない。   

>日本社会の「迷惑文化」は相手に嫌われたくないばかりに、後者の結果をおそれすぎてはいないだろうか。   

> もしこの仮説が本当であれば、遠慮とは相手に対する純然たる思いやりではなく、己を否定される恐怖から成り立っている。   

 

まさにそれですね。恐怖ですね。      

 

>迷惑をかけたくない、相手に嫌われたくないからパーソナルな部分には立ち入らない。   

>言い換えると、自分の個人的アイデンティティを、自己感情を否定されたくないから、当たり障りのない社会的アイデンティティで無難な会話を選ぶ。   

 

そうですね。日本人の社会は一種の点数社会ですからね。点取り虫が多いですね。          

 

> ちなみに、日本語の「お節介」に該当する英語はない。   

>お節介の概念自体は「meddling」にあたるだろうが、これは直訳すると「過干渉」である。   

>なかなかに興味深い。   

>「showing interest」はときに相手のためになる   

> 筆者が「侵略」という一見ネガティブな言葉で示したいのは、むしろそのポジティブなニュアンスだ。   

>英語でいうと「showing in-terest」(他者に対して興味を示す)が近いだろう。   

>相手の事情に積極的に関わる行為である。   

>それはあくまで、「相手のため」の意味合いが強い。   

>お節介は相手に関わることで不愉快さを与えるリスクに注目するのに対し、showing interestは相手のためになる可能性に注目する。   

> showing interestは家族、友達、恋人などの親しい間柄だけではなく、知らない他者にも可能な行為である。   

>欧米社会と日本社会の人間関係における大きな違いの一つだが、欧米社会は知らない他者に対しても「お節介」ができる。   

>困っている人を見れば、それが知らない人でも、余計なお世話と思われることがあったとしても、相手のパーソナルなところを「侵略」しても大したこととは思われない。   

> 例えば道端にカップルがいて、Aさん(女性)がBさん(男性)の攻撃的な態度に、明らかに困っているとしよう。   

>このとき、ヨーロッパだと赤の他人であっても「大丈夫ですか?」といった確認の声かけぐらいはする。   

>むしろ、そうしないとバッシングされるかもしれない。   

> 短絡的な考察は良くないが、とにかくここで言いたいのは、個人のアイデンティティを表現するポジティブなコミュニケーションのためには、ある程度お互いのパーソナルスペースへの「侵略」が必要だということだ。   

>日本ではこの「侵略」行為のすばらしさがあまり注目されていないと筆者は考えている。   

>それはどうしてだろうか?   

> このような、侵略行為が迷惑やお節介、ひいては自己否定につながるという「恐怖」を「迷惑ノイローゼ」と命名したい。   

>大げさに聞こえるかもしれないが、日本社会のコミュニケーションに対して問題提起したい一人の学者の、挑発を込めた気持ちが含まれていると思ってほしい。   

> 迷惑ノイローゼとは要するに、大したリスクがないのに、自分のせいで他者に不愉快な思いをさせるのではないかと過剰に心配することだ。   

>これのせいで、他者に共感したい、興味を持ちたい、関わりを持ちたい衝動があっても、言葉や態度に出すことをためらい、結局は関わらないままにしてしまう。   

>対人恐怖症に類似するところがあるかもしれない。   

>対人恐怖症は世界的にも日本の文化依存症候群の一つとして認められ、過剰な不安から他者と関われないことを意味する。   

>「自己感情」よりも優先される「社会的アイデンティティ」   

> 食事会の後、終電を逃した2人の同僚がいる設定で迷惑ノイローゼを例示しよう。   

>先輩のAさんは後輩のBさんに対し「もう電車ないよね、どうやって帰る?   

>私は車だから、よかったら送るよ」と言うが、Bさんは「いえいえ、自分は家が近いから歩いて帰ります。   

>大した距離じゃないし、ちょうど散歩したいし、本当に大丈夫です」と返す。   

>「本当に大丈夫?   

>遠慮しなくていいからね」   

>「ありがとうございます。   

>でも本当に大丈夫ですから」

> 先輩の提案を感謝しつつ断る後輩。   

>ごく普通のやり取りに見える。   

Aさんの提案は思いやりから生まれ、Bさんの断りは礼儀正しさから生まれているように見える。   

 

そうですね。   

 

> Bさんにとって大したことはないのかもしれないが、それでもBさんが車に乗らないのは奇妙なことだ。   

Bさんは徒歩で帰宅する労力よりも、先輩に迷惑をかけることへの心配をより大きな苦労と捉えているのだから。   

Aさんの立場も難しい。   

>提案を押しつけすぎるとお節介と受け取られかねないし、相手が異性だった場合は下心の疑惑が浮かんでくる。   

> このシチュエーションにおいて一番の問題は、両者のやり取りが「自己感情」に基づくものではなく、社会的アイデンティティの押しつけ合いになっていることである。   

> 日本社会的な振る舞いの特徴として、親しい人を「内」とみなして本心、つまり個人的アイデンティティを見せる一方、親しくない人を「外」とみなして、それらを一切見せないところがある。   

 

そうですね。日本人の社会は相対序列の社会ですからね。内外の区別はハッキリしていますね。      

 

>これは極端な二者択一ではないだろうか。   

>このような対人関係のあり方は、同一性を保てない主体を生み出すリスクを抱えている。   

>本音と建前にこうしたスイッチをつけることは、精神を不健全に追い詰めかねない。   

> 心理学において、社会から求められている行為を「社会的期待」(social expectations)というが、社会から求められるふさわしい反応を示さなければならないという葛藤から、社会的アイデンティティしか表出できないAさんとBさんは社会的期待に束縛されているのだ。   

 

そうですね。序列社会の期待される人間像ですね。   

 

> たかが食後の会話から飛躍していると感じるかもしれないが、こうした日常の連続から私たちは社会的期待の罠にかかり、孤独の闇に落ちてしまうのである。   

 

そうですね。それだけにわが国では一族郎党の団結は強いのかもしれませんね。序列協力のお陰でわが国には老舗が多いですね。  

 

 

 

 

 

 


国民バカ  

2024-06-15 13:58:46 | 文化

>現代ビジネス   >国民をバカにしている! 自民党が政治資金規制法改正で「外部監査強化」ではなく「第三者機関」にした許しがたい理由とは   >磯山友幸(経済ジャーナリスト・千葉商科大学教授)によるストーリー・   >6時間・   

>改正法案は可決の見通しだが   

>衆議院を通過した政治資金規制法改正案の参議院での審議が続いている。   

623日の国会会期末を控えて、自民党は早期の可決成立を目指している。   

>公明党と日本維新の会の主張を踏まえて修正した法案でもあり、この両党が翻意しなければ可決する見通しだ。   

>もっとも、この改正法が成立したからと言って、政治資金を巡る不正や不祥事が根絶できるとは到底思えない。   

>野党も新聞各紙も「ザル法」だと厳しく批判している。   

 

民(たみ)信(しん)無(な)くば立たず。(論語・顔淵)     

日本人について ‘うん、頭はいい。しかし、信頼できるかね’(フランク・ギブニー   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)   

日本人には世界観がない。‘あるべき姿’が想定外になっている。だから日本人は成り行き任せの(happy-go-lucky) の生活を送っている。意思が無いのでやむを得ない場合にしか反応しない。 

 

>国民民主党の玉木雄一郎代表も「ザルに申し訳ないですね。   

>ザルの方がもっと物がすくえる。   

>(改正案は)もう穴が開きまくっている。   

>裏金問題の対策にまったくなっていない」とまで言っている。   

>改正法では、政治資金集めのパーティー券について、購入者の氏名・職業を公開する基準を現行の「20万円超」から「5万円超」に引き下げたほか、政策活動費については、経常経費を除く全ての支出について項目別の金額や支出の年月を政党の収支報告書に記載することが盛り込まれている。   

>自民党案では当初、20万円超を10万円超に引き下げるとしていたが、連立与党の公明党も納得せず、結局、岸田文雄首相の決断で5万円超に引き下げた。   

>岸田首相や自民党議員からすれば、これだけ譲歩したのだから国会で通るのは当たり前ということなのだろう。   

>確かに一歩前進と見ることもできるが、これまで議論に上った会計責任者が逮捕された際の議員本人の「連座制」や、政策活動費の領収書公開、政治資金をチェックする外部監査の強化などは法案に具体的な条文は盛り込まれなかった。   

>付則には、政治資金に関する犯罪で起訴された場合に政党交付金のうち、その議員の人数割分を停止する制度を創設することや、政策活動費の支出の年間上限額を定めて10年後に領収書を公開すること、政治資金のチェック機能を強化するための「第三者機関」の設置などが盛り込まれている。  

>だが、いずれも具体的な制度設計などは国会論戦では明らかになっておらず、「先送り」の感が否めない。   

>しかも、成立したとしても、法律の施行が202711日となっており、それまでの間はパーティー券の規制は現状通りとなるため、ここにも批判が集まっている。   

>なぜ外部監査強化を避けるのか   

>ここで不思議なのは、政治資金のチェックに「第三者機関」が登場してきたことだ。   

>政党交付金などはすでに監査法人などによる「外部監査」が導入されている。   

>政治家本人が代表を務める政治資金団体の報告書でも、公認会計士や税理士による「外部監査」が行われている。   

>当初、議論に上っていたように、そうした外部監査を強化するのではなく、なぜ新しい「第三者機関」にチェックさせるという話になったのか。   

>比較的まともに監査している政党交付金監査では、独立した第三者である専門家集団の監査法人がチェックをしている。   

>不記載など不正の舞台になっている「政党支部」は本来、政党の組織だから、「連結決算」をきちんと導入すれば済む話だ。   

>会計士や税理士が行っている「政治資金監査」について、収入のチェックもなく、支出額と領収書を突き合わせる程度で、監査と呼べる代物ではない。   

>これをきちんとした世間並みの「外部監査」にしていくだけで、資金の透明性、収支の正当性は担保できる。   

>それなのに、監査法人や公認会計士といった「外部の専門家組織」ではなく、新たに「第三者機関」を作ると言う。   

>当初、政治資金規正法改正の柱として「外部監査の強化」が俎上に上がった際、日本公認会計士の幹部らは対応に苦慮した。   

>現行の政治資金監査が監査といえる代物でなく、それを強化するといっても簡単にはできないことを知っているからだ。   

>協会の幹部が自民党の政策担当幹部を訪ね、「外部監査の強化」と言うのは止めて欲しいと非公式に申し入れた、という噂が流れている。   

>要は、プロとして責任を負えないから、渦中から逃げた、と言うことなのか。   

>本来、会計の専門家集団ならば、政治資金の透明化に向けて監査制度をどう構築していくか、申し入れたりアドバイスしたりすべきところだが、すっかり口をつぐんでいる。   

 

協会の幹部は理に合わないですね。    

 

>「第三者機関」ほど当てにならないものはない   

>そこで登場したのが「第三者機関」だ。   

>企業が不祥事を起こすと最近は決まって第三者委員会などを立ち上げる。   

>だが、その「第三者委員会」がくせ者なのだ。   

>不祥事を起こした経営陣が委員を選んでいたり、第三者性に問題があるなど、独立性が疑われるケースが枚挙にいとまがない。   

>つまり、第三者と言いながら都合の良いメンバーが選ばれているのだ。   

 

八百長ですね。政治哲学の世界にはならず、空想・妄想の世界に入りますね。      

 

>そんな第三者委員会が出す報告書をチェックし、「格付け」をしているチームがある。  

>弁護士の久保利英明氏や青山学院大学名誉教授の八田進二氏ら9人が手弁当で行っている「第三者委員会報告書格付け委員会」だ。   

>この委員会が格付けした27件で、委員の総投票数224票のうち、Aという格付けを得た報告書は22票のみ。   

AからDまでの格付けで、CあるいはDと判定されるケースが圧倒的に多いのだ。   

>さらに評価対象にすら該当しない不合格のFと判定されたのが15件で60票にのぼる。   

 

骨折り損のくたびれ儲けですね。話の筋に照らし合わせて怒る常識というものが、わが国には存在しないですね。      

 

>上場企業など世の中の関心が高い不祥事の第三者委員会ですらそんな体たらくなのだ。   

>政治資金の透明性をチェックする第三者はいったい誰が選ぶのか。   

>チェックされる側の国会議員が選ぶのだとすれば、不祥事企業の経営者が選ぶ第三者よりも酷いチェック能力の乏しい機関になるのはミエミエである。   

 

歴史を研究すれば未来の結果は容易に予想できますね。   

 

>もちろん、きちんとチェックをされては困るから、外部監査の強化ではなく、第三者機関を作ることにしたのだろう。   

>こんな法案を通して、透明化が進むなどと真顔で言う国会議員は、とことん国民を舐めているとしか言いようがない。   

 

彼らはさすが漫画・アニメ大国の国会議員ですね。   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

 

 

 


国立大学協会  

2024-06-15 11:09:09 | 文化

>リシード   >国立大学協会、グローバル化アクションプラン策定   >15時間・   

> 国立大学協会は2024613日、国立大学のグローバル化のための戦略と具体的取組み・指標を定めた「国立大学グローバル化アクションプラン-国際社会における共創へのリーダーシップを発揮するために-」を公表した。   

> 「国立大学グローバル化アクションプラン—国際社会における共創へのリーダーシップを発揮するために—(NUGLAPNational Universities Global Leadership Action Plan)」は、国際社会で一層リーダーシップを発揮する人材を育成し、国立大学全体の国際化の推進に貢献していくための新しい取組みとして国立大学協会が策定。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任も無い。だから、指導者としての責任を負わせることも難しい。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文の内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。 つまり、無心である。ものを言ってもそれが行動には繋がらない。だから、結果的に ‘うそぶく’ 人ということになる。これが、相手に不信の念をいだかせる。考えがあり、その実現に強い意思を示すという手順がわが国には存在しない。    

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がないので仕方なく無為無策でいる。それで、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。仕方がない。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。   

 

>これからの10年における国立大学の新しいグローバル化ビジョンとミッション実現への戦略と具体的方策を定めている。   

> 国立大学は「世界の知の中核拠点」としての機能を一層拡充し、国境を越えた研究者のネットワークを形成して、世界最高レベルの研究を行うハブとなることを目指す。   

 

日本人の得意とする他人の受け売りとその後追いをやめるのですね。   

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。だから、日本人の知識の量も半分ということになる。   

 

>そのときキャンパスでは、リアルにまたバーチャルに、人種や宗教、価値観等の違いを超えて世界から人が集まり、さまざまな言語が飛び交いつつ、授業が行われ、闊達な議論が行われる。   

 

情景が空想じみていますね。さすがに漫画・アニメの大国ですね。      

 

>このような情景をグローバルな国立大学の未来と定義した。   

 

言語が違えば考え方も違う。それを乗り越える手立てはあるのですか。単に数値目標だけ掲げてもあだ花にしかなりませんね。空しい努力の繰り返しにならないことを祈りますね。          

 

> ミッション実現への戦略には、具体的取組例とともに2033年までに国立大学全体が目指すべきグローバル化へのメルクマール(到達期待値)を提示。   

>日本人学生の海外留学の割合は学部生11%、大学院生20%。   

>外国人留学生の国内就職率は40%(国内進学者を除く)。   

>外国人受入留学生の受入割合は学部生5%、大学院生が修士17%・博士44%。   

>また、英語での授業実施科目数(学部生)は16,000科目、英語のみで学位取得可能なプログラム数(大学院生)は1,000プログラム、といった具体的な数値目標を設定している。   

 

各数値には確とした裏付けがあるのでしょうね。   

 

> このほかにも、研究のグローバル化、グローバルな教育研究環境の醸成 、グローバル化への連携・協働など各項目において具体的取組例や指標を定めている。   

>詳細は国立大学協会のWebサイトで確認できる。   

> 国立大学協会は今後、86大学それぞれの国際化のあり方を尊重し、その取組みを後押しする。   

 

国際化には英語を中心とした活動が必要ですね。   

 

2013年度(平成25年度)から毎年実施しているフォローアップ調査については、今回公表したアクションプランに基づき実施予定としている。   

 

 

 

 

 

 


日本の哲学者  

2024-06-15 04:43:42 | 文化

>現代ビジネス   >「日本」という国はどへいくのか明治時代、この国の頭脳が取り憑かれた「世界的名著」   >藤田正勝の意見・   >21時間・   

>明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。   

>「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。   

 

日本語は写生画の言葉である。日本語は現実 (事実) の世界だけを表す言葉である。だから、具象語だけが意味・意義を持つ。日本語の中の抽象語には意味がない。非現実 (考え・哲学) の世界は日本人にとって意味がない。   

 

>そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。   

>『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。   

>※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。   

>マルクス主義の登場   

>日本の哲学の歴史のなかでは、すでに見たように、西田幾多郎や、西田のあと京大の哲学講座を引きついだ田辺元、さらに彼らに学んだ三木清や西谷啓治らが大きな役割を演じた。   

>彼らはしばしば京都学派ということばで呼ばれる。   

>その思想上の一つの特色として、彼らの多くが「無」について語ったことが挙げられる。   

>西田はあらゆる存在の根底に「絶対無」を考えたし、田辺も「絶対無」や「無即愛」について語っている。   

 

日本語・日本人の判断によれば、見ることのできる内容は本当のことであり、見ることのできない内容は嘘である。きれいごと (非現実の内容) を語る人は嘘を広める人である。      

 

>しかしそれは、彼らが現実に目を向けなかったということではまったくない。   

>京都学派の特徴の一つとして、現実の社会や国家、歴史への関心を挙げることができる。   

>その点で大きな役割を果たしたのは、三木清や戸坂潤ら、西田や田辺から教えを受けた若い研究者たちであった。   

>彼らは、哲学は実践を離れた単なる観想であってはならず、生活に根ざし、実践に結びついたものでなければならないと考え、マルクス主義の思想に共感を示していった。   

 

日本語では単なる観念を語ることができない。それは日本語文法には時制 (tense) というものが無く、日本人には世界観 (world view) が持てないからである。      

 

>そして観念的な思索に傾きがちな西田や田辺の哲学を批判した。   

>それを承けて彼らもまた現実の社会のなかにあるさまざまな問題について論じるようになっていった。   

>西田や田辺、そして彼らの弟子たちが、そうした関心に基づいて、社会や国家、歴史について何を、またどのように論じたのかを本講で見てみたい。   

>一九一七年のロシア革命、そして一九二二年のソ連邦の成立は世界歴史のなかで大きな意味をもつ出来事であったが、それと並行してマルクス主義の思想もまた多くの人々の注目を集めた。   

>日本でも『貧乏物語』(一九一七年)などを通して社会問題に深い関心を寄せていた河上肇が次第にマルクス主義に接近し、個人雑誌『社会問題研究』(弘文堂書房、一九一九―一九三〇年)を刊行してその研究と普及に努めたりした。   

 

社会問題を語る場合には現実の内容に基づいて自己の非現実を語る必要がありますね。それが科学哲学というものでしょう。        

 

>日本の哲学者も熱に浮かされた   

>一八八三年のマルクス(Karl Marx, 1818-1883)の死以後、マルクス主義の哲学が語られるときに典拠とされてきたのは、多くの場合『反デューリング論』(一八七八年)や『フォイエルバッハ論』(一八八八年)などエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)の著作であった。   

>マルクス自身の哲学的な著作が遺稿のなかから公にされたのは、ちょうど一九二〇年代から三〇年代にかけての時期であった。   

>エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』の第一巻第一章「フォイエルバッハ」が刊行されたのは一九二六年であり、『経済学・哲学草稿』がはじめて公にされたのは一九三二年のことであった。   

>マルクス自身の思想を示すものとして、その公開は大きな注目を集めた。   

>日本においてマルクス主義の哲学への関心が高まりを見せたのも、ちょうどこの時期においてであった。   

>その中心にいたのが三木清であった。   

>三木はヨーロッパ留学から帰国したのち、第三高等学校の講師を務めるかたわら、経済学部教授であった河上肇を中心として開かれていた研究会(マルクスの『経済学批判』などをテクストにしたので「経済学批判会」と呼ばれた)に参加したりしたが、この頃からフォイエルバッハの思想や唯物史観の研究に着手したと考えられる。   

>三木は一九二七年に法政大学教授に就任し東京に移ったが、それ以後、矢継ぎ早にその研究の成果を、「人間学のマルクス的形態」や「マルクス主義と唯物論」、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」などの論文を通して発表し、論壇の寵児になっていった。   

 

唯物論は現実に限った内容ですから、現実 (事実) しか知らない日本人には受け入れやすい考えですね。   

 

>三木のこのようなマルクス主義の哲学的な基礎づけの試みは、彼の周りにいた人々に大きな影響を及ぼした。   

>その影響をもっとも強く受けた一人が戸坂潤であった。   

>京都時代にすでに唯物論の研究を始めていたが、三木清が一九三〇年に当時非合法化されていた日本共産党への資金援助容疑で検挙され、法政大学教授の職を辞した翌年に法政大学の講師となり、活動の場を東京に移した。   

>そこで岡邦雄や三枝博音らと唯物論研究会を組織し、『唯物論研究』を発刊して、わが国における唯物論研究を中心的に担い、同時に多彩な評論活動を展開していった。   

>さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。    

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制 (tense) のある文章により表される。   

過去の世界の内容は過去時制の文と過去完了時制の文により言い表される。  

現在の世界の内容は現在時制の文と現在完了時制の文により言い表される。 

未来の世界の内容は未来時制の文と未来完了時制の文により言い表される。 

 

非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界の内容は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。これは日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

 

‘我々は何処から来たのか。’ ‘我々は何者か。’ ‘我々はどこに行くのか。’ などの哲学的命題にわれわれが自分自身の答えを出せるようにしなければならない。    

我々と同じアジア人であってもインド人は印欧語族 (Indo-European) であるから、前世・現世・来世の非現実の三世界の内容を自分自身で持っている。インド教の聖地で人々が瞑想に耽る姿は珍しいものではない。   

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。現実対現実の比較によれば全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人にはあるべき姿に基づく批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。罪のない者はいない。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

 

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)