サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

少年マガジン掲載『聲の形』

2013年02月20日 | 手話・聴覚障害

本日(20日)発売の少年マガジンに、ろうの女の子を描いた漫画が掲載されるということを知り、早速購入し読みました。
興味ある方は手に取ってみてください。
ストーリー的にはある種の王道で、転校してきた聴覚障害児の女の子がいじめにあい、そこに男の子がからむといった話ですが、読む気になればすぐ読めてしまう漫画なので内容紹介はあまり書かかずにいろいろと思ったことを書き連ねます。


聴覚障害児童(あえて意味を限定しないために堅苦しい書き方にしています)は今も昔も多かれ少なかれいじめられた経験があるようなので、いじめと聴覚障害児童は切っても切り離せない関係であり、そういった意味では少年誌でそういったテーマを描いたことはとても意義あることだと思います。
聴覚障害者の自伝的な本などを読むといじめられた経験はいくらでも出てきますが。
それはそれとして気になったことを書きます。
彼女の聞こえがどういう設定になっているかという点と、歌うという点です。
漫画への批判ではありません。途中からだんだん脱線していきます。

彼女は口話がかなり不得意な設定のようです。
現在の状況で、それほど口話が不得意な人がインテグレーションして普通学校に通うということは考えにくいことでしょうが、漫画のストーリー展開としてそちらのほうが都合がよかったのだろう思われます。
現実には「しゃべれるけど、聞こえない」という状況で苦しむことが多いわけですが。そのことを表現しようとすると、それだけで漫画が終わってしまうかもしれません。例えば、「しゃべれるけど、聞こえない」という状況に苦しみ、転校を機に声を出さないで筆談でコミュニケーションを図ることにする。その後、心を開いた相手にしゃべりかけるというストーリーもあるかもしれませんが。
聞こえのレベルは、補聴器をつければ音がしているのはわかるけど、何をしゃべっているかはまったくわからないレベルのようで、聴者の口形を読み取って多少は内容を把握できるようです。
聴覚障害児童が普通学校(何が普通かはわかりませんが、ろう学校ではないという意味です)に通う場合、ほぼ一番前か2番目に座ってじっと教師の口元を見ていたという話を何度も聞いたことがありますが、漫画では前列から4列目。そのへんのディティールを丁寧に描けば良いのになとも思いましたが、男の子のそばに席を設定する必要があり、尚且つ男の子の席はお話の関係上、後ろのほうがいいということでそうなったのでしょう。

その女の子は合唱コンクールに参加するわけですが、かなり無理な設定です。
聞こえの教室の先生が「合唱コンクールに参加させないってひどくないですか?」というようなことを言いますが、まずそんなことをいうような人はいないでしょう。まあストーリーの都合上、しゃべっているわけですね。
合唱には口パクで参加するという方法がもっとも現実的で、多くの人が音楽の時間は口パクでしのいでいたと聞きました。
また、口話が流暢な人でも音程をとるのはとてもとても難しいです。まして口話が不得意であれば合唱コンクールに参加してある程度のレベルで歌うのは100%無理だと思います。漫画では友人が手で音程を教えてくれますが、うまく歌えるわけもなく合唱コンクールでは入賞を逃します。

もちろん聴覚障害者でも、果敢に歌うことにチャレンジする人はいます。
一例をあげると“アツキヨ”の中村清美さん。2006年の秋に彼女の歌声を初めて聞いたときのことをよく覚えています。
存在を知ってCDを早速購入。“翼をください”を繰り返し繰り返し3時間くらい聴き続けました。
♪子供の時 夢見たこと 今も同じ 夢にみている♪のフレーズに何度も何度も心が震えました。
そこまで歌えるようになるためにはとんでもない努力があったようです。
『みんなのこえが聴こえる』(講談社)にも詳しく書かれています。
北千住の街頭ライブにも行きましたが、最近活動されているのでしょうか?

ろう学校の授業見学に初めて行った際、音楽の授業を見学しました。いったいどういう内容なのか検討もつかなったからです。
その時の音楽の先生の言葉が印象に残っています。
「ろう学校に赴任した最初の授業の時、どうやって音楽を教えたらいいか不安な気持ちでいっぱいだったんですが、ピアノを弾いたり音楽をかけると、みんながピアノやスピーカーのそばに寄ってきて、手や体で振動を感じているのを見て、なんだか頑張っていこうと思ったんです」


話は変わりますが、手話ソングというものがあります。歌に手話の振り付けをつけたものます。手話ではないといって良いと思います。(悪い意味で言っているのではありません)。好きな聴者も多いでしが、多くのろう者が嫌っているようです。あるいは「手話を勉強している聴者が楽しんでいるのならいいんじゃないの」という寛大な気持ちでみてくれているようです。私も正直言って好きではありません。ただし徹底していれば別です。きちんとやりきっているものは評価すべきだと思います。

映画「アイ・コンタクト」でろう学校(聴覚特別支援学校)の撮影に行った際、音楽の授業を撮影しました。
生徒たちが大きな声で歌っていました。
はっきり言って音程は無茶苦茶です。
でも心が震えました。そこにあるのはまさしく人の声でした。 

 


フットボールアンダーカバー

2013年02月20日 | 映画

先日の日曜日、ヨコハマフットボール映画祭に行ってきた。
ゲストとして招かれたのだが、「フットボールアンダーカバー」は呼ばれなくても観に行きたかった作品。
映画の内容は、ドイツのアマチュアサッカーチームがイラン女子代表とテヘランでの親善試合を行うにいたるドキュメンタリー。
女子サッカー映画は必ず観たいし、2005年にイランに行って以来イスラム教に関心があったし、「これは観るっきゃない」と思っていたらゲストに呼んでもらった。
トークショーでは、電動車椅子サッカー日本代表選手の永岡真理さんとともに電動車椅子サッカーとはどういったものかを伝えたわけだが、なかなか聞いているだけではわかりにくかったかもしれない。まあしかしそのことをきっかけに関心を持ってもらえれば。

映画を観ていろいろと思うところがあった。
ワールドカップ予選で訪れたアザディスタジアムは懐かしかった。
日本代表が1対2で敗れ、同点にされた後の意思統一が問題になった試合だった。
イランイスラムヒジュラ歴(だったと思う)の新年にあたっていたということもあり、試合開始前の8時間ほど前からサポーターが続々とつめかけ雄叫びをあげていた光景を思い出す。それがずっと試合終了後まで続く。イラン人の体力はどうなってるんだろうと驚嘆!
映画でも女性観客のエネルギーが爆発するが、抑圧されているからというだけでなく、イラン人ってもともとそういう人たちなんじゃないのという印象も持った。
もちろんいい意味で。
日本vsイラン戦の翌日時間があったので水タバコを吸って映画を観に行ったのだが、ヘジャブ(スカーフ)が「(頭に)のってるだけやん」という女性が結構多いのが印象的だった。
映画の中でも大学のシーンがあり「前髪出まくってるやん」という人もかなりいたが、そういった感じ。もちろんそうでない人も多いが。
そういえばイランからトランジットでドバイに着き、むき出しの女性の髪の毛を見て、なんだか見てはいけないものを見てしまったような不思議な感覚にとらわれたことを思い出す。

映画の中では、ドイツ在住トルコ人選手とイラン人選手の対比も描かれていたが、そのあたりも面白かった。
イスラム革命以前にサッカーをやっていた母と革命後に生まれた娘のエピソードも興味深いが、ともかくしたたかに生きているイラン人女性たちの姿が印象的。
単純に抑圧の象徴としてヘジャブをとらえるという側面だけで見てしまうことは、一面的な見方だろう。

映画の作り方としては、映画を作ることを大前提として物事が進んでいるようだ。
極端に言えば、映画の撮影としてすべてが進んでいるというか。
映画にも登場するイラン人男性が共同監督のようであるし。
とにかく生のイランを一側面を映像として残したかったのだろうが、トラブルがないように事前に行動するというよりは、トラブルそのものを映像化したかったようでもある。
そういった意味での不自然さを感じる場面は多々あったが、まあそれも映画であろう。

とっても多面的で、チャーミングな映画であることは間違いないわけだし。