日々雑感

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本音と建て前

2010年11月11日 | Weblog
     本音と建て前

人間の知恵が発達して、その社会構造が複雑化するにつれて建前と本音の使い分けが激しくなってきたと思うのは僕一人であろうか。

確かに建前は本心とはかけ離れている。本音とは別物だ。
本音はそのものズバリだけど、建前にはその裏にいろいろなものが隠されている。
京都ではよく使われるらしいが、来客にもうかえってほしいという本音を伝えるのに、ぼつぼつ腰を上げておかえりやすとは言わずに、もうすぐぶぶ漬けが出るから待ってほしいと謎のような建前を言って本音とすり替える。この建前と本音を上手に見極めないと、京都では野暮天と見下され、田舎ものと軽蔑される。こういう風潮は近頃の若者には通じることが難しく、時間の問題で消えて無くなる言い回しだとは思うが、まだ生きている。本音と建て前の説明にはちょっと不向きな説明をしたが、要は建前には複雑な意味が隠されているので、建前の下に隠された本音を見抜いて、その言わんとするところを正確に察するまでにはそれ相当の訓練が必要である。


人間が社会生活をする以上、建前と本音を上手に使い分けて生活しないとやっていけない。その使い分けのバランスが自分はもとより、相手にも好悪の感情を抱かせ、人間関係に直接響いてくる。
その使い分けのうまさが大人としての成熟度を示すバロメーターである。彼はまだ子供だ という場合大体本音丸出しの未熟者という意味だし、なかなか喰えんやつだという場合は余りにも鮮やかにこの二つを使い分けが上手で相手に警戒心さえ抱かせる場合のことだ。


建前ばかりでも、人は相手にしないし、本音だけでは見苦しいことが多い。嘘とホントを取り混ぜて円滑に人間関係を転がすように、建前と本音はうまく取り混ぜて、人間関係を円滑に運ぶことこそ生活上の知恵だと思う。その取り混ぜ方や、使い分けがわかるのは、社会にでて、いろいろな場面で経験を積み、泣いた笑ったり、悔しい思いをしたり飛び上がって喜んだり、いろいろな経験を積んで、それによって学習されるものである。

社会的訓練を受けて両者の使い分けがうまくできるようになる。ところで面倒な使い分けをやめてどちらか一本で社会を泳ぐことは出来ないだろうか。これはなかなかむつかしいことである。それは人間が複雑に出来ているからである。生地をそのままむき出しにすることははばかれる。かといって腹の底には本心がある場合は、どうしても両者の使い分けが必要になってくる。大人社会ではやはりこの使い分けが物事を円滑に運ぶ手段となる。