日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

越前竹人形

2018年11月27日 | Weblog
越前竹人形

現地といえば福井県あわらの郷だろうが、僕は福井地方を全然知らない。
北陸は足をふみいれたことがないので芦原の里は全く知らない。

ただ水上勉先生の小説だけは何回も読んだ。そして感銘を受けた。
それは絞り込むと純愛という至宝の魂の物語である。

ポイントをここに絞って作品を作りだそうと思った。
そしてその背景には倉田百三の出家とその弟子の第4幕壱番に出てくる唯円とかえでの純愛場面がある。。

越前竹人形に出てくるキスケと玉枝の物語とに共通点がある
貧しさゆえに身を売る女性を熱愛する男の物語はそれを
詞と曲で僕が表現したかった一曲である。

人間の悲劇的な状況の中でも、至高の愛を交わす男女の純愛はそれだけでも感動ものである。
詞の一番二番の間にセリフを入れた。めったにしないことだが、そうでもしなければ純愛の美しさに手が届かないように思ったからだ。

伴奏はピアノ一本であるが、もっと楽器を増やしてオーケストラで演奏をすれば、思いは聴衆に届くのではないか。

機会があればオーケストラ用に編曲したいものである。




付記  これから1週間ほど作曲の舞台裏を書きます。何を目的にこんな作品を作るのか
ご理解していただくと、作品に込められた作曲意図をより深く理解してもらえると思うからです。っわたしの場合、作品をとうして何かを感じてもらう、または理解しもらうという心の叫びがあるからです。

金色堂追想

2018年11月27日 | Weblog
金色堂追想

駅 から 北へ歩くと20分から30分かかる。

自転車に乗らずに歩いた。できるだけだけ当時の様子に近い代態様が望ましいと思ったから。
御所跡は今は水田

小高い丘にのぼると柳御所のあたリが一望できた。同じ血を分ける兄弟であリながら、

又平家追討では兄頼朝の為に多大の貢献をしながら、最後はここ奥州で殺されるとは何という運命の皮肉か。
人間は一歩間違えれば死に至る。
すベて恐ろしい運命を持ってる。そんなことを考えながら眺めるともなく眺めていた。

歴史の流れらら見てみると確かに頼朝のほうが先見性がある。

後白河や取り巻きの貴族なんて信用はできないし、義経のやっていることは貴族政治に従属した考え方である。
確かに頼朝第一の家来梶原との確執もあるようだが、それは歴史の流れについての判断の理解の仕方によるというよりは、感情的な対立のほうが大きいと思う。

義経の言い分もわからいではないが彼の考え方は歴史の新しいページを開くものではなくて、従来の貴族政治の下での政治体制の維持、すなわち現体制の維持が根底にある。

頼朝は違う。貴族政治から脱却して新しい武家政治を打ちたてようとしている。ここのところが両者の決定的な違いである。

人間には感情と理性があり、両者のバランスが必要である。

情の面においては義経に涙を寄せる人は多いことだろうが、歴史的にみるとやはり頼朝の決断の方が正しいようにおもえる。

いずれにせよ決定的な対立となり生死を分けたことは歴史上の出来事とはいえ
いつの時代においても日本人の涙を絞ることであろう。

まるで小説で悲劇のヒロインを描いたかのような義経の悲劇である。

ひょっとしたらこのストーリーは神が書いて、役割を演じたのが頼朝であり義経であり、その中心となった平家なのかもしれない。


覆堂は何百年かに移動するみたいである。僕が見たのは杉木立の方へちょっと段になっていた。

名所であるから連休とも重なって全国から大勢の観光客が来ていた。

とくに有名な金色同意は我も我もと押しかけるのでラッシュアワーの満員電車のように肩が触れやって堂内見物をするのが難しい状態であった。

そこで私はいったん金色堂の、入り口のそばにたたずんでいた。人の切れ目を待っていた。しかし人は切れ目なく続いて出たり入ったりしている。

少なくなることはあっても人が途切れるということがないので、私はあきらめ、堂内に入った。金色道内は管理人とおぼしき人がいてブースの中に坐っていた。

私はぼんやり須弥壇の方を眺めていたが、突然人波が途絶えた。

堂内には私を除いて誰もいない。そのとき私は体がまるで雷にでも打たれたかのようにジーンと音がして頭の髪の毛が逆立った。そこには誰もいない。管理人さえもいない。

存在するのは藤原3代のミイラと私しかいない。ぞぞっとという身ぶるいと
髪の毛が逆立ったのかわからない。恐怖にも似た不思議な体験である。

いったい何が起こったというのであろうか。強いてこじつけをするならば1000年余りの時を経て、この藤原三代の誰かの魂と、私の魂が感応現象を起こしたということではあるまいか。

そうとでも考えなければ私にはなぜそこいう現象が起きたのか説明がつかなかった。

確かに肉体は7、80年もたてばこの世から姿を消すが、魂は果して体の消滅とともに消滅するものであるのだろうか。その答えは誰も知らない。

気がついたときには再び大勢の人が身の回りにがやがや立ちさわいでいた。
夢のような不思議体験であった。

そのあとで何か変化が起こったかというとそれは何もない。