日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

お経

2018年11月16日 | Weblog
         お経

お経は釈迦の教えである。彼がこの世のありとあらゆる体験をして、その後に、宇宙の真理を明らかにし人間の生き方について ノーハウを教えた。お経はそのエッセンスを凝集したテキストである。
あらゆる思索と体験をしてその後に、釈迦が、悟った人生の根本原理と生きがいのある、悔いのない人生を送るための考え方や。実践の仕方それを満載したものがお経である。

 われわれはこれを、誤解して陰気臭いもの、抹香臭いものと思っているが、それはお経の本質や、実態から離れ過ぎたものである。

お経が悪いのではなくお経を読む、現場が悪いのである。我が国ではお経は葬式や法事など死者を弔ったり、死者をしのんだりする時にかぎられて用いられる。
だからわれわれは、お経に対して偏見を持つのである。

人生はどういうものであるにしろ生き方は、個人にゆだねられている。生きがいのある人生か、つまらない人生か。それは、すべて個人にゆだねられ、個人が決めていくことになっている。

ということは人生については、各人がおのおのの人生に対して責任を持たなければならないということである。より有意義な人生を送るためのノウハウ、や智慧が経文の中にたくさん盛り込まれている。

もともと、インドで生まれたものであるからインドの、言葉で、書かれておりそれが、玄奘によって、中国語に翻訳され ほとんどそのままの形で日本に、輸入され中国語で書かれたお経にぶっつかるから現代の日本人にとってはとても読みにくく、しかも難解なのである。
 
歴史上の大天才が体験し、思索した物の集大成だからそれは決してやさしいものではないが、日本語でわかりやすく解説すればもっともっと、現代の日本人にも受け入れられるように思われる。

この世に生まれて、生きる目標がたくさんの富を得る事であり、社会的な地位を得ることでありというような世俗的な事ばかりに関心が奪われているような人にはお経は一見して無用に見えるが、それは全く逆のことで、そういう俗世の確かな物を得るためにも、お経は必要な物なのである。

しかしながら、僕はあらゆる人にとって人生読本だと思うにも関わらずこれが不思議なもので、極少数の人にしか縁のないテキストなのである。

考えてみると、これも縁なき衆生と、縁のある衆生とに分かれていて、縁なき衆生はとことん縁のないものなのであろうか。

しかし生き甲斐のある人生を送るための、すばらしいアイデア集であり、賢く生きるための知恵の宝庫であるものだと思うから僕はどなたにも読むようにお勧めしたい。

そのためには何の知識もない一般衆生が日常生活の中で困った時に問題解決の為の手引き書として、つまり漢字がが判らないときに漢和辞典を引くように、人生辞典としていつでも手元で活用できるような、日本語訳が不可欠である。出よ。お経の日本語翻訳者。

こだわり

2018年11月15日 | Weblog
                     こだわり

これは、僕が、アメリカ人のクラブで、ドアーボーイとして働いていたときに体験した話である。


いきなり 「ヘイ、ジャブ、、、中略、、、、ゲラル ヒア」という声がした。
アメリカ人のボスは、雷のような声でどなった。それは当たり前だった。


ドアの開閉をして、金をもらっている人間が、真冬の夜に、ドアを開け、友人とぺちゃくちゃお喋りを楽しんでいれば、雷が落ちるのも、当然だ。

早口で、顔を真っ赤にして、怒っているこのアメリカ人が、まくし立てた怒りの言葉の中では、

最初のヘイ、ジャブという言葉と、最後のゲラル ヒアという言葉の意味しかわからなかった。
急に大声で、となられて、びっくりしていたから、うろたえるのは、無理のないことである。

その中で、僕は、彼の怒りの言葉を自分なりにこう解釈した。

「コラ 日本人の間抜けめ 、、、 、中略、、、出ていて、バカ。」怒られるのは、

もちろんこちらの落ち度だから、無理は無い。

怒りすなわち感情が爆発して、理性が効かなくなると本音が出てしまう。


このアメリカ人のボスも思わず本音で物をいったのだろう。今にして思えばジャブ・日本人野郎は無いだろう。


でもそのときは何も気にならなかった。


一般論として、人間社会というものは差別、区別で成り立っているところがある。

それは、各人が心の奥底に秘めている劣等感や優越感に根ざしているようだ。


人間は悲しいもので、自分で、自分のいる位置が分からないから、不安になる。

すべて比較によって、決めようとするから、となりの車が、大きいと、気になるという、妙なところがある。


となりの車が大きかろうか、小さかろうが、我が家の車がいちばん自分たちにとって

ふさわしい車だと割り切れば良いのに。

となりの車を羨望の念と、同時に、妬みの気持ちを持って眺め、そしてそれにこだわる。

そのあたりから、優越感や劣等感が出て、他を優劣で差別するという差別感が生まれてくる。


個々人に置いても、人間は、こういう状態だから、その集団である人種、とりわけ、

見た目ではっきりと区別できる、皮膚の色や髪の毛の色では差別が生じやすい。


一般には、白人が、最上位で、それに続いて、黄色人種、最下位が、黒人の順位となっているが、これは暗黙のうちに了解されている。

先程の白人のボスも、この了解のもとに黄色の僕を一段見下げてジャブを使った。人権感覚からすると、問題のある

この発言も、つまるところ、白人が、黄色人種に対してもつ、差別感の端的な表れであると僕は見た。


考えてみると、黄色であるアジア人種でも、日本人は他のアジア人に対して、差別意識を持っている。

たとえば中国人のことをチャンコロと称して、軽蔑した時代があった。

軽蔑した、かの国はその昔、先進国で、我が国の文物は、ほとんど大陸、

その国からもたらされ、それをベースに我が国の文化が生まれたと言うのに、

基本的なことはすっかり忘れて、ただ見てくれだけで、たちのよくない差別意識を持つ。

だから、チャンコロが出るのである。

差別ということに、こだわることは、地獄行きの切符を手に入れるようなものである。

差別用語を使って一時的に優越感を持ったとしても、それでいったい何がどれだけ得をしたというのだ。

少なくとも現代教育を受けた人間にとっては、大筋では、恥ずかしい思いがするはずである。また、むなしい思いがするはずである。

先程の体験談を持ち出して考えてみると分かるように、差別意識を持つか持たないかは、

天と地ほどの違いがある。差別を意識した途端に、地獄の住人になる。

その意味するところが分かればジャブと言われると腹が立つ。だけど、あの時は、

僕はジャブの意味がわからなかったから、まるで何も感じなかった。

怒った彼が僕の心の中を知ることができたら、むなしい思いをしたことだろう。

どんなに軽蔑的な言葉を使って、感情をぶっつけてみても、相手にその意味が分かっていないと

「、蛙の面に小便」で、全く無意味であるからだ。

自分の感情を暴発させて、自分はすっきりしたかもしれないが、心の中は虚しいものが、残りはしないだろうか

人間を肌の色や髪の毛の色で、優劣を感じるようでは気の毒そのもので、真の意味での人間はわかるまい。

人間として生まれてきて、このようなこだわりを持ったがために、楽しいかるべき人生をくらいものにしている。

ここらでしっかり考えなおしてみるのもいいことだ。




























ブログ

2018年11月14日 | Weblog
途切れ途切れの時もあったがほぼ毎日一編のブログを

10年以上も書き続けた。

1日平均100人程が選んで読んでくださる
一人は大体3~4編ずつを選んで読んでくださる

月に2000人。 読む数は6000~8000編

一年で25000人  約 9万編
1
0年で26万人 90万編

我ながらよくやったもんだ。これは自分の歴史である。大切にしよう。

時の時事問題、それを自分なりに批評したり、反対意見を開陳したり

自分が考えたこと、思ったこと など、かっての自分を見つめることが出来るには楽しいことだ。

地方創成

2018年11月13日 | Weblog
地方創成

第一次産業の崩壊

従来のあり方に改変を加えなければどうにも立ち行かない

第二次加工業製造業

第三次産業はサービス金融医療娯楽など

産業が高度化すると一次から二次へ、そして三次産業へと産業構造が変化していくという。

確かにそういう具合に産業構造は変化してきた。1次産業の現状を見ると衰退が著しい

林業なんか外材に押されて将来が心配だ。

一点集中の分散化は 官庁や本社機能を施策として実行できれば好都合であるか、


社会的な便利さを失う可能性があるので一点集中の分散化は一向に進まないで、


はかけ声に終わる公算が強い。


災害たとえば原発事故で住めなくなるとか、大地震で壊滅的打撃を受けるとか、

自然の大災害とか、強制的に分散化を実行することによって、構造改革をするとか。


そうしなければ、一次産業だけでは地方は持たないだろう。もちろん農業改革、漁業改革は

はまったなしであるが。




対面抱っこ

2018年11月11日 | Weblog
対面抱っこ

昔は子供は背中に背負ったものである.いわゆるおんぶである。

近頃は子供を母親の胸の辺りで対面する形で抱っこされている.


子供の位置が後ろ背中から前胸に変わった.


そこで考えた.


人間は前向きに倒れるのと、仰向け,後ろ向きに倒れる可能性は。どちらが多いかを考えた時,


母親が前向きに倒れる可能性が大きいから,背中でおんぶした子供が事故に遭う可能性は大きい.


近頃のように前抱っこにしないで、昔のように背中におんぶすることの方が安全ではないか

スーパーボランチアが現れた5-58

2018年11月10日 | Weblog
世間にはいろんな人が居るものだ。スーパーボランチアが現れた。

尾畠さん。文字通りスーパーボランチア
暗いことの多いニュースの中で心が温まり目が潤む出来事だ。
以下テレビで小倉さんとの会話をインターネットから引用する

救助した尾畠さんは40歳で登山を始め、60歳前に由布岳登山道の整備ボランティアを始めてからボランティア歴約25年になる。60代半ばまでは、大分県内で鮮魚店を経営していた。

 番組では尾畠さんが各地で災害が起きるたびに足を運び、遺品探しや泥かきに汗を流してきた映像を紹介。11年の東日本大震災では発生当初から約2年、宮城で復興活動。16年の熊本地震や昨年7月の九州北部豪雨、今年の西日本豪雨が発生した際も被災地に駆けつけた。

 小倉智昭キャスター(71)から「この度は本当にありがとうございました!」と絶賛され、「元気ですねぇ」と言われると「これが取り柄です」と尾畠さんは応じ、小倉氏が「歯は全部、ご自分の歯ですか」と聞くと「全部総入れ歯です」と答えていた。

今回の捜索を思ったきっかけを「地元の新聞を見て、2歳の子どもがいなくなっていうから。だけど現地の様子が分からないから13日夜まではニュース見たり新聞見たりして。14日朝に起きて新聞見たらまだ行方不明だっていうから慌てて荷物まとめて家を9時半に出発して一般国道通って現地に行ったんです」と振り返っていた。

小倉氏から「ボランティアができる場所があったらどこでも行っちゃうんですか?」と聞かれ「行きますね。法律に反しなかったら」と尾畠さんは即答していた。尾畠さんは65歳まで大分・別府市内で鮮魚店を経営していたが、「みなさんにお世話になったから社会にお返しをさせてもらおう」と仕事をやめてボランティアを始めた。
(なんとすごい考えの持ち主だろう )

 現在は国民年金で生活している尾畠さん。小倉氏は「国民年金って、そんなにたくさんもらえるわけじゃないから、ボランティアといっても方々に行ってお金がかかるじゃないですか?」と心配すると「だけどね、お金はいるだけあったらいいです。余分にいらないですから」と答えると、小倉氏から「普通はそうはいかないですよ」と示すと「いろんな考えがあるけど私は最低の物を食べてでもボランティアはさせてもらう」と尾畠さんは明かしていた。

世のため、人のために尽くすというのは一見当たり前のように見えるがよほど根底にそれが真の喜びだという信念がないとできないことである。悪い意味で言うのではないが、やはりわが身第一というのが当然のことである。そのわが身第一の信念を、困っている人がいたら自分を脇において、他人のために役立つことをするというのは、修行して我を乗り越える術を 身に着けた人しかできない。
尾畑さんの話を聞いていると、我もそうありたいとは思うけど、現実にはとてもできることじゃない。そういう我を知っているから、尾畑さんを尊敬する度合いが増してくる。彼は普通の人ではないと思う。小倉さんがうるっときたのはとてもよくわかった。

出るはため息

2018年11月08日 | Weblog
堅いことを言うわけじゃないが、日本の国のこの膨大な借金。付けは一体だれが払うのか。

返済のことを考えると、気が遠くなり、俺は知らんぞと投げ出してしまう。

政界経済界などがリードして作ったこの借金。増税によってしか返済の先は見えてこない。

付けの回った後世の子孫は恨むことだろう。というのはおそらく生活が苦しくなるだろう

からである。

現代の日本は歴史開闢以来一番平和で楽な生活ができた時代だろうが、この恵まれた環境を

子々孫々に残し伝えていくのが使命のはずが、どうくるっちゃったのか。

先が見えない不安というものを残しながら今日もくれゆく。あーあー。

東海第二原発

2018年11月08日 | Weblog
原子力規制委員会は20年の延長運転を認めた。

以前私は事故を起こしたときに、周辺住民の帰宅の実情について大きな不安を感じて、

これが規模がおおきくなると、最悪日本沈没になるのではないかと危惧し、

監督官庁の原子力規制委員会にもの申したことがあった。

現状は事故前の福島原発と同じで津波対策も出来ていないらしい。大問題でアル。

すこし振り返ってみるとかって東海村にあるウラン加工事業所で放射能漏れ事故が起きて

2人の犠牲者が出た。

この臨界事故で半径10キロの住民に避難勧告が出された。特に半径350mの住民は

地区センター閉じ込められ、10km圏内2日間たって自宅に戻れた。


 事故は作業ミスで発生し、ミスを起こし人はなくなった。

、これはこれで済むものではない。監督している原子職規制委員会にも責任がアル。

僕ら見れば2点において認識が甘い。原子力委員会が定めた規則通りに作業をすれば、

また機械の故障さえ起きなければ事故は起こらないという認識である。ここが徹底的に甘い認識だ。

人間はミスを犯すものだし機械は故障するものだという前提だすっぽり抜け落ちている。

一端原子力が暴れ出したら、現在の力では制御できない厄介者でアル。

だから想定外だとか事故を起こしたものが悪いなどとは一切説明にはならない。

ましてや言い訳を正当化できない

コントロール不能でアル原子力を扱うとすれば、覚悟と万全の備えがなくてはならないはずだが
津波対策も出来ていないようではとても許可を出せる状況にないはずだ。

周辺の住民との協定もまず賛成する自治体はないのを見越しての判断はあるのか。

避難対策は出来ているのか。特に首都圏が被災した場合は悪く行けば日本沈没だ。

その辺まで知恵が及んで出した運転許可なのか。事故が起きれば福島の二の舞に成る可能性が

十分あるのに、どんな配慮がなされて許可が出たのか皆目わからない。

許可を出す限りにおいてはこの辺の問題が解決されて、少なくとも解決の見通しがあってこそ

責任のおえる許可が出て説得力があるというものだ。

今回の許可は間違っているとしか言いようがない。どうせ住民や自治体が許可の実行を許さないだろう