日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
島津啓次郎墓石
それは眼下に市街地、錦江湾を隔てて桜島を大きく望む台地の上にあった。西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ2023名が眠るという墓地の一角だ。台地の上の鳥居をくぐると正面に西郷隆盛のどっしりとした墓碑が見える。本当にどっしりしている。それを囲むように、西郷軍の幹部だった桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武などの墓石が並んでいる。どれも大きく、ぎっしりと並んだ墓石からは、西郷軍の無念さが伝わるほどの威圧感を覚える。
目指したのは島津啓次郎の墓碑。一度は訪ねてみたいと思っていた。1mほどの自然石の上に3m近くはあるかと思える石柱に「島津啓次郎之墓」と刻まれている。他の墓石と場所も形状も違うのは、佐土原藩主の三男だったせいか。こちらには威圧感は無く、空に向けてすっくと立つっている姿は、未来を目指す青年のようでもある。脇の説明板には次のようにあった。
島津啓次郎
佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。
佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。
関心をもっているのは、啓次郎がアメリカ留学で身につけたという「自由民主」だ。佐土原の地元では若くして散った俊才として語られることが多いが、「自由民主」の内容にまで踏み込んで語られることはまずない。そのことに分け入り語ることになれば、より普遍性を持つことになるのだろう。帰国後に、同士と共にした「自立舎」という学習会や、西南戦争直前に開校されたばかりだった私学校「晑文黌(きょうぶんこう)」の名に目指したものの一端を垣間見る思いがする。
南洲墓地のそばには、西郷を歌った勝海舟の歌碑もあった。
ぬれぎぬを
干そうともせず
子供らが
なすがままに
果てし
君かな
干そうともせず
子供らが
なすがままに
果てし
君かな
西郷隆盛墓石
勝海舟歌碑
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