再び原点回帰なり!

未熟なビジネスマンの心のつぶやき

FESCO十年の歩みと思い出

2007-08-17 10:11:53 | コラム

「四十にして惑わず 五十にして天命を知る」

 FESCO設立後の十年は、まさにこの格言の実践。最近「天命を知る」ことの真意を悟った。「人間五十年も生きれば、自らの使命が解る」ではなく、「今まで大きな転機に耳元で聴いた声が、実は天命であった」のだと。

 創業一年目の登記上本社は、日本総研の私の机。出資企業8社によるネット上の会社、バーチャルコーポレーションを企図。

 二年目から日本総研一番町事務所の一角を借り、実態のある会社に。ソニーや松下電器のような大手優良企業工場から、省エネ診断要請が多いことにびっくり。自治体からは、三重県庁の北川知事経由で省エネ診断依頼が。出資企業の力を借りて、総合的な省エネ診断にまい進。コンプレッサーやコージェネが何かも良く知らないのに、省エネのプロを装って、内心冷や汗をかきながら、先方担当者と工場を巡回。しかし、なかなか採算が。

 三年目GW明け、某顧客から連休工事の強烈なクレームが。担当者と一緒に、四国から九州までのお詫び行脚が懐かしい思い出。あの時の豊後水道は五月晴れ。

 三番町の単独事務所に移ったのが、四年目の初夏(0061日)。社員も20名近くに。四期目013月期)は、なんとしても単年度黒字をと意気込むも、またもや赤字決算。ベンチャー死の谷への恐怖を満喫。

 コージェネのオンサイト事業スキームと出会って、五期目にやっと単黒達成。NEDOの合理化補助金も追い風に。

 六期目から、いよいよ上場を視野に。ただ、省エネESCOだけでは、成長に限界も感じ、バイオマス発電へ果敢に挑戦。最初に手がけた山形バイオマス計画の住民説明会は散々な結果に。それは032月末のこと。その約一年後、八期目0421日の日曜日に岩国計画の最終住民合意達成。最終的に地域住民に理解・歓迎され、喜びもひとしお。さらに、後発ながらも電力小売に挑戦。バイオマス電力をベースにした日本で最初のグリーンPPSを。

 上場は第九期の途中0534日。忘れもしない春の大雪と東証での打鐘。

 上場後の翌年06年・第十期は、正月早々から試練の連続。そして、現在に至り、FESCOはまだ大海の荒波の中。

 

今こうして十年の歳月を振り返ると、いつも自分の背後で「何か大きな力」の存在が。それは天の声だったと今は断言できる。天はその時々に合わせ試練を与え賜うたが、あきらめずへこまず乗り切れば、必ず最後は庇護していただける。

最近、私の耳元で聞こえる天の声は、

「この苦境を乗り切れば、FESCOの未来は明るいよ」と。


夏休み帰省中

2007-08-11 11:47:59 | チャット

810日の金曜日から、実家の愛知県犬山市に帰省中。この夏の恒例行事も、18歳で故郷を離れてから33年目になります。

いつ帰ってもあまり変わっていない故郷を見るにつけ、自分自身の原点を見る思いです。小学校の校庭の木々、小学校時代の友達の家々、良く通ったプラモデル屋さんやつり道具屋さんなどなど、町の隅々の風景には、40年以上前の記憶のまま、そこに在ります。

顔見知りの人には、ほとんど会うこともないのに、なぜか懐かしさを感じるのは、そこに変わらぬ原風景があるからでしょう。

14日火曜日には、東京に戻ります。


FESCO十年の歩みを振返って(12)

2007-08-11 09:05:24 | 連載・FESCO十年

FESCOの資本政策は成功したか?(2)

2005年3月の上場までの5回の増資のうち、第3回目が特に思い出深い。

その時のFESCOは、まさに「ベンチャーの死の谷底」にいた。この増資が成功しなければ、つまり増資に応じてくれる投資家が見つからなければ、早晩資金が枯渇して、倒産することになる。そんな瀬戸際の第三者割当増資であった。

何社かの事業会社の内諾は得たものの、やはり数千万以上の大きな金額となるとベンチャーキャピタル(VCを頼るしかない。

一方、省エネESCO事業は、なかなか赤字基調を抜け出せない状態であり、そのような時にVCを説得するのは至難の業である。やはり、「経営主体が不明確なことが不利に働くのか」と、創業時の資本政策の甘さを悔やんでも後の祭りである。

五里霧中状態でさまよいながら、ある方の紹介で某中堅VCの担当部長との邂逅を得た。その方は、今までのVC担当者とはまったく違った視点で私に迫ってきた。

まず、彼はESCOというビジネスモデルを徹底的に理解しようとされた。そして、しつこいくらいに事業内容について、突っ込んだ質問を浴びせてきた。

内心では「いろいろとうるさい人だな。どうせ無理だろうから、時間が惜しいな」と思いながらも、彼のあまりの熱心さに、こちらもついつい熱を入れて事業の意義や内容、また将来の夢とビジョンを説明した。

通常のVC担当者は、事業の黒字化がいつになるかというような収益上の問題が最大の関心事である。しかし、彼にとっては、もちろん収支は気にはするものの、まずは事業自体が社会に必要なものかどうか、その次にそれをやろうとしている社長の覚悟と人物がいかほどのものであるか、という二点が出資を決めるポイントだそうである。このことは、増資を決めていただいた後、彼の口から聞いたことである。

最終的に、彼の熱意でVC社内審査を押し通していただき、5千万円近い出資を得ることができた。こうして死の谷から、かろうじて這い出すことができたのである。今でも、この出会いには感謝している。

また、後日談ではあるが、この部長には、増資決定のしばらく後から上場が決まるまでの4年ほどの間、FESCOの社外取締役をお願いすることになったのである。

彼もまたFESCOファン」の一人となってくれたのである。


無題

2007-08-07 05:14:58 | チャット

「世の中の 人はなんとも 云わば云え  わがなすことは われのみぞ知る」

こういうことが有言実行できる大志抱く男になりたいと常々思ってはいるのですが、現実は・・・・・・・?

龍馬はすごい!

人間の器の大きさは、結局は生まれながらのものなのでしょうか?苦難や試練を乗り越えると、多少なりとも大きくなると信じたいものですが。果たして・・・・・・?


FESCO十年の歩みを振返って(11

2007-08-05 09:31:30 | 連載・FESCO十年

FESCOの資本政策は成功したか?(1)                              

創業時の資本金は五千万円。その約90%がコンソーシアム参加企業8社からの共同出資であり、残りが創業メンバーによる個人出資とした。

私も創業者としては異例の2%程度の少額出資であった。その時まで住宅ローンと幼い子供二人を抱えた普通のビジネスマンとして生きてきて、40歳というのは経済的な余裕の最もない時だったかもしれない。なかなか家庭内稟議が通らず、少額出資に甘んじることとなったが、そのことがその後何を意味するかは理解の範囲を超えていた。

というよりも、今だから言えることだが、資本のことが良く理解できていなかったというのが、正直なところかもしれない。また、こういうお金の問題を親身になって相談し、アドバイスをくれる人もあまりいないものである。

株式会社の所有と経営の関係など、ほとんど実感がなく、営業の推進と会社の運営だけが社長としての関心の的であった。

その後、いろいろな方から、「もう少し資本政策を考えた方が良いのでは?」という貴重なアドバイスを受けたにも関わらず、その時も良く理解しないままに、具体的な行動に移すことができなかった。

ただ2005年3月の上場までには、都合5回の第三者割当の形の増資を行った。最初から2回目までは、すべて新規の事業会社からの出資受け入れであった。この増資は、私にとっても、ほとんどコンソーシアムへの勧誘的なイメージであり、資本政策と呼べるものとは程遠い感覚で進めていた。

だからこそ、資本投入のスペシャリストであるベンチャーキャピタルのような業態からは、興味はいただくものの、最終的な出資審査ですべて拒否された。

「この会社は経営主体が不明確ですね。だから、出資判断がつかないのですよ!」

と、若いベンチャーキャピタリストからの冷ややかな言葉が忘れられない。