食の健康保険商モリエ米店

お客様とのコミュニケーションの場として開設しました。

わたしが一番きれいだったとき・・・・

2008年10月14日 | Weblog
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

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 あまり似つかわしくないのですが、私の好きな詩人 茨木のり子さんの
「わたしが一番きれいだったとき」の一節です。
 カルゲンのお客様で、上記の感想文を掲載させていただいたHさんの
小学校時代は、戦争真っ只中。

本来の校舎は陸軍の輜重隊に接収されていたため、近所の赤ちゃんを
子守しながら、曼荼羅寺の仮校舎に通い続け、高等小学校を卒業する
とすぐに、松山で逓信省の講習を受け、電信技士として今は香川銀行
になっている郵便局に勤めたそうです。

 戦争中だから、郵便配達だって女性の仕事です。

空襲警報が鳴るたびに、電信技士のHさんは、
与北町にあった中継所の安全確認に走っていったそうです。

 今ならちょうど高校1年か2年の年頃。

自由とか、平和とか、ましておしゃれなんか想いもよらなかった十代の夏。

少女たちも、それぞれに戦争の時代を生き抜いてきたんです。

もちろん戦後の混乱期だって、しっかり地に足つけて、歩き続けてきたんです。

「それが また、今度は後期高齢者保険やと」

冗談めかして、笑いながら語ってくれたHさん。

 話しを伺いながら頭に浮かんだのが、
『わたしが一番きれいだったとき』の詩でした。

この詩の最後の一節のように、美しい自分史を完成させるためにも、
元気で長生きしましょうよ。

 Hさん、あなたの元気な一歩が同世代の方たちの勇気に
なります。

空襲警報に追われて走ったあの頃を思えば、

「何のこれしき」ですよ。

でも、足元には気をつけて、転ばないようにしてください
                     ネ。
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