埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
法話 お通夜にて その2
現代社会では、
会場設定やその準備、知人への連絡等 さまざまな都合で、
お通夜を その方が亡くなった晩に執行することは
むしろ稀になりましたが、
もともとは 人が亡くなった晩に
親しい人々が集って来て 執り行うのが普通でした。
それは 何故か。
昔の臨終の場面を 想像してみて下さい。
自宅の奥で 家族や親戚、ごく親しい友人に看取られ、
その人の最後が 厳かに訪れる。
そこに 医師の立ち会いは ほとんどの場合 望めませんでした。
「息をしなくなった」
「心臓の鼓動が止まったようだ」
等と言っても、
専門家でない者が、
近親者という平静でいられようはずもない立場で、
死の判定という 極めて重要な事を
正確に下す事ができるはずがありません。
「もしかして まだ生きているのではないか」
「またすぐに 生き返るのではないか」
「生き返って欲しい」
と願うのが 近しい人達の心情であるはずです。
だから お通夜が必要なのです。
お年寄りから
「お通夜はにぎやかな方がよい」
と聞いた事がありませんか?
人が亡くなった、
或いは 亡くなったように見えるその晩、
家族、親戚、近所の友人知人が
枕元に集って来て 酒食をしながら 一晩を過ごす。
その気配に誘引されて
死者が生き返ってくれるのではなか、
目を開けてくれるのではかいか。
その願いが
お通夜の意義なのです。
温かかった身体が 次第に冷たくなっていって、
その場の人々にとっても
死を認めざるを得ない状態まで 番をする。
死を確認するための 一つの通過儀礼、
それが お通夜だと 言えるでしょう。
続く
会場設定やその準備、知人への連絡等 さまざまな都合で、
お通夜を その方が亡くなった晩に執行することは
むしろ稀になりましたが、
もともとは 人が亡くなった晩に
親しい人々が集って来て 執り行うのが普通でした。
それは 何故か。
昔の臨終の場面を 想像してみて下さい。
自宅の奥で 家族や親戚、ごく親しい友人に看取られ、
その人の最後が 厳かに訪れる。
そこに 医師の立ち会いは ほとんどの場合 望めませんでした。
「息をしなくなった」
「心臓の鼓動が止まったようだ」
等と言っても、
専門家でない者が、
近親者という平静でいられようはずもない立場で、
死の判定という 極めて重要な事を
正確に下す事ができるはずがありません。
「もしかして まだ生きているのではないか」
「またすぐに 生き返るのではないか」
「生き返って欲しい」
と願うのが 近しい人達の心情であるはずです。
だから お通夜が必要なのです。
お年寄りから
「お通夜はにぎやかな方がよい」
と聞いた事がありませんか?
人が亡くなった、
或いは 亡くなったように見えるその晩、
家族、親戚、近所の友人知人が
枕元に集って来て 酒食をしながら 一晩を過ごす。
その気配に誘引されて
死者が生き返ってくれるのではなか、
目を開けてくれるのではかいか。
その願いが
お通夜の意義なのです。
温かかった身体が 次第に冷たくなっていって、
その場の人々にとっても
死を認めざるを得ない状態まで 番をする。
死を確認するための 一つの通過儀礼、
それが お通夜だと 言えるでしょう。
続く
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