北のとうさんの鉄道旅・アマチュア無線JA8HBO

札幌に住むおやじが北海道を中心に鉄道旅の話題や無線の話題も織り交ぜてぼやきます。アマチュア無線のコールサインJA8HBO

冬の青函連絡船は・・・

2015年03月04日 | 青春18切符
私のツイッターの呟きへの反響が大きかったので、ブログで詳しくお話します。
「青函連絡船に乗ってみたかった」という方をタイムスリップして、冬型の気圧配置で低気圧が近づいた状況の下で乗せてあげたい。二度と乗りたいといわないだろうなw。女子は「キャー」、老婆は数珠を握って手を合わせる、まさに修羅場だよ・・・でも船員さんは平然としている。売店・食堂は当然閉鎖
 以上がツイッターの内容です(●^o^●)。
 まあ老婆が数珠を握って手を合わせたのは、小学生の頃に乗った夏場の連絡船でも見かけました。低気圧でも近づいていたのでしょうね。卑しくサラミを一本丸々食べてしまった私は、見事にそれをデッキから海に返還してしまい、母のそばで小さくなっていました。
86歳の母は、今でもその話を笑いながら話します。

冬、あまり時化るとデッキには出られないのですが、吹雪模様の中、デッキに出られたときの光景が忘れられません。左前方から北西の季節風が吹きつける中、船は風に流されるように右に船体を傾けながら進んでいました。
このまま流されて函館に着かないのではと心配したものです(笑)。
ですから冬は、風を背に受ける上り便は、あまり揺れなかったし、多少速かったような記憶があります。
陸奥湾を出て津軽海峡に入る頃には船の動揺は激しくなり、デッキは閉鎖されました。
食堂もレストランも閉鎖です。腹が減ると船酔いしやすくなるから困ったものです。
カレーライスが安くて旨かったですしね(●^o^●)。
吹雪で視界が悪いためか、頻繁に鳴る汽笛が恐怖感を煽ってくれます(+o+)。
やっと函館の桟橋に着いて地上に降りても、しばらくは揺れた感じが取れませんでした(´・ω・`)。
青函連絡船は津軽海峡で公海を通るわけですから、設備的にはしっかりしたものだったでしょうが、不安はいつも付いて回りました。
当時連絡船は500Khz辺りの周波数を使っていたのですが、AM変調された電信ですからAMラジオの選局ダイヤルの最も低いところでも聞けました。
電信の内容を聞くと、業務連絡と電報でした。
アマチュア無線が趣味の私の特権ですね。今では聞けませんが、いろいろと楽しめたものです。
 上野を夕方に出る臨時の急行十和田が朝早く青森に着くと、連絡船がすぐにはありません。臨時列車には接続が悪かったようです。青森の広い待合室で2時間も待ってから乗船。臨時の連絡船で揺れて函館に着くと、またまた接続の列車がありません。そこで2時間くらい待って、学生時代に親の住んでいた小樽や登別に着くのは午後3時頃でした。下宿を出てから24時間と言った感じです。
ところが、それが楽しい思い出になっているのです。また乗りたいと思う・・・・不思議なものですね(笑)

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寝台特急そして711系の終焉と雑感

2015年03月02日 | うんちく・小ネタ

JR北海道の3月14日・ダイヤ改正に合わせて二つの車両が消えていきます。
一つはトワイライトエクスプレス。もう一つは国鉄型711系電車、通称赤電車です。
でも、私にはトワイライト・エクスプレスに関しては、特段の思い出はありません。
敢えて言うなら、運行開始したときに大阪行きの方向幕を見て、青函トンネルの存在を強く意識したことくらいなものでしょうか。
そして、そのトンネルを通り、乗り換えなしで上野まで一晩で着くという寝台特急北斗星に乗車して覚えた感慨は、ほんとうに言葉では言い表せないものです。

私は函館で生まれ、10歳のときに公務員だった父の転勤で函館を離れました。その後は北東北を転々として、高校生のときに、再びの転勤で北海道に戻りましたが、1年ほどで大学進学のために千葉県に居を移しました。
卒業年時に日本を襲ったオイルショックによる就職難で、再び北海道に戻ることにはなりましたが、10歳から14年間は、ほとんどを北海道の外ですごしたために、帰省や親戚宅へ行くために津軽海峡を渡ることは100回以上に及びました。
大学生の頃には飛行機も一般的でしたが、一ヶ月の仕送りより高額な飛行機は貧乏公務員の子息にはまだ高嶺の花。学割で乗る「国鉄」が妥当な移動手段でした。十和田、八甲田、はくつる、ゆうづる、はつかりetcいろいろな列車が私を運んでくれました。
そして、青函連絡船・・・・・
「津軽海峡冬景色」というロマンティックな歌がありますが、歌とは違って冬の青函連絡船は船酔いと揺れへの恐怖との戦いでしたし、青森と函館では座席争奪のために桟橋を競走するように走ることも大変なことでした(笑)。
青森や函館に特急や急行が近づくと、車掌が「乗船名簿」配ります。住所・氏名を書いて連絡船乗船時に渡します。そして乗船した船内はカーペット敷きの自由席で小さな棚がしつらえてありました。そこに、ごろ寝でもできるなら上々ですが混雑していると、足を抱えてじっと座るだけです。夜間・早朝便には寝台もありましたが、4時間弱と短い上に料金も高いので、一食抜いてグリーン座席に座るのが小さな贅沢でした。最後の思い出作りと称して寝台特急に乗り、ディナーとかを食する現代の学生さんには想像だにできないことでしょう(笑)。
函館港の防波堤を出てしばらくして函館山を左手に見る頃、または青森を出て陸奥湾の出口に差し掛かる頃からの冬の青函航路は、恐怖との戦いでした。
私が2歳の頃に起きた15号台風の海難事故のことが頭をよぎる人も多かったことでしょう。船は縦に横に大きく揺れます。大波を受けると女性や子供たちの悲鳴が聞こえることもありました。
船酔いしやすい人は、さぞ大変だったかと思います。
冬の低気圧、夏の台風と、青函連絡船は事あるごとに運休しました。運休が長引くと物流が滞り、北海道の流通に与える影響は大きかったのです。
昭和61年の青函トンネルの開通は、本当に夢のようでした。札幌駅から乗り換えなしの青森・上野・大阪行きの列車がで出発していくのを眩しく眺めていました。
今では海が荒れたからと言って物流が滞ることも少なくなりました。フェリーでの物流も少なくありませんが、貨物列車の輸送経路が確保されていれば相当程度影響は抑えられます。実際のところ、本州と北海道の物流は本州方面の物流と比較しても貨物列車による輸送の比率が大きいのです。北海道からの農産物のほとんどはJR貨物が輸送しています。飛行機輸送は微々たるものです。
大量輸送は貨物列車の独壇場です(●^o^●)。
青函トンネルを新幹線が260キロで走れないから貨物列車が邪魔だなどと考える向きもありますが、北海道の物流を理解していない考え方だと思います。
フェリーがあるから大丈夫というのは青函連絡船の昔を知らないからいえることなのです。
さて、時代は移り、いよいよ函館まで新幹線が走ります。
試運転とはいえ、すでに青函トンネルを新幹線が走り始めました。この冬の試験走行は成功だったそうです。
 その試運転の時間確保の為もあり、来年3月の営業開始を前にトワイライトや北斗星が運行をやめたり、減便されます。
秋頃にはカシオペアがどうなるのか心配ですし。青森行きの急行はまなすは廃止されるとのことです。
いずれ、新幹線が札幌に延伸された暁には札幌駅で「東京行」の方向幕を見ることが出来るのでしょうが、しばらくの間、少なくとも15年間は見ることができないの可能性が大きいのです。
さて、711系は、私が五十の手習い?で始めた乗り鉄にはいつも居てくれる存在でした。
札幌の最寄り駅から千歳線と室蘭本線で東室蘭まで711系に乗って、キハ150・40に乗り換えて、函館まで行ったこともありました。
宗谷本線と石北本線を使った旅からの戻り、旭川駅ホームに居る赤電車を見ると「あと少し」という思いで、疲れも軽くなりました。
実は「赤電車」という呼び名は、石北線で列車交換時に親しくお話してくださった、私と同年代の運転士さんから聞いて覚えたものなのです。
最近は運転士さんに話しかけずらい雰囲気がありますが、また以前のようにお話したいものです。
旭川からは、ボックス席を独り占めして足を伸ばして弁当を拡げることができたのも楽しい思い出です。
これからは721系のクロスシートを倒して同じことかできればいいなと画策しています。
3月13日には5144M回送列車を自宅前の跨線橋近くで見送って、別れを惜しみたいと思います。
手を振ったら警笛鳴らしてくれるかな(´・ω・`)
いまから涙が出そうですね。

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