北海道の各地を渡り歩いて5年になる。
羆の話しはそうめずらしくもないし、驚きもしない。
最初の頃は、俄かには信じ難い話も多かった。
原野に分け入り、鬱葱(うっそう)たる森を切り拓いていた開拓の時代には、羆は常に身近にある危険であり、
恐怖だったに違いない。
襲われた被害も数知れずだったろう。
しかし、今は違う。
いたる所トンネルが穿たれ、道が通り鉄路が敷かれ、街が築かれた。
羆にまつわる恐ろし気な話しは、先代達の記憶には生々しくても、今の世代には遠くなっている。
それでも直接人家が襲われることはなくても、山に入る時は別だ。
羆は今でも北海道の山野には、普通に棲息している、この国で最大最強の猛獣なのだ。
高志はある時、飯場の共同風呂で、片腕の肩から肘にかけての引き吊った深い傷跡を見せられて、
山で羆と鉈(なた)一丁で渡り合って、できたものだと説明され、背筋がぞくりとなったことを思い出した。
彼は幸い挌闘中に崖から転げ落ちて、命拾いをしたと言う。
つい一昨年、旅館の食堂での話しも、未だ記憶に鮮やかだ。
近くの酪農家の牧場が襲われ、牛が一頭持ち去られた話しだ。
羆は屠った牛を引きずって行ったのだが、その通った跡のいたる所で、灌木や白樺の若木が引き
倒されていたと言う。
その時高志は何故か、羆が牛の後肢を肩に担いでずりずりと引きずって行く様と、その牛の角や
前肢がそこらの木に引っ掛かってなぎ倒されていくのを想像してなんだか子供の絵本の世界みた
いだと思っておかしくなった。