入れ歯
ある朝の早い時間でした。
ある地方都市の汽車の駅の待合室の食堂に、一組の老夫婦が互いにさえあいながら入ってきました。
食堂の中には3名ほどの客がいて、二人は席に座りました。背負った包みや地味な服装からして、田舎から今しがた来たように見える夫婦でした。
夫婦は座ってむつまじく話始めました。
「さあ、お前も早く座って。」
「あれまあ、腰が。」
「あの子が迎えに来てくれるって?」
「ええ、そうですから。ここに来るって。」
仲良く話をしながら座った夫婦は、海苔巻き1本とスープを注文しました。
人々の視線は夫婦に向いましたが、二人は何事も無いように互いに見つめあって注文したものが来るのを待ちました。
やっと海苔巻き一本と湯気の立つスープが出て来ました。ところがおかしなことが起こりました。
おじいさんはゆっくりと海苔巻きを食べ始めましたが、おばあさんは海苔巻きには手もつけないまま、熱いスープだけをふうふう吹きながら飲み、限りなく愛情に満ちた目でおじいさんを見つめていました。おじいさんを見つめるおばあさんの顔はこの上なく幸せな表情でした。
少し過ぎて、おじいさんが海苔巻きの皿をおばあさんの方に押してやり、入れ歯を取り始めました。そしてナプキンできれいに拭いて妻に渡しました。
おばあさんはその入れ歯を受け取り、何でもないように自分の口に入れました。そして残った海苔巻きをおいしそうに食べました。
おばあさんが海苔巻きを食べている間、おじいさんも子供のように天真な目で、おばあさんを見つめました。
たとえ互いにひとつずつの入れ歯を持つほどの余裕のある生活ではないけれど、夫婦の愛は、世の中のどの若いカップルも真似できないくらい深く濃く美しいものでした。