こんばんは。
暑かったですけれど、先日までより湿気がないので割とその分は楽に(でもないですけどね;)過ごせたようです。
今の時間、夕方の六時半過ぎ、ヒグラシが鳴いていますが、まだ秋には程遠いようです。
朝は爽やかに明けましたが、夕べはやはり寝苦しかったのは否めませんね(涼しいのかどうか、わからんですな;)
続けて書かせて頂いておりました物語、今日で終われるよう努めたいと思います。
アメリカで子供達の書画が発見されたという記事を読んでから二ヶ月が経っていました。
朝早くに散歩に出掛けようとしたところへ一本の電話がかかってきました。
「ハロー、伊藤花子さんのお宅ですか?本川小学校の三浦教頭先生からあなたのことを伺ってアメリカのワシントンDCからかけています。
シズミ・、マナーレです。」
マナーレさんという方から温かみのある声で電話を頂きました。
まるですぐ隣からかけてきているように感じられ、花子もなんとなくハローと言いたくなる思いがしました。
彼女のことは教頭先生から話をきいていましたが、まさか実際に話をするようになるとは思いもしなかったので初めは少しとまどいました。
でも彼女はとても日本語が上手で、それは元々広島生まれの大阪育ちだったからでした。
その後、アメリカ人と結婚して約三十五年間アメリカで生活しておられるそうで自分でも日系一世だといわれました。
話を聞いて、ますますアメリカが身近になったように感じました。
彼女は早速本題に入りましたが、話によると本川小学校で最初に絵を送ったという子供の消息がわかったのは私だったというのでした。
思いがけない話に驚きながらも、どのようにして自分達の絵が見つかったのか尋ねてみました。
彼女の話す日本は余計な前置きがなく、イエスノーがはっきりしていて、むしろわかりやすく感じました。
「二〇〇六年に私があの絵の存在を知った時、教会の方に経緯を聞いたのですがよくわかりませんでした。先日、ワシントンDCで広島・長崎平和
協会のリーダーをされているジョンさんという方から連絡があり、だいぶ事情がわかりました。あの絵は以前教会のメンバーだった方の自宅で
十年前に見つかったそうです。」
と彼女は早口に話しました。
「それは意外ですね。私はてっきり教会の倉庫に長い間、人知れず保管されていたものだとばかり思っていました・・・・・。」
「実は私も驚いているのです。あの絵は思いがけない所から奇跡的に発見されて、再び教会に戻って来ていたのです。」
彼女の話によれば、あの絵は一九九五年のある日、教会のメンバーであるジャネットさんという方が亡くなった母親の家の片付けをしていた時に
偶然見つけたそうです。
それ以来あの絵は教会の地下倉庫に保管され、まるで七夕のように一年に一回、ワシントンDCでの広島と長崎原爆慰霊祭の平和週間に取り出され
教会を訪問した人たちに公開されてきたということでした。
その前は何処にあったのだろう、不思議だと思い、花子はきっと絵の魂が生きていて運命の回路を巡り、再び人々に呼びかけたのではないかと
感じたのでした。
「随分昔のことなので当時を知る人は殆どいなかったけれど、戦後直ぐの時期に牧師のアシスタントをしていたジェーン・ファイファーさんという
方が見つかったのです。
彼女は今年九十歳ですが、当時のことはよく覚えておられました。贈り物を広島に送ったことや広島からのお礼が届いたことをはっきりと覚えて
おられました。彼女が最後に絵を見たのは一九五十年頃だったそうですよ。その当時、アメリカ支部省の方が担当して、しばらくアメリカ中の
学校を回ったそうです。しかしその後、絵が何処に行ってどういう経路を辿ったのか、何処で眠っていたのかはわからないということでした。」
絵を発見したジャネットさんも一九九六年に亡くなっているので、一九五十年以降どのような事情があり、いつの頃から彼女の母親があの絵を保管
してたのかは不明なままでした。
しかし確かなことは、花子たちが子供のときに描いた絵や書がアメリカで生き続け、二〇〇六年に、今話しているマナーレさんらに発見され、自分
達と再会できるということです。
花子らのあの懐かしい作品がアメリカで大事に保管され、教会を訪れた世界の多くの人々の目に触れ、人々の心を暖めていると聞いて、花子は感動
しました。
あの絵発見の新聞記事のおかげで、日本各地のクラスメイトや当時の懐かしい人らから連絡がありました。
戦争を乗り越えた広島の級友が今でもたくさん元気にしていることがわかって嬉しく思い、先生を囲んで小学校の同窓会をすることにもなりました。
久しぶりであの当時のみんなに会えるのです。
自分達の絵が長い時間、どこをどのように放浪していたのかはわからぬままですが、長い旅からようやく帰ってきた旅人のように、また元の場所で
静かに生き続けています。
今は新しい世代の教会のメンバーにより保管され、これからも世界の平和を祈る宝物として役立てられるそうです。
あの子供のときの悲しみと喜びの記憶が受け継がれていくのです。
それにしても、幼い自分達の描いた絵がこんな不思議な運命を辿ろうとは思いもしませんでした。
あの白いコスモスをバトンにして走っていた自分達が、ここまで走ってこられるなんて誰が想像したでしょうか。
「48色の夢のクレヨン」という本を、途中多少の前後がありますが、ほぼそのままに書かせて頂きました。
花子という女の子は架空の人物ですが、当時の話を元に上の文中に出てきておられるシズミ・マナーレ、正しくは重藤マナーレ静美さんという方が
やはり最初の頃に出てきた田舎(実際は当時の広島県双三郡吉舎町、現在の三次市)の母親の実家でお生まれになり、ひいてはそれがベースとなって
このお話が誕生したようです。
あとがきとして、彼女自身の言葉でも様々に綴られておられます。
彼女自身には被爆体験や、原爆が落とされた当時の記憶があるわけではありませんが、ご自身のお母様に話を聞いたり、被爆者の方に直接話を伺った
り、多くの当時の記録や資料を調べたりして、この話を書かれたようです。
彼女自身は、二十三歳で単身アメリカへ渡り、舞踊と演劇研究のため留学され、後にアメリカ人の夫となる方と結婚されました。
ご自身の持つ日本人、もっと言えば広島の血を引く者としての自分と、アメリカ人として育ったご子息の考え方の違いに思いを馳せ、そのような
ところからも原爆について知ってもらいたいと考えられたようで、結果的にこの物語を書かれたようです。
その他にも多くの事柄があり、フィクションではありますが、その殆どは真実に基づいた話であると語られております。
この物語の本を頂戴したのは、実は既に二年ほど前だあったかと思います。
きちんと読もうと思いながらも、自分の寝る頭元に置いて、いつしかそのままにしてしまっておりました。
最初にご紹介した折に初めて最初から目を通してみて、これは自分だけで収めておくのではなく、せめて此処を覗いて頂ける方にお伝え出来ればと
思い、恐れ多くも、また拙い文章ながらも、要約しながら書かせて頂いたものです。
文中にはまだ様々に語られていることがあり、それら全てをお伝え出来なかったことは申し訳ございません。
幼い純真な少女の目を通して語られた当時の広島、広島に限らずあの頃の日本はどこもあのような惨状であったのかもしれません。
俗に言う、原爆の日が近づいたから、殊更にこの物語をお伝えしようとしたのでもありません。
ですけれど昨日も少し申したように、世界が混沌としてきている今現在、一歩間違えればこのようなことにならないとも限りません。
紛争地といわれる場所は、未だに多くあり、この物語以上に悲惨な日常が続いているとされます。
真の平和とは何なのか、平和といわれる日本にあって今一度どのようにすべきであるのか、自分達自身が考える一助になれば、僭越では御座いますが
嬉しく思います。
もう少し、自分の思いや聞いたことなど書かせて頂こうと思いましたが、少し遅くなりました。
また日を改めて延べさせていただこうと思います。
本日もこのブログへのお付き合い、誠に有難うございました。
感謝申し上げます。
暑かったですけれど、先日までより湿気がないので割とその分は楽に(でもないですけどね;)過ごせたようです。
今の時間、夕方の六時半過ぎ、ヒグラシが鳴いていますが、まだ秋には程遠いようです。
朝は爽やかに明けましたが、夕べはやはり寝苦しかったのは否めませんね(涼しいのかどうか、わからんですな;)
続けて書かせて頂いておりました物語、今日で終われるよう努めたいと思います。
アメリカで子供達の書画が発見されたという記事を読んでから二ヶ月が経っていました。
朝早くに散歩に出掛けようとしたところへ一本の電話がかかってきました。
「ハロー、伊藤花子さんのお宅ですか?本川小学校の三浦教頭先生からあなたのことを伺ってアメリカのワシントンDCからかけています。
シズミ・、マナーレです。」
マナーレさんという方から温かみのある声で電話を頂きました。
まるですぐ隣からかけてきているように感じられ、花子もなんとなくハローと言いたくなる思いがしました。
彼女のことは教頭先生から話をきいていましたが、まさか実際に話をするようになるとは思いもしなかったので初めは少しとまどいました。
でも彼女はとても日本語が上手で、それは元々広島生まれの大阪育ちだったからでした。
その後、アメリカ人と結婚して約三十五年間アメリカで生活しておられるそうで自分でも日系一世だといわれました。
話を聞いて、ますますアメリカが身近になったように感じました。
彼女は早速本題に入りましたが、話によると本川小学校で最初に絵を送ったという子供の消息がわかったのは私だったというのでした。
思いがけない話に驚きながらも、どのようにして自分達の絵が見つかったのか尋ねてみました。
彼女の話す日本は余計な前置きがなく、イエスノーがはっきりしていて、むしろわかりやすく感じました。
「二〇〇六年に私があの絵の存在を知った時、教会の方に経緯を聞いたのですがよくわかりませんでした。先日、ワシントンDCで広島・長崎平和
協会のリーダーをされているジョンさんという方から連絡があり、だいぶ事情がわかりました。あの絵は以前教会のメンバーだった方の自宅で
十年前に見つかったそうです。」
と彼女は早口に話しました。
「それは意外ですね。私はてっきり教会の倉庫に長い間、人知れず保管されていたものだとばかり思っていました・・・・・。」
「実は私も驚いているのです。あの絵は思いがけない所から奇跡的に発見されて、再び教会に戻って来ていたのです。」
彼女の話によれば、あの絵は一九九五年のある日、教会のメンバーであるジャネットさんという方が亡くなった母親の家の片付けをしていた時に
偶然見つけたそうです。
それ以来あの絵は教会の地下倉庫に保管され、まるで七夕のように一年に一回、ワシントンDCでの広島と長崎原爆慰霊祭の平和週間に取り出され
教会を訪問した人たちに公開されてきたということでした。
その前は何処にあったのだろう、不思議だと思い、花子はきっと絵の魂が生きていて運命の回路を巡り、再び人々に呼びかけたのではないかと
感じたのでした。
「随分昔のことなので当時を知る人は殆どいなかったけれど、戦後直ぐの時期に牧師のアシスタントをしていたジェーン・ファイファーさんという
方が見つかったのです。
彼女は今年九十歳ですが、当時のことはよく覚えておられました。贈り物を広島に送ったことや広島からのお礼が届いたことをはっきりと覚えて
おられました。彼女が最後に絵を見たのは一九五十年頃だったそうですよ。その当時、アメリカ支部省の方が担当して、しばらくアメリカ中の
学校を回ったそうです。しかしその後、絵が何処に行ってどういう経路を辿ったのか、何処で眠っていたのかはわからないということでした。」
絵を発見したジャネットさんも一九九六年に亡くなっているので、一九五十年以降どのような事情があり、いつの頃から彼女の母親があの絵を保管
してたのかは不明なままでした。
しかし確かなことは、花子たちが子供のときに描いた絵や書がアメリカで生き続け、二〇〇六年に、今話しているマナーレさんらに発見され、自分
達と再会できるということです。
花子らのあの懐かしい作品がアメリカで大事に保管され、教会を訪れた世界の多くの人々の目に触れ、人々の心を暖めていると聞いて、花子は感動
しました。
あの絵発見の新聞記事のおかげで、日本各地のクラスメイトや当時の懐かしい人らから連絡がありました。
戦争を乗り越えた広島の級友が今でもたくさん元気にしていることがわかって嬉しく思い、先生を囲んで小学校の同窓会をすることにもなりました。
久しぶりであの当時のみんなに会えるのです。
自分達の絵が長い時間、どこをどのように放浪していたのかはわからぬままですが、長い旅からようやく帰ってきた旅人のように、また元の場所で
静かに生き続けています。
今は新しい世代の教会のメンバーにより保管され、これからも世界の平和を祈る宝物として役立てられるそうです。
あの子供のときの悲しみと喜びの記憶が受け継がれていくのです。
それにしても、幼い自分達の描いた絵がこんな不思議な運命を辿ろうとは思いもしませんでした。
あの白いコスモスをバトンにして走っていた自分達が、ここまで走ってこられるなんて誰が想像したでしょうか。
「48色の夢のクレヨン」という本を、途中多少の前後がありますが、ほぼそのままに書かせて頂きました。
花子という女の子は架空の人物ですが、当時の話を元に上の文中に出てきておられるシズミ・マナーレ、正しくは重藤マナーレ静美さんという方が
やはり最初の頃に出てきた田舎(実際は当時の広島県双三郡吉舎町、現在の三次市)の母親の実家でお生まれになり、ひいてはそれがベースとなって
このお話が誕生したようです。
あとがきとして、彼女自身の言葉でも様々に綴られておられます。
彼女自身には被爆体験や、原爆が落とされた当時の記憶があるわけではありませんが、ご自身のお母様に話を聞いたり、被爆者の方に直接話を伺った
り、多くの当時の記録や資料を調べたりして、この話を書かれたようです。
彼女自身は、二十三歳で単身アメリカへ渡り、舞踊と演劇研究のため留学され、後にアメリカ人の夫となる方と結婚されました。
ご自身の持つ日本人、もっと言えば広島の血を引く者としての自分と、アメリカ人として育ったご子息の考え方の違いに思いを馳せ、そのような
ところからも原爆について知ってもらいたいと考えられたようで、結果的にこの物語を書かれたようです。
その他にも多くの事柄があり、フィクションではありますが、その殆どは真実に基づいた話であると語られております。
この物語の本を頂戴したのは、実は既に二年ほど前だあったかと思います。
きちんと読もうと思いながらも、自分の寝る頭元に置いて、いつしかそのままにしてしまっておりました。
最初にご紹介した折に初めて最初から目を通してみて、これは自分だけで収めておくのではなく、せめて此処を覗いて頂ける方にお伝え出来ればと
思い、恐れ多くも、また拙い文章ながらも、要約しながら書かせて頂いたものです。
文中にはまだ様々に語られていることがあり、それら全てをお伝え出来なかったことは申し訳ございません。
幼い純真な少女の目を通して語られた当時の広島、広島に限らずあの頃の日本はどこもあのような惨状であったのかもしれません。
俗に言う、原爆の日が近づいたから、殊更にこの物語をお伝えしようとしたのでもありません。
ですけれど昨日も少し申したように、世界が混沌としてきている今現在、一歩間違えればこのようなことにならないとも限りません。
紛争地といわれる場所は、未だに多くあり、この物語以上に悲惨な日常が続いているとされます。
真の平和とは何なのか、平和といわれる日本にあって今一度どのようにすべきであるのか、自分達自身が考える一助になれば、僭越では御座いますが
嬉しく思います。
もう少し、自分の思いや聞いたことなど書かせて頂こうと思いましたが、少し遅くなりました。
また日を改めて延べさせていただこうと思います。
本日もこのブログへのお付き合い、誠に有難うございました。
感謝申し上げます。