こんばんは。
今日は概ね曇っておりましたけれど、その分日中はかなり涼しく感じられました。
吹く風が生ぬるくない(笑)。
もうこれだけで随分と違いますね。
ですが、昨夜は寝る前も、もうどうにもこうにも出来んくらいにムシムシでした;。
夜中に雨が降っていたようで、それで少し涼しくなったのかもしれませんね。
そんな今朝は、此方。
曇っておりました。
夢をよく見る、というよりも皆さんも必ずご覧になっておられると思うのですが、起きた途端、あっさりスッパリ忘れてしまうこともしばしば
なのではと感じております。
自分もそんな中?の一人でして。
昨夜も、どうも夢の中にどなたかご出演なさって下さったのですけれど、思い出せません;。
それもかなりの豪華キャストだった気がする;。
あ~、この人出てるわ~、なんでぇ?とか夢うつつで感じていたようなのですけれどね。
どうやら明け方くらいに、そんな夢を見てもう一度眠ったらしく、二度目に起きた時にはしっかりスッパリ忘れ去られておりました;。
いずれ、そんな夢の中で感じた面白い話など、もし覚えていてしかも自分が書き出した文字が判読出来るようでしたら(起きぬけにノートに書き
記していると、後でそれを見返しても書いた自分ですら読めません;)ご披露したいと思います。
って、出来るんかいな。
上の写真は、今日のものではありません、あしからず。
かなり以前、日没少し手前位に東の空に虹と思しき色味が、ほんの少し見えたのを撮ったものです。
ちょうど奥の山の上くらいに見えておりましたけれど、普通の虹とは少し違う感じがしたのを覚えております。
それとも消えかかっていた虹をたまたま見かけたのでしょうか、ちょっとわかりませんね。
そんな話とは全く関係なく;、今日は別のことについて書いてみようと思います。
今日はかなり涼しくもあり、最近は暑さだけでバテておりましたので何にもする気が起こらなかったのですけれど、今朝は少し本でも読んで
みようかと本を引っ張り出して読んでみました。
というよりも、大体寝る前に何がしかの本を読みながら寝るのが習慣になっており、昨夜は枕元にあった本に手を伸ばした次第です。
その本は、
坂本政道氏著
高次意識トートが語る ベールを脱いだ日本古代史
という著書です。
ご存知の方もおられるでしょうけれど、この坂本さんという方は、ヘミシンクという分野で日本での第一人者という定義付けをされておられる
方ですね。
そも、そのヘミシンクとは『ヘミシンクは、モンロー研究所によって特許取得されたオーディオ・ガイダンス技術』を使い、特定のサウンド
パターンにより、『深くリラックスした状態、睡眠、瞑想、知覚の拡大した状態、至高体験など、通常とは異なる意識状態』になっていくもの
とされております。
詳しくは検索してみられるのがわかりやすいかと思います。
その坂本さんご自身がこのヘミシンクにより高次の意識体との交信により、これまでの日本史とは違う見方で解釈しておられる著書といえる
かと思います。
その中で、日本書紀や古事記という「記紀」といわれている中には出てこない「ニギハヤヒ」について述べられております。
この著書を買って後、何度か目を通しているのですけれど、その度に自分自身がその書かれている内容のどこに興味を感じるのか、その時々で
不思議と違ってきております。
最初は、この中にも書かれております「大物主大神」と「大国主大神」との関連性についてかなり興味がわいたのですけれど、今回は今でも謎と
されている「ニギハヤヒ」に心惹かれました。
ただ、申し訳ないのですけれど、今回この本題とは少し離れた視点から、この「ニギハヤヒ」を感じてみることにしました。
いわば此処まではかなり長い前置き、前振りみたいなものですね;。
申し訳ありません、もしこの著書についての興味がおありのようでしたらば、ご自身でこちらもまた検索してみられて下さい。
ただし、アマゾン等のレビューにあるように、あちらの世界?に興味や関心のない方にとっては、こんな出まかせの本なんて、とかなりの酷評が
あるのも事実です。
ですけれど、ちょっと向こうの世界やらに興味がある方でしたらば、随分と目からうろこの情報がてんこ盛りかと思います。
その点では、自分もこの中で述べられております箸墓古墳についての長年の謎が解けた思いがしたのも、また事実です。
さてその「ニギハヤヒ」何がどうしたかというとですね、この名前そのものについて、一体どのような意味合いがあるのだろうかと、これまたい
つもの如く、ふと感じたわけです。
「ニギハヤヒ」という言葉の持つ音そのものは、どういう意味があるのだろうと考えたのです。
以前にも少し書かせて頂いたかと思いますけれど、一字一字の文字には固有の意味、また波動、波長があるとされております。
その部分から観ると、どう解釈出来るのかと考えて少し調べてみました。
今回、その一文字毎にエネルギーが宿っているとして、これもまた古代の「カタカムナ」文字の研究をされておられる方の著書を参考にさせて
頂きました。
吉野信子氏著
カタカムナ 言霊の超法則
という著書です。
カタカムナも、これまた説明しますとこれだけでかなりの文章となってしまいそうですので、これもまた申し訳ございませんが、詳しくはこの
著書をお読み頂ければ、と存じます。
かなり説明を端折っておりますけれど、申すようにこの「ニギハヤヒ」の言葉そのものを、カタカムナで云われている一文字ずつに当てはめて
考えてみました。
「ニ」 圧力
「ギ」 内なるエネルギー 気(この場合は氣かとも感じます) 濁音がつくと内なるという意味が加わる
「ハ」 引き合う
「ヤ」 飽和する
「ヒ」 根源から出る、(入る)
という意味となります。
これを上から順番に繋げてみると
圧力のある、或いはかかった内なるエネルギーが引き合い、やがて飽和し、その根源から出て行く、(または入ってくる)
と考えられるのかな、と感じます。
元々、このカタカムナという文字自体、円と線の組み合わせで出来た記号のような文字です。
ですけれど、書かれてある文字をずっと眺めていると、二次元上の半円が描かれているにもかかわらず、いつの間にかそれが球であり、それを
二次元で見た時、平面で表した時の形状で書かれているのだなと感じるようになりました。
この事は、この著書の中でも既に既成の事実として述べられており、多くの研究者によっても同様に云われていることです。
後は自分がその文字を観て、頭の中でそれを球に置き換えられるかどうかだと思います。
そのようにして文字を考え、手っ取り早くには図にして書いてみると、その文字の成り立ちそのものが急に広大な広がりを感じさせるように
思えてきます。
自分で図を、絵を描きながら拙い頭を振り絞りながら考えると、最初の「ニ」の文字の圧力という意味が相当なものに感じられてきます。
圧力をかけた「ギ」の文字、内なるエネルギー、すなわち氣は更に凝縮され濃くなっていくようです。
それが今度は離れたそのような氣、エネルギー同士が「ハ」の音で引き合い、「ヤ」やがて次第に飽和状態となり「ヒ」、その根源から出て行く
そのように感じられます。
自分で絵を描いてイマジネーションを膨らませると、物凄く凝縮されたエネルギー同士が引き合いながら調和し、それがやがて溢れる程に飽和状
態となり、耐え切れずにその大元から溢れ出す、このような事が感じ取れました。
少し自分が変わっているのだろうと思いながらも(そこのところは否めない事実ですけれど;)、この想像だけで、本当に頭がクラクラしそう
でした。
こんなエネルギーに溢れた名前をもった人物、もし彼が歴史の表舞台に出て来ていたとするならば、その名前だけで十分に活躍が期待できそうです。
しかしながら、この表舞台にはその名前は殆ど記されていないとされております。
案外、そのような名前のエネルギーを知らず知らずに感じ、記紀の編纂時には敢えてこの人物を遠ざけたのでしょうか、主役となる部分に重きを
置きたいが為に。
真相は当然ながら、知る由もありません。
ですけれど名前一つとっても、その言葉の響きの大きさ、重さに改めて感じ入った次第です。
オバサンの取るに足らない、今日の考察でございました;。
また何か書いとるな~、と思っておいて頂ければ、と思います。
お粗末さまで御座いました。
こんな今日のブログ、お付き合い頂きました皆さん、有難うございました。
感謝申し上げます。
今日は概ね曇っておりましたけれど、その分日中はかなり涼しく感じられました。
吹く風が生ぬるくない(笑)。
もうこれだけで随分と違いますね。
ですが、昨夜は寝る前も、もうどうにもこうにも出来んくらいにムシムシでした;。
夜中に雨が降っていたようで、それで少し涼しくなったのかもしれませんね。
そんな今朝は、此方。
曇っておりました。
夢をよく見る、というよりも皆さんも必ずご覧になっておられると思うのですが、起きた途端、あっさりスッパリ忘れてしまうこともしばしば
なのではと感じております。
自分もそんな中?の一人でして。
昨夜も、どうも夢の中にどなたかご出演なさって下さったのですけれど、思い出せません;。
それもかなりの豪華キャストだった気がする;。
あ~、この人出てるわ~、なんでぇ?とか夢うつつで感じていたようなのですけれどね。
どうやら明け方くらいに、そんな夢を見てもう一度眠ったらしく、二度目に起きた時にはしっかりスッパリ忘れ去られておりました;。
いずれ、そんな夢の中で感じた面白い話など、もし覚えていてしかも自分が書き出した文字が判読出来るようでしたら(起きぬけにノートに書き
記していると、後でそれを見返しても書いた自分ですら読めません;)ご披露したいと思います。
って、出来るんかいな。
上の写真は、今日のものではありません、あしからず。
かなり以前、日没少し手前位に東の空に虹と思しき色味が、ほんの少し見えたのを撮ったものです。
ちょうど奥の山の上くらいに見えておりましたけれど、普通の虹とは少し違う感じがしたのを覚えております。
それとも消えかかっていた虹をたまたま見かけたのでしょうか、ちょっとわかりませんね。
そんな話とは全く関係なく;、今日は別のことについて書いてみようと思います。
今日はかなり涼しくもあり、最近は暑さだけでバテておりましたので何にもする気が起こらなかったのですけれど、今朝は少し本でも読んで
みようかと本を引っ張り出して読んでみました。
というよりも、大体寝る前に何がしかの本を読みながら寝るのが習慣になっており、昨夜は枕元にあった本に手を伸ばした次第です。
その本は、
坂本政道氏著
高次意識トートが語る ベールを脱いだ日本古代史
という著書です。
ご存知の方もおられるでしょうけれど、この坂本さんという方は、ヘミシンクという分野で日本での第一人者という定義付けをされておられる
方ですね。
そも、そのヘミシンクとは『ヘミシンクは、モンロー研究所によって特許取得されたオーディオ・ガイダンス技術』を使い、特定のサウンド
パターンにより、『深くリラックスした状態、睡眠、瞑想、知覚の拡大した状態、至高体験など、通常とは異なる意識状態』になっていくもの
とされております。
詳しくは検索してみられるのがわかりやすいかと思います。
その坂本さんご自身がこのヘミシンクにより高次の意識体との交信により、これまでの日本史とは違う見方で解釈しておられる著書といえる
かと思います。
その中で、日本書紀や古事記という「記紀」といわれている中には出てこない「ニギハヤヒ」について述べられております。
この著書を買って後、何度か目を通しているのですけれど、その度に自分自身がその書かれている内容のどこに興味を感じるのか、その時々で
不思議と違ってきております。
最初は、この中にも書かれております「大物主大神」と「大国主大神」との関連性についてかなり興味がわいたのですけれど、今回は今でも謎と
されている「ニギハヤヒ」に心惹かれました。
ただ、申し訳ないのですけれど、今回この本題とは少し離れた視点から、この「ニギハヤヒ」を感じてみることにしました。
いわば此処まではかなり長い前置き、前振りみたいなものですね;。
申し訳ありません、もしこの著書についての興味がおありのようでしたらば、ご自身でこちらもまた検索してみられて下さい。
ただし、アマゾン等のレビューにあるように、あちらの世界?に興味や関心のない方にとっては、こんな出まかせの本なんて、とかなりの酷評が
あるのも事実です。
ですけれど、ちょっと向こうの世界やらに興味がある方でしたらば、随分と目からうろこの情報がてんこ盛りかと思います。
その点では、自分もこの中で述べられております箸墓古墳についての長年の謎が解けた思いがしたのも、また事実です。
さてその「ニギハヤヒ」何がどうしたかというとですね、この名前そのものについて、一体どのような意味合いがあるのだろうかと、これまたい
つもの如く、ふと感じたわけです。
「ニギハヤヒ」という言葉の持つ音そのものは、どういう意味があるのだろうと考えたのです。
以前にも少し書かせて頂いたかと思いますけれど、一字一字の文字には固有の意味、また波動、波長があるとされております。
その部分から観ると、どう解釈出来るのかと考えて少し調べてみました。
今回、その一文字毎にエネルギーが宿っているとして、これもまた古代の「カタカムナ」文字の研究をされておられる方の著書を参考にさせて
頂きました。
吉野信子氏著
カタカムナ 言霊の超法則
という著書です。
カタカムナも、これまた説明しますとこれだけでかなりの文章となってしまいそうですので、これもまた申し訳ございませんが、詳しくはこの
著書をお読み頂ければ、と存じます。
かなり説明を端折っておりますけれど、申すようにこの「ニギハヤヒ」の言葉そのものを、カタカムナで云われている一文字ずつに当てはめて
考えてみました。
「ニ」 圧力
「ギ」 内なるエネルギー 気(この場合は氣かとも感じます) 濁音がつくと内なるという意味が加わる
「ハ」 引き合う
「ヤ」 飽和する
「ヒ」 根源から出る、(入る)
という意味となります。
これを上から順番に繋げてみると
圧力のある、或いはかかった内なるエネルギーが引き合い、やがて飽和し、その根源から出て行く、(または入ってくる)
と考えられるのかな、と感じます。
元々、このカタカムナという文字自体、円と線の組み合わせで出来た記号のような文字です。
ですけれど、書かれてある文字をずっと眺めていると、二次元上の半円が描かれているにもかかわらず、いつの間にかそれが球であり、それを
二次元で見た時、平面で表した時の形状で書かれているのだなと感じるようになりました。
この事は、この著書の中でも既に既成の事実として述べられており、多くの研究者によっても同様に云われていることです。
後は自分がその文字を観て、頭の中でそれを球に置き換えられるかどうかだと思います。
そのようにして文字を考え、手っ取り早くには図にして書いてみると、その文字の成り立ちそのものが急に広大な広がりを感じさせるように
思えてきます。
自分で図を、絵を描きながら拙い頭を振り絞りながら考えると、最初の「ニ」の文字の圧力という意味が相当なものに感じられてきます。
圧力をかけた「ギ」の文字、内なるエネルギー、すなわち氣は更に凝縮され濃くなっていくようです。
それが今度は離れたそのような氣、エネルギー同士が「ハ」の音で引き合い、「ヤ」やがて次第に飽和状態となり「ヒ」、その根源から出て行く
そのように感じられます。
自分で絵を描いてイマジネーションを膨らませると、物凄く凝縮されたエネルギー同士が引き合いながら調和し、それがやがて溢れる程に飽和状
態となり、耐え切れずにその大元から溢れ出す、このような事が感じ取れました。
少し自分が変わっているのだろうと思いながらも(そこのところは否めない事実ですけれど;)、この想像だけで、本当に頭がクラクラしそう
でした。
こんなエネルギーに溢れた名前をもった人物、もし彼が歴史の表舞台に出て来ていたとするならば、その名前だけで十分に活躍が期待できそうです。
しかしながら、この表舞台にはその名前は殆ど記されていないとされております。
案外、そのような名前のエネルギーを知らず知らずに感じ、記紀の編纂時には敢えてこの人物を遠ざけたのでしょうか、主役となる部分に重きを
置きたいが為に。
真相は当然ながら、知る由もありません。
ですけれど名前一つとっても、その言葉の響きの大きさ、重さに改めて感じ入った次第です。
オバサンの取るに足らない、今日の考察でございました;。
また何か書いとるな~、と思っておいて頂ければ、と思います。
お粗末さまで御座いました。
こんな今日のブログ、お付き合い頂きました皆さん、有難うございました。
感謝申し上げます。