日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

忽然と消える 

2017-08-07 22:30:30 | 不思議なお話
こんばんは。
夜半から朝方、というよりも昼に掛けては台風5号の影響で雨模様でしたが、最初の予報の進路より少しずれたせいか、それほど酷くもならずに
済みました。
多少の風はありましたが、お蔭様でこの辺りは稲が倒れるほどのこともなく済まさせて頂けました、有難い事です。
ですけれど、今現在台風の進路に当たる方、また通過後もかなりの被害のあられた地域の皆様にはお見舞い申し上げます。

そのような日の朝は、此方のようなお天気でした。


                                


昨日の続きを、と考えておりましたが少し趣向を変えて書かせて頂きますね。

このブログでブックマークさせて頂いております癒し雑貨店長の加藤さんから買い求めました香りのお試し品があるのですけれど、少しづつを
小さな小分けのビンに入れたものを幾つか持っております。
様々な香りを試せるように、親切にも彼女自身がそのように考えて販売されております。
その香りのビンを送って頂いた小袋毎、自分は一つの大袋に入れて置いているのですが、一昨日いつものように、その香りの中から何種類かを
取り出し、紙の栞に付けて香らせようとしていました。
ところが、いつも自分で保管しているはずの鏡台の上にその袋が見当たらないのです。
え、おかしいな?いつも此処へ置いておくのに?と思いながら、その周辺を鏡台の椅子の向こうに落ちているんじゃないか、と思いながら探すの
ですが、全く見つかりません。
あれぇ、変だなぁ、此処しか置かないのになぁ、と自分で自分にクエスチョンマークを出しながらほかの場所を探すのですが、やはり出てきません。
置くわけもないのに、と考えつつも二階の部屋を探したり、まさか無いよね?と思いながら神殿を見渡したりしますが、一向に見つかる気配すら
ありません。
仕方ないなぁ、またどっか飛ばしたかなぁ、そう自分で自分に考えておりました。


                                 


昔からなのですけれど、何がしかがあると、いえ無くても;、ともすれば自分が大事にしているものをどこかへ飛ばしたのか、という位、物が
どこかへ行くことがあります。
無くす或いは見えなくなる少し前、自分でも無意識にその物に対して、これ、今はいいかなぁ、とか新しいのが欲しいなぁとかということを
チラッと頭のどこかで考えているようなのです、どうやら;。
で、そんなチラリと考えたことなど当然無かったかのようにして忘れてしまい、しばらくするとその物が見えなくなるという仕組み?になって
いるように感じます。
なんというのか、自分の思いをその物が受け取り、
『あ、ワタシ、今いらないのね。じゃぁしばらく消えておこう』
と、まるでその物自体が考えているように感じます。
消えたその物はどこへあるのか、本当に消えているのかどうか、それは定かではありませんが、しばらくの間は、いくら探したとてその物が出て
くることはありません。
本当に自分でも不思議です。

以前は、よく使う湯のみとかが無くなり、あれ、無いや、と思っていると台所の流しの引き出しの中から出てきたりすることがありました。
なんで、此処?と思いつつも、まぁあったから良しとするかとあまり頓着もせず、今一度その湯飲みを洗って普通に使っておりました。
或いは鋏など、どうして此処から出てくるの?的な場所から見つかることもままありました。

                             
                                                                     


息子などは、このようなことが頻回に起こり、自分の注意欠如なのかもしれない、とよく自分で自分に怒り落ち込んでおりました。
確かに、自分でそのものの場所を決めておいても、つい何も考えずに全く別の場所へ置くこともあるようなのですけれど、此方から見ていると
どうやら彼自身も、物を無くす前には、その物自体に対して何がしかの悪態(失礼;)をついておることがままあります。
そうしてしばらくすると
「あ~、ない!原付のキーがない!もう出掛けんといけんのに;!」
と半分怒りながら探していたりします;。
そうなると自分も一緒に探さざるを得ず、家中をあっちかこっちか、と探し回ります。
大抵はやはり、どうしてそこへ置きました?という場所から出てくることがあるのですけれど、無い場合は仕方なくスペアキーを使って出掛けて
おりました。
それでも、いつぞやはそのスペアキーもどこかへ行ってしまい、殆どパニックになっておりましたが、そんな時はこれもまた不思議なことに、
先ほど探した時には無かった同じ場所から不意に出てくることがありました。
もうどう考えても、物自体が
『しょうがないねぇ、じゃぁ出てやるか』
と向こうが折れてくれて?出てくるように感じられたのでした。
そんな折には息子は文句タラタラ言っておりますが彼が出掛けた後、その物に対してごめんね、気をつけるから、と心の中で息子に代わり;?
謝っておきます。
そうすると、あれほど無い無いと大騒ぎをしていた物がそれ以降は消えるということはほぼなくなるようでした。

                                     


今回、自分のその大事にしております香りの大袋、どうなったかと申しますと今日無事に出てきてくれました、ホッとしております:。
綺麗に整理整頓しておかねば、と息子にはいうくせに自分が出来ておりませんでして;;、今回ずっと気になっていた鏡台の周りやらごちゃごゃと
した棚を、いらないものは処分してスッキリとさせました。
そうするうちに、最後に本と本の間に挟まるようにして、その袋がありました、本当に良かったです。
どうやら先日読んだ本と一緒に棚の中へ無造作に入れてしまったようでした。
息子のことをとやかく言える立場では到底ありませんね、反省しております;。
そうしてその香りの袋にごめんね、もう悪いこと思いません、と謝っておきました。


                                  

自分の思いで、物をどこかへ飛ばしてしまうのか、或いはたまたまそのように感じるだけなのか、実際のところはよくわかりません。
ですけれど、先ほども書きましたように、同じ場所を探しても一度目は見つからず、後でもう一度探すと、え、さっきは無かったのに、という
ことがよくあります。
これは以前、自分自身がまるで神隠しにあった時に良く似ているようにも思えます。
それこそ、物そのものがまるで次元の違うところへ隠れてしまっているようです。
出てくるのは、やはり人間側の出てきて欲しいという思い、念が今一度、その物の姿を目の前に現させているようにも思えます。
果たしてそうであるかどうか、それこそ物のみぞ知る、いえ神のみぞ知る、ということなのかもしれませんね。


                                  


ただ、どうしても出てこない物もこれまでにありました。
主人が亡くなる少し前、息子が財布が欲しいというので、主人が使っていた長財布を渡してやったことがあります。
それは以前、主人の誕生日に自分がプレゼントした品でした。
介護が要る生活となり、その財布も本人が使うことも無くなったので、一応主人に了解を得て、息子に譲ってやりました。
さほど高価なものではありませんでしたけれど、黒い本皮の割と上品な物でした。
それを持たせてどのくらいでしょうか、ひと月かそこらだったでしょうか、その財布を息子が無くしてしまいました。
おそらくあそこではないのか、と検討をつけたのはよく行くスーパーでしたが、本人自身、スーパーで車に乗り込む際、しっかりと自分の鞄に
入れたのは覚えていると言います。
自分もその時は息子がそのようにしたのは見ておりましたし、それでも落としたのかもということでそのスーパーにも落し物の届出をしておき
ましたが、結果的には出てくることはありませんでした。

その後、今度は自分が使うポーチを無くしました。
その中には主人の母、姑が生前使っていたという印鑑を入れてその中にいれ、それを鞄に入れ、持ち歩いていたものでした。
結婚後、主人から銀行印に使うといい、と言って譲り受けていた印鑑でした。
ある時、郵便局でその印鑑を使い、自分ではそのポーチを鞄に仕舞ったはずでしたが、帰宅するとそのポーチごと無くなっており、もう一度郵便局
に出向き、ポーチのことを尋ねましたが落し物としては預かっていないと言われました。
警察にも届けましたが、連絡はくることはありませんでした。

この話を、以前やはり此処で話した風呂敷を担いだ主人と会ったという彼女にすると
「ご主人と一緒に帰っていったんじゃない?」
といわれました。
そうなのかな、だとすると自分に関わるものは引き取っていったのかしらん、それとも物の方が自分でついて行きたかったのかな、ともその時に
感じたことでした。


                                  


無くなる物、案外その物自身、自体が意思をもっているのでしょうか、自分でこの話を書きながら感じたことです。
皆さんには経験がおありではないでしょうか。
あるという方は、案外ご自分の思いで飛ばしちゃってるのかもしれませんよ。
そんな時には、どうぞ一言、ごめんねとおっしゃってみて下さい。
今度はすんなりと出てきてくれるかもしれません。


今日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝申し上げます。
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原爆の日に寄せて

2017-08-06 22:15:22 | 原爆の日に寄せて
こんばんは。
朝から昼にかけては昨日以上に暑くなってきておりましたが、午後三時を回った頃に、台風の影響か天気雨のようにバラバラと降ってきておりました。
それまで異常に暑かったのが、雨のおかげか随分と凌ぎやすくなりましたね。
室内のむわぁっとした感じが少し収まった感じです。
夜半から明日にかけてはかなりの雨となるようです。
そんな日の朝はこちら。
朝日だけは、もうこれでもか的に輝いていますね。

                                   

今日八月六日また九日は、七十二年前に人類史上初めて地上に原子爆弾が投下された日です。
毎年、この日は朝から日が容赦なく照りつける暑い日のことが多く、今年も例外ではありませんでした。
明け方前から数多の人々が慰霊碑の前に手を合わせに行かれるようで、蝉時雨も始まる随分前、お年を召した方の姿が多く見受けられたようでした。
式典が始まると、高く昇った太陽が容赦なく参列した人たちを照りつけますが、毎年日射しが強くなってきており、今年はテントが用意されていた
ようです。
多くの国が参列する式典でもあり、平和というものをここから発信していかねばという気概の元に開催されておりますが、市井の人々はごくごく
当たり前にあの日の犠牲者に祈りを捧げる日として静かに手を合わせるばかりです。
自分自身は、毎年、八時十五分に市内どこへいても鳴らされるサイレンの音やお寺の鐘の音と共に犠牲となられた方々への黙祷を捧げます。
普段は大概ウィークデイでもあり、また通勤時間に重なる時にもあたり、全ての人がそう出来るわけではないでしょうけれど、不思議と気持ちは
そのことに向いている気がします。
いつぞやは、やはりたまたま日曜日にあたり、その日自分は呉に向けて出掛けようとしているところでした。
電車のホームで出発を待っている間に、八時十五分の時刻を知らせるサイレンが鳴り響き、思わずその場で手を合わせたのを覚えております。
厳粛な気持ちを抱きながらも、自分達の日常に当たり前に組み込まれている祈りの時間のようにも思います。

                                    
 

この仕事、いわば神主としての仕事の中で、幾度か原爆の犠牲者になられた身内のことを探してほしいといわれたことがありました。 
あの日、依頼者の方のお母さんが市内で亡くなられたというのは、親戚の人に聞いたりしてわかったけれど、どこで亡くなったのか場所もわか
らず遺骨もないということでした。  
それで、その依頼者の方とおおよそこのあたりかもしれないということろまで一緒に参り、自分の気持ちを集中させてその方のお母さんの御霊は
どこにおられるのだろう、と目を閉じて感じてみることにしました。 
戦後何十年も経ち街中はどこも大きなビルが立ち並んでいます。
そんな一角の、ビルとビルの狭間、人一人そこを通れるかどうかというくらいの隙間にその方のお母さんの御霊、気配を感じました。
自分でもまさかと思いましたけれど、八月のあの日、おそらく辺りは焼け野原となっていたのでしょうし、自分が此処だと感じた場所は京橋川と
よばれる川からさほど遠くない地点でもありました。
あの日、お母さんは幼かった依頼者の方を自分の親戚の方に託し、何がしかの用事でその辺りまで出向いておられ、あの日のあの時刻にその場所で
息絶えたのでした。                           
申したように、今はビルが建ち、その場所へ近づくことすら出来ません。
仮にその場所へ行くことが出来たとしても、とてもそこへ遺骨が残っているとは思えず、御霊、魂としての思い、念だけがそこへいつまでも留まって
おられたのだと思います。
主人と共にその方にその旨をお話しすると
「それがわかっただけでも嬉しい。これで本当に母がいたという確信が持てました」
とおっしゃり、深く頭を下げられたのでした。
その後、そのお母さんの御霊を御霊代(みたましろ)にお移しし、ご自宅にて改めてお祀りして頂きました。


これはお身内ではなく、偶然にもその場所で犠牲になられた御霊がわかったということがありました。
依頼者の方は繁華街でスナックを経営されておられたのですが、最近どうにもお客さんも減り、なんとかならないかとのご相談でした。
最初にそのお店に一歩足を踏み入れた途端、自分の口から思わず大祓いという祓いの言葉が口をついて出て来、慌ててその後を主人が一緒になって
唱えるということがありました。
自分でもそのようなことは初めてでしたが、その時に感じたのが、その場所で八月のあの日、若いお母さんが赤ちゃんを抱っこし高い高いとあやし
ている様が見て取れました。
ですが、そのように赤ちゃんをあやしたその瞬間、途方もない閃光と共に、そのお母さんと赤ちゃんは一瞬のうちに身体を焼き尽くされ、二人諸共
姿が消えてしまっていたのでした。
そのお店の経営者である依頼者さんとは全く縁もゆかりもないお二人です。
ですけれど、このようなお姿が見えて思わず自分が大祓いを唱えたということを説明すると、
「なんとなく、お客さんがおられん時でも不意に人の気配を感じることがあったんよね。もしかするとそういうことじゃったんかね」
とさほど訝しむ風もなく納得されました。
その方はその御霊をご縁はないけれど、弔うつもりで手を合わさせてもらいますとおっしゃいました。
(他にもお客さんの減った理由はありましたが、それについてはまた後日改めさせて頂きます)

                                   


書いているうちに、また色々と思い出してきたことがあります。
あの日の記憶に繋がることがこれほどに出てくるとは自分でも思いませんでしたけれど、以前にも申したように自分が覚えている間に書かせて
頂いておこうと思います。
書いたとて何があるわけでもありませんが、しかし書くことにより何かを感じたり考えたりして頂けるきっかけになれば、と思います。
重い話ばかりかと思いますけれど、しばらくお付き合い下さいませ。


                                    


これから徐々に台風が近づくのでしょうか。
あまり酷くならないことを願うばかりです。


本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。


                                     
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時間が止まった

2017-08-05 22:18:26 | 不思議なお話
こんばんは。
最近、夜が涼しくなってきたと申しましたが、たまにやはり寝苦しい夜もあり。
寝たか寝ないかわからぬままに、時間が過ぎてしまうこともあるようです。
昨夜もそんな感じでして。
で、明け方近く、ふっと目が覚めて窓の外を見ると、なんとも綺麗な空が。
あともう少しで朝焼けになったのでしょうけれど、なんせ相当寝ぼけておりましたので、それでもと思い撮ったのが此方。
寝ぼけていただけあって、かなりブレておりますがご勘弁のほどを;。(というか、拡大してこんなにぶれてると思わなんだ;)
明けの明星、金星が見えていますね。

                              

こちらは毎度おなじみの朝のお日様。
ピーカンです。

                              


このところ不思議な話をしておりませんでしたので、自分が体験したそんな話を書いてみようと思います。
明日の原爆の日に事寄せて、そのお話を、とも思いましたがそれはまた後日にさせて頂きます。


                                


一人暮らしをしていた頃、(今もそうですが;)20代の頃に瞑想をしていたという話は以前させて頂いておりましたが、その頃のことです。
多分、その頃は毎晩のように一人、瞑想をしておりました。
なにせ一人ですので、邪魔する人もおらず、しようと思えばそれこそ何時間でもできていたのではないのかな、と思います。
そんなことをしていたのも、これも以前話したように瞑想の先生についてあれこれしていた時期だったかと記憶しております。

グループで集って瞑想をしていた頃、ある音楽をかけてその音を楽しむというのか、音を見てみようといわれたことがありました。
音を観るって、どういうこと?と思っていたのですが、中の一人がスピーカーから流れる音を聞きながら、ああ見えるね、と言いました。
え?見える?
そう思い、その音が見えるという本人の近くへ行くと、確かにぼんやりとした感じで焦点をずらしてそのスピーカーを見ると、音に合わせて
微かな青い煙のようなものが出ているのが見えました。
これ?と思い本人に確認すると、そうだよといいます。
へぇ、音って見えるんだ、そう感じながらそのスピーカー辺りをしばらく眺めていたのを覚えています。
実際、音に色が着いているように認識できるという人がおられるようで、その人は音につれた色が見えているようですね。
「共感覚」というそうですが、他にも数に色が見えたりとか色々あるようですけれど、自分自身はその感覚はそのときだけのもので、その後は
音に色を感じることはありませんでした。
メンバーで同じ瞑想をすることにより、そのような感覚も、もしかするとその場でそれこそ共に感じあえるような状態になっていたのかもしれ
ません。


当時、付き合っている男性がおり(主人ではありません、そのもっと前です;)ある日曜日に会う約束をしていました。
彼はSEをしており、日曜といっても結構会社へ出ていたようでした。
本来ならそのような職場へ自分が行くことはないのですが、休日でもありましたので、今日はちょっと来て見ない?とその日に誘いを受けており
ましたので、それならば、と向かうことにしました。
因みにその彼は上記の瞑想のメンバー、仲間とは全く面識のない人です。
その日曜日、自分自身、朝から光が綺麗だなぁとか風が気持ちいいなぁとか、普段からぼんやりしている方でしたが、それに輪をかけたように
感じておりました。
バスに乗り、まずは街中へ出掛け、バスから降り立ちました。
いつも見慣れている風景なのに、何故だか周りが明るく心地よく感じます。
いやそれは、これからデートだからでしょ、といわれそうですが、そのような感覚とはまた違うものでした。
その日は、いつも以上にゆっくりと歩幅を進め、周りの人たちの楽しそうな声や表情を見ながら、自分も楽しいなと感じていました。
一歩、一歩、確かめるように進んでいくのですけれど、どうしてだかそのスピードがだんだんとスローモーションのようになってきて、それと
共に周りにいる人々も、またその声もゆっくりと聞こえてくるように感じられ、とうとう終いには自分自身が歩く事が出来なくなり、その場に
立ちすくんでしまいました。
立ち止まると共に、自分の周りだけが今度は膜を張ったよう、ベールを被せたように思われ、どうにも身動きが出来ないような感覚に襲われました。
実際にはものの数十秒、あるいはもっと短かかったのでしょうけれど、自分にしてみれば30分位はそのようにしていたように妙に長く感じられ
ました。
その間、周りの物音は一切耳に聞こえてきていなかったように思います。
どうしていいのか自分でもわからず、途方に暮れるというのはこういうことなのか、と後にして思えばそうだったのでしょうけれど、その時の自分
は、一体何が起こったのか全く分からず、どうにも出来ない状態でした。
そうしていても、頭の片隅で、これじゃいけない、周りの人に変に思われる、という多少はまともに判断出来る能力が残っていたようで、ともかくも
彼のいる会社へ行こう、と先ほどまでとは違い、とてつもなく重くなってしまったような足をひこずるような思いで、歩き始めたのでした。

やっとの思いで彼のいる会社へたどり着くと、やぁ、よく来たね、もう少しで終わるから、これでも読んで待っといて、と文庫本を何冊か手渡して
くれました。
ただ、その時の自分が相当に青い顔をしていたのか表情に乏しかったようで、しかしその事を彼自身は待たせていることに腹を立てたのかな位に
最初は考えていたようです。
渡された本に目を通すことすら難しい気がして、自分自身は声も出せない感じで、ただ座って待っていました。
しばらくして仕事のけりがついたのか、手を止めて自分のところへ来てくれましたが、どう見ても普通ではない様子の自分にどう対処したらよい
のかわからぬようで、彼の方がオロオロするばかりでした。

その後、その日をどのように過ごしたのか、殆ど記憶に残っておりません。
ただ、出そうと思ってもどうしても声が出ず、自分が先ほどどのような状態であったかを説明しようにもそれもままならず、たとえ声が出たとし
ても一体どう言えば理解してもらえるのか、そう頭の中でグルグル考えていたのだけは覚えています。

既に夜になっていました。
おそらくどこかで食事もしたのでしょうけれど、その事も全く記憶にありません。
気づくと、彼の車でどこかをドライブしていたのですが、彼自身、本当にどうしようもなかったのだと思います。
その頃になり、やっと自分が声を出せるのではと感じ、搾り出すように、「もう帰ろう」と言ったように思います。

                              
                                

あの日の記憶はそこまでで、それ以降どうであったか、やはり覚えておりません。 

後日、その日のことをお会いしたことはないのですけれど、瞑想のグループでお世話になっている先生の、そのまたもう一つ上の立場にある先生と
いわれる方が仙台にいると聞いておりましたので、その方に向けて手紙を出しました。
あの時の自分がどのような状況で、どのように感じていたかをおそらく事細かに書いて送ったのだと思います。
しばらくして仕事から戻ると、郵便受けに達筆な文字の分厚い封書が届いておりました。
仙台の先生が返事を下さったのでした。
恥ずかしながら、その返信にどのようなことを書いて下さっていたのか、今となっては殆ど覚えておりません。
ただ、その文章のはじめあたりに、自分の出した封書が向こうへ届いた折に、その水色(どうやらその色で出したようです)の封筒を最初、とても
不思議な思いで眺めたと書かれていたのは記憶に残っております。
内容そのものはどうであったか定かに覚えてはいないものの、温かみのある文章で、心配することはないように綴られていたように思います。
当分は、その手紙を大事に保管し、事ある毎に読み返していたようにも思いますが幾度か引越しを繰り返すうちに、その大事な手紙もどこへいった
ものか、今では行方もしれません;。

                              


不思議な話と言っても、この程度の事ですけれど、今でもあの時の不思議な感覚は一体なんだったのだろう、と思うことがあります。
それこそ、ほんの少し次元の違う処へその時の自分は居たのではないのか、そうも思います。
あれ以降、そのような状態になることはありませんけれど、もしもう一度なってみることが出来るとしたら、今度はその感覚を思いっきり楽しん
でみたいと思います。  
ただし、そこまで心に余裕があれば、の話ですけれど。


本日もこのブログへのお付き合い有難う御座いました。
感謝申し上げます。                             
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その後の世界は

2017-08-04 22:01:49 | ものの見方 考え方
こんばんは。
台風の影響でしょうか、モクモク雲があちこちにわいて来て、見るからに暑い一日でした、いえまだ暑い;;です。
この後、この台風がどのように進路を取るのか、いずれにしてもあちこちに被害をもたらさないように願いたいものです。
そんな朝は、こちら。
見るからに、暑そうに輝いております。


                                



ですが、やはり台風の影響か午後からはこんな感じの雲があったりもしました。


                                 


なんとも不穏な空気を感じさせる雲行きですが、ずっとそうばかりでもないのが台風の読めないところ。
迷走台風といわれているこの台風5号、太平洋の海水温そのものが高いために進もうにも進めず、そこで留まる感じになるためいつまでもノロノロと
しているようですね。
先日、相当な豪雨による災害のあった九州に、またもや試練のようにして勢力の強い台風が来るのはどうしてなんだろうと考えてしまいます。
これ以上、被害が出ないことを願うばかりです。

                                  


それにしても、ここ最近、物事が急激に変化してきているように感じられます。
言ってみれば、やはりアメリカのトランプ大統領当選の頃からでしょうか。
それまでは、世界的にみてもどことなく予定調和的に事は進むもの、と誰しもが考え思っていたことだと感じます。
ですが、あの大統領就任というニュースが全世界に流れるや、それこそ蜂の巣をつついたように上を下への大騒ぎとなったのは周知の通りです。
就任は今年の1月20日でしたが、感覚的には既に2年程も経ってしまっているようにも感じられます。
アメリカ人ではありませんので、その支持率そのもの、また本国では実のところ、どのように捉えられているのかわかりませんが、ニュース等で
聞けば、その信任の無さにむべなるかなと思わざるを得ません。

ですが、そのニュースそのものが果たして真実を全てそのまま伝えているかといえば、それもまたどうなのか、というところなのでしょうね。
それを知っているからなのか、大統領自身が報道の在り方そのものに対して懐疑的であり、ともすればツィッターでつぶやいているのもそういう
ことがあるからなのか、とも受け止められますが、あれはあれで、どんなもんかいな、とも感じております。

そう考えて、よい方へ捉えてみると、彼の出現により、本当の、本来の自分達の進むべき方向を見出すべきだ、ということを教えるためにわざわざ
大統領という立場を取って出てきてくれたのではないのか、そうも思います。
要するに、ある意味反面教師なのかもしれません。
そのように思えば、これまでの大統領としての職務もこれまた反面教師のそれと思えば、ああなるほどね、と感じてしまう気もします。
ですが、彼は大統領になってやっと半年が過ぎたばかりです。
この後、彼がその職を通して自国のアメリカを、また世界をどのように方向付けて行くのか、やはりその動向が気になるところではあります。


                                  


これもまたよく言われることですが、物事が良くなる前には、これまでの悪い面が何もかも浮き上がってくるようにして出て来、一見悪くなって
いくばかりのように感じられることがあるといいます。
確かに、世界ではテロが場所を問わず勃発し、それまでの平和な街が一瞬で破壊されるという悲惨な出来事も起こっています。
テロばかりではなく、まだまだ紛争地帯でのゴタゴタ、或いは難民キャンプ等で不自由な生活を強いられている多くの人々。
大国という元にあっても、どこかで監視の目がある国家。
日本とて例外ではなく、ここ最近、危険を危険とも思わない国からの挑発的とも取れる飛翔体に悩まされ続けています。
一体この先、本当に良くなっていくのか、だんだんと不穏になっていくばかりではないのか、そんな不安にも駆られます。

ですが、そのように感じて物事が片方の極に達するようになると、これはどうしてだか不思議ともう片方の極へと移行していくもののようです。
とはいえ、それならばどこまで行けばその極に達するのか、これで達しているのかまだまだなのか、これは皆目見当が付きません。
未だにその過渡期、その真っ最中なのかもしれません。


                                  


結局はどのような時代に生きていても、その最中にいる自分達は混沌とした中を生きているように感じるのかも知れない、そう思います。
ならば、その最中を自分の悔いのないよう、精一杯生きること、そうすることこそ混迷を乗り切って行く一番の手立てになるのかもしれない、
そうも感じます。
そしてまた、すぐ隣にいる人と共に、たとえそれが言葉が通じぬ人であったとしても、出ている虹を見て同じように素敵と思えるかどうか、
綺麗な花を見て美しいと共感出来るかどうか。
出来るのならば、どうか皆が笑い会える世界であってほしい、そう思います。

                                  


上手く結論付けなど出来ようもないのに、つい調子に乗って書くとこの有り様です;。
お恥ずかしい限りです。
ですけれど、やはり世界は穏やかであってほしい、そのことだけは願い、思っております。


こんな今日のブログへのお付き合い、有難うございました。


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物語に事寄せて

2017-08-03 21:37:31 | ある物語
こんばんは。
朝晩は随分と涼しくなり、しのぎ易くなりましたが日中はやはり暑い一日でした。
気温の上がり方が半端ないですよね;。
そんな朝はこんなお日様でした。


                                 


昨日まで「48色の夢のクレヨン」という物語を要約しながらお伝えさせて頂きました。
あの時代のことは、自分がまだ生まれる前の話でもあり、実際に自分の目で見たわけではありません。
自分が生まれたのは昭和34年で、その頃は戦争というものの影は既になりを潜めており、もはや戦後ではないといわれていた時代だったようです。
それでも、自分が物心ついた頃、あるいは幼い当時、近所の友達と共に近くの公園へ遊びに行くと、なにやらぽっかりと穴のあいた場所があった
のを覚えています。
子供の自分達なら、潜り込めばそこへ入れそうと思いながら、家に帰り大人に話すと、あそこは防空壕だったところだから入って遊んではいけない
よ、と諭された覚えがあります。
ボウクウゴウのそれが何であるのか全く分からず、それでも何とはなしに、その穴の向こうから光る目が見えたり、或いはオバケがそこへ居そうな
気がして、怖さと気持ち悪さを感じたのも事実です。
その後、その防空壕はどうなったのか、埋められたのかどうか、自分の知らぬ間に行政等で処置されたのかもしれません。


一緒に住んでいた祖母が広島の原爆投下のあの日のことを話してくれたことがありました。
「ものすごい音がして、どうしたんか思うて外へ出たら、大きな大きな黒い雲みたいなんが見えたんよ。どうなったんじゃろう思うとったら、その
 うちにバラバラーッと黒い雨がふってきたんじゃ」
そんなことであったと思います。
黒い雨というのは原爆投下後、広島の町へ降ったといわれておりますが、広島市だけであったともされています。
しかし、我が家は呉市、それも中心部に近い下町でしたし、本来は違うのではといわれそうですが、祖母が話してくれたことは間違いではなかったと
思います。
幼い自分が覚えているのはその箇所だけで、他にも色々と聞いていたのでしょうけれど、記憶には残っておりません。
他には呉であった空襲のことも同様に聞いたようなのですけれど、聞いたことだけが頭にあり、話そのものはやはり覚えていない気がします。

戦争の影はなかったといいましたが、これも幼い頃のかすかな記憶ですが、母に手を引かれ街中を歩いていると、薄汚れた身なりのオジサンがござと
いうのかムシロというのか、その上に座り、どうかすると手や足のない人もなかにはいたようで、そのオジサンの前には空き缶か何かが置かれていま
した。
特にものを言うわけでもなかったように思いますが、母はそのような人を見かけるとその空き缶に幾ばくかの小銭を入れて、私の手を引き、足早に
その場を立ち去っていたように思います。
「あの人、どうしちゃったん?(どうされたの?)」
と母に尋ねても
「戦争で大変になってしもうちゃったんよ(大変になってしまわれたのよ)」
というだけで、それ以上は答えてくれなかったようにも思います。
しばらくはそのような方も見受けられましたが、次第にそれらの人も街の中から姿が見えなくなっていったように感じます。
いわゆる傷痍軍人といわれる人達であったのでしょうが、その後どのように生活されたのでしょうか、これとて何か施策があったのかも知れません
けれど、やはり幼かった自分が知る由もありませんでした。

中学校の国語の先生が戦時中、学徒動員で学校へは行かず、代わりに廿日市であったか、その辺りの畑か何かでさつまいもを作らされていたという
話をされていました。
8月のあの日も、朝からいつもと同じように畑へ出ていると、一瞬ピカッと広島の上空辺りで何かが光ったと思うと、少し遅れて凄まじい音と共に
見たこともないようなどす黒い雲のようなものが湧き上がってきたそうです。
何事が起こったのかわけもわからず、それでもしばらくすると、それは新型爆弾が落されたんだという話を教師が話してくれたのでした。
先生自身の身内が市内におられたとかで、しかしすぐには向かうことは出来ずに、広島へ出向けたのは一週間後だったようです。
行ってみると、あたり一面焼け野原で、なにもかもが真っ黒ろこげで、形のわからないものが転がっていたといいます。
人であるのか、物であるのか、それさえもわからないものも多くあったようです。
此処で書くのも憚られるような事も多く、夜になると青い光が飛んでいたともいいます。
よく人魂とか申しますが、これも亡くなった方の体から出た燐が何がしかで燃えるのがそう見えていたのではないか、ともいわれているようです。
その先生自身、原爆投下直後の入市ということで自分自身も被爆者ということになったと話されておりました。


ある方は、広島市内で被爆されたものの、戸板に乗せられて可部の家までたどり着き、ひと月以上、意識も朦朧とされていたようですが、その間
被爆して火傷を負った腕や足には蛆がわいて来たそうです。
看病する身内の方も最初はそれらを取り除いていたようですが、次々と出てくるそれらをどうすることも出来ず、するに任せておかれたそうです。
ですが、そのように蛆がわいた痕はどういうわけか、火傷特有のケロイドが残ることなく、綺麗な皮膚が再生されていたといわれておりました。
被爆したときにガラスの破片も体内に入ったらしく、何年も経って後、急に皮膚から出てくることもあったとも話しておられました。
その方はそのように被爆されていたにもかかわらず、90歳を越えて長寿を全うされて逝かれました。

                                
                                   
                                   



自分の中に僅かにあるセンソウというものの記憶、また身近な方にうかがったその当時の話、思い出だせばまだあるかと思いますが、この度は
この辺りにさせて頂きます。

話したからどうだ、というわけではありません。
けれど、覚えている者がどこかで記録として留めておくことも必要なのではないのか、そうも感じます。
自分自身の話など、取るに足らぬちっぽけなものです。
それでも、何かを考えるきっかけにして頂ければ、そう思います。


                                   
                                       


本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝申し上げます。
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