河内潟の潟口は、新大阪駅近くであったことをご存知ですか?
南方より廻り幸(い)でます時に、血沼(ちぬ)の海に到り、其の御手を洗ひたまふ。故血沼の海と謂ふ
日本書紀 巻三、神武記の一節です。
河内潟の時代は、今から2000年から3000年前にあったそうです。その頃は、干満の差によって、すごい速い流れがあったようで、日本書紀にも、これにより浪速(なみはや)と名付けたとあります。
海流の穏やかな河内湾と淡水湖となった河内湖の間の時代です。
神武東征の頃の、河内潟の潟口は、中島南方のあたりにあったそうです。上町台地の北に伸びる長柄砂州(天満砂州)の先端部です。崇禅寺遺跡のあった所の少し北で、丁度新大阪駅のあったあたりから、西中島南方駅のあたりに北端の干潟があったようです。
タイムスリップしたら、大阪回生病院の窓から眼下に、神武天皇の船団が通過するのを見えていたと思うと大感激です。
神武天皇がここを通って河内潟奥の生駒山の麓の白肩の津に行ったのは、紀元前70年頃かと割り出した人もいます。
浪速であるためには、河内潟であった2000年から3000年前の間でないといけないからです。
ちなみに長柄砂州の所は、標高5メートル近くあるそうです。
https://hougenkanwa.com/25/amp/