油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

うぐいす塚伝  (17)

2022-04-03 20:33:00 | 小説
 女の顔立ちや服装。
 それらから察すると、女は間違いなく根本
洋子当人である。
 しかし、どこか違う。
 あらゆる人の身体から発する気配、あるい
はオーラとでも呼べばいいものだろうか。
 とにかく、それは、先ほどまでジャズバー
で酔いしれていた洋子のものとは思えない。
 凛として、強い。
 それが女のどこから来ているものか、定か
ではない。
 ふいに女がううっとうめき、大きく息をは
いたが、すぐに左手で口をおさえた。
 胃につかえたものを、吐いてしまおうとし
たのではない。
 もっと違うもの。身体に入りこんだ、邪気
とでも呼べばいいだろうか。
 清濁併せのまずしては、この世をわたるの
は容易ではないのである。
 女は首を回し、目を細めて、辺りを見た。
 じぶんの息が少々酒くさいのに気づき、そ
そくさと居ずまいを正しはじめた。
 だが、一瞬、体がふらついたが、すぐに態
勢をととのえた。
 女のからだを照らす満月のひかり。
 ぶどうのように棚から垂れ下がる、いくつ
もの藤の房。
 それらが女の心にどれほどの影響を与えた
ものだろう。
 女のまなざしは、先ほどまで憎悪に満ちた
ものだった。
 しかし、程なく、穏やかな感情が、彼女の
こころを支配しはじめた。
 「修さんなら、この人ならと思ったけれど、
もういいわ。いつの世も殿方は似たりよった
り、この世で女人としての愛憎の念をおさら
いしようと思ったけれど……、今度こそは真
実の愛で人を慈しもうと思ったけれど……。無
念だわ。こんなことならいち早く、三笠の山
のいただきにもどりたい。今ごろは、きっと
藤の花が咲き乱れているでしょう。私が帰る
のを待ち望んでいる人がおられる……」
 われ知らず、じぶんの口からもれた言葉に、
女は驚き、愕然とする。
 くず折れるように、最寄りのベンチにすわ
りこんだ。
 女は目を閉じ、しばらくじっとしていたが、
じぶんの体が、急に軽くなったように思え目
を開けた。 
 ジャズバーで、色さまざまなカクテルを誘
われるままに飲んだのは憶えている。
 西端課長にかなりの金銭的負担をかけてし
まったことをくやむ。
 こうやって素面にもどると、現実の厳しさ
がひとつひとつ脳裡にうかぶ。
 女はふいにいやいやするように、首をよこ
に振ったかと思うと、まるで愛しい人を見つ
めるようなまなざしで、棚から垂れ下がって
いるたくさんの藤を眺めた。
 (あたしどうしちゃったんだろ、また、か
らだが、からだが重いわ)
 ふいに、女は立ち上がった。
 紫に色づきだした藤のひと房を、両手で包
みこむようにすると、右ほほを近づけた。
 バチャと鯉がはねた。
 とたんに女は藤の房をいじるのをやめ、川
沿いに設置してある手すりに両手を置いた。
 ものうげにおぼろげな空を見あげる。
 ううっとひと声、うめくような声を発して、
ぎゅっと唇をかんだ。
 あまりに強くかんだので、やわらかな皮膚
がやぶれ、血がにじんだ。
 「鉄さびみたい」
 女は自らの舌でぺろっと血をなめ、錆びて
赤茶けた丸い手すりを、自らの手が汚れるの
もいとわず握りしめた。
 歯を食いしばり、またもや心で渦巻きはじ
めた憎しみの感情を、なんとかしておさえよ
うと試みた。
 どれほど時間が経っただろう。
 「もしもし、こんなところで、あなた、一
体どうなさったのですか。風邪をひいてしま
いますよ」
 ふいに誰かが女の肩をたたいた。
 「あら、すみません。あたしったら、こん
なところで寝てしまって」
 よだれを垂らしていたのに気づき、女は思
わず、左手の甲で口をぬぐった。
 ひとりの年配の警察官がいつの間にか、女
のそばにたたずんでいた。
 「お名前は?ご住所は?」
 矢継ぎばやに、彼が質問した。
 「ようこ、根本洋子ですわ。住所は、宇都
宮市屋板町、インターパークの近くです」
 と答えた。
 
 

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1 コメント

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Unknown (sunnylake279)
2022-04-04 13:17:09
こんにちは。
なんだか不思議な場面でした。
洋子はこの世の人ではないのかもと思いました。
藤の花が特別な存在感を醸し出していますね。
山の頂で洋子を待っている人って誰だろうと思いました。
続きが楽しみです。
どうぞよろしくお願いいたします。
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