最近「自己一致」での検索ワードが多いので、改めて自己一致について考えてみたいと思いました。
自己一致とは 「自己概念と自己経験が一致している状態のこと」
と~いわれてもなんのこっちゃ???なのですが、私が思う自己一致は「あるがまま」が一番近いと思っています。
この「あるがまま」ですが、ありのままの本当の自分を認める事・・・では、本当の自分とはいったいなんでしょうか?
人の心の中には、強い部分、弱い部分、正義の部分、醜い部分、やさしい部分、残忍な部分、すべて持ち合わせているものだと思っています。
完全に良いだけの人間もいないですし、すべて悪いだけの人間もいないのです。
悪い部分を抑えたり出さなかったり、また良い部分をも抑えたりするのは、自分を守るため。心の恐怖を守るため。
そうです。それぞれ自分が一番かわいいのです。自己中心なのは当たり前です。でもそれでいいのです。
それを認める事から自己一致は始まると思っています。
そして自分すらも気づかない未知の部分も認めてあげる事です。
簡単なようでこの容易なことができないのは、なぜでしょうか?
それはもちろん、自分の負の部分は認めたくないからです。
でも「負の部分」ばかりを認めるわけではありません。
良い部分だってたくさん認めてあげるのです。未知の可能性も・・・ぜったいできない、ありえないと思わずに・・・
きっとこの自己一致を意識する事が楽に生きる一番の方法のような気がします。
よく考えてみれば、この自己中心な人間の中で生きているという事は、そりゃ~軋轢や摩擦、問題がある事は普通の事です。
もし、今、自分のまわりで特別な問題もなく、おだやかに生きる事ができていれば、当たり前ではなく、たいへん幸せな事です。
それでも不満を抱えてしまうのはなぜでしょうか。
それは、誰かのため、何かのためにしていると思う事が、傲慢な事だからです。
この傲慢な考えが不満を蓄積させていくのです。
「誰か」や「何か」はしてあげているのではなく、自分を支えてくれているものです。
私もつくづく、傲慢だったな~と思います。だから不満も抱えていた・・・と思います。
カウンセラーを目指すにしても、他人のためになんて傲慢です。 自分を守れない人に他人は守れません。
本当に強い人は弱い自分を認めている人です。
宮本武蔵の「恐怖、不安の心を知り、それを認め、かたわらにおいて戦う」はまさにそのものです。
この自己一致は生涯、完璧にできるものではないのかもしれません。
でも、少しずつでも近づける努力をしていきたいと思っています。
自己一致とは 「自己概念と自己経験が一致している状態のこと」
と~いわれてもなんのこっちゃ???なのですが、私が思う自己一致は「あるがまま」が一番近いと思っています。
この「あるがまま」ですが、ありのままの本当の自分を認める事・・・では、本当の自分とはいったいなんでしょうか?
人の心の中には、強い部分、弱い部分、正義の部分、醜い部分、やさしい部分、残忍な部分、すべて持ち合わせているものだと思っています。
完全に良いだけの人間もいないですし、すべて悪いだけの人間もいないのです。
悪い部分を抑えたり出さなかったり、また良い部分をも抑えたりするのは、自分を守るため。心の恐怖を守るため。
そうです。それぞれ自分が一番かわいいのです。自己中心なのは当たり前です。でもそれでいいのです。
それを認める事から自己一致は始まると思っています。
そして自分すらも気づかない未知の部分も認めてあげる事です。
簡単なようでこの容易なことができないのは、なぜでしょうか?
それはもちろん、自分の負の部分は認めたくないからです。
でも「負の部分」ばかりを認めるわけではありません。
良い部分だってたくさん認めてあげるのです。未知の可能性も・・・ぜったいできない、ありえないと思わずに・・・
きっとこの自己一致を意識する事が楽に生きる一番の方法のような気がします。
よく考えてみれば、この自己中心な人間の中で生きているという事は、そりゃ~軋轢や摩擦、問題がある事は普通の事です。
もし、今、自分のまわりで特別な問題もなく、おだやかに生きる事ができていれば、当たり前ではなく、たいへん幸せな事です。
それでも不満を抱えてしまうのはなぜでしょうか。
それは、誰かのため、何かのためにしていると思う事が、傲慢な事だからです。
この傲慢な考えが不満を蓄積させていくのです。
「誰か」や「何か」はしてあげているのではなく、自分を支えてくれているものです。
私もつくづく、傲慢だったな~と思います。だから不満も抱えていた・・・と思います。
カウンセラーを目指すにしても、他人のためになんて傲慢です。 自分を守れない人に他人は守れません。
本当に強い人は弱い自分を認めている人です。
宮本武蔵の「恐怖、不安の心を知り、それを認め、かたわらにおいて戦う」はまさにそのものです。
この自己一致は生涯、完璧にできるものではないのかもしれません。
でも、少しずつでも近づける努力をしていきたいと思っています。
タイトルが哲学的で思わずひきそうに(((((°°;)
でも『あるがまま』『ありのまま』の自分を出すって、簡単そうで結構難しいよね
私だけかしら??
「ありのまま」は、無理して表に出さなくてもいいらしいの。ただ自分の心の中でこんな悪い自分もいるんだな~とか、ぐちゃぐちゃな思いも、そんな風に感じているんだな~って事を素直に思えれば、それでいいので・・・
でも、悪い自分は認めたくないのが人情なので難しいのかもね。
感じることと考えることの間にあまりごたごたしたことの無い状態。
弱いとか強いとかそういう評価をせずに、自分自身を理解している状態。
そんな感じでしょうか。
なんとなく気になるは、「『他人のため』が無いカウンセリングはちょっと困る」というところぐらいでしょうか。
暖かい鏡になるためには、暖かなまなざしも、現実に直面させる厳しさもときには必要だと思います。
思いを伝える言葉ってやはり難しいものですね。
他人のために何かしたいという思いは、とても尊い気持ちだと思います。
ですが「…のために」という気持ちは、もう一段深く考えてみると、上からの目線のような気がするのです。
目の前のクライエントを何とかしてあげたいという思いがあるカウンセリングは、うまくいかないものです。
やはり、どこか上から目線になってしまうのではないかと思います。
私もまだまだ未熟であるので、クライエントに向かう姿勢は、「感情の流れを教えていただく」という気持ちです。自分が経験していない感情、どんな思いを持っているのかを教えてもらいます。
それから、自分が今まで勉強してきた楽に生きる考え方をあれこれ提案していければと思っています。
教えていただくという気持ちは、下から目線で発せられる気持ちのように私は思いますが、どうでしょう?
相談に来られている人の方が、聞く側より苦労しているし、しんどい立場であることは間違いありません。
相手に対する尊敬の念があって、なお、「その人のために」と思う心が出てきたら、それは、相手に言語外の態度として伝わると思います。
そういう交流ができたら素敵ですね。