アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

平安宮014  平安宮 民部省跡

2019年01月27日 21時47分48秒 | 平安宮

北から南方向を見る  左は二条城

 

 

平安宮 民部省跡

国家の重要な省庁である「二官八省」の1つ民部省は、朝堂院の東、太政官の南に位置し、諸国の民政、財政を担当する役所で、南東に中央財政の収支を計算する主計寮、南西に地方の財政収支を監査する主税寮を配置する。職掌は中央および地方の財政を一手に掌握し、予算編成を行う最も重要な官司の1つであるが、平安時代には私的土地所有が増大し、次第に力を失っていったといわれる。

朝堂院や豊楽院など宮城諸司の多くの建物が被害にあった貞元元年(976)6月の大地震では、余震で民部省の建物3棟が倒壊している。

1983年に、京都市立二条中学校の校庭で行われた発掘調査では、民部省の南辺にあった東西方向の築地(南垣)が見つかり、築地の南側に沿って瓦がずり落ち、放置されたままに近い状態で検出されている。出土した瓦は平安時代中期までのものに限られており、貞元元年の大地震により倒壊した築地と考えられている。さらに、民部省西辺築地とのコーナー部も確認され、民部省の東西幅が57(170)であることが明らかとなった。なお、調査地から底部に「主税□□ 五月一日」と墨書された灰釉陶器椀が出土しており、民部省の南西部に主税寮が配置されていたことを考古学的に裏付けている。

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 


源氏物語遺跡19 平安宮朝堂院昌福堂跡

2019年01月25日 17時51分29秒 | 平安宮

 

 

平安宮朝堂院昌福堂跡

朝堂院は八省院とも呼ばれ、国家の政治や儀式を執り行う中枢の場であり、現在の国会議事堂に相当する施設である。

昌福堂は、平安宮朝堂院の12堂の1つで東側北端の最上位に位置する。規模は、72間の南北棟で、

東・西各3ヶ所に階段があり、建物内には太政大臣や左大臣・右大臣の座が設けられていた。

2007年に当敷地で行われた発掘調査では、昌福堂跡の北辺基壇最下段を構成していた凝灰岩の延石4石が

東西に約3m残存していたことから、ここが昌福堂の北端に位置することが判明した。

検出された延石はこの下に保存されている。

この調査結果を古地図とあわせて検討した結果、昌福堂は南北33m、東西18m規模の建物であることが判明した。

『源氏物語』では、光源氏は33歳で太政大臣になっているので(「少女・おとめ」)

儀式などの際にはこの昌福堂に坐していたことになる。平成203月 京都市

 

 

源氏物語ゆかりの地  ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

 


平安宮011  豊楽院 

2019年01月25日 10時53分26秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

史跡 平安宮跡 豊楽院跡

(清暑堂跡 及び 豊楽殿北廊跡)

豊楽院(ぶらくいん)は、正月元日の節会、七日白馬の節会、16日踏歌の節会、11月の新嘗祭と天皇即位後の大嘗会などが行われた国家の饗宴の施設です。豊楽院の完成ははっきりとしませんが、文献から9世紀初頭には完成していることが分かっています。

この場所は、豊楽院の正殿である豊楽殿の真北に位置し、天皇控えの建物である清暑堂と、豊楽殿と清暑堂を繋ぐ豊楽殿北廊(以下北廊)にあたります。平成19年度に発掘調査が行われ、清暑堂と北廊の一部を確認することができました。

清暑堂では、基壇の盛土と、基壇の外装である凝灰岩を抜き取った痕跡が認められることから、清暑堂の基壇幅は東西約35m、南北約11mで、清暑堂と豊楽殿が約30m離れていることが判明しました。さらに、豊楽殿の階段幅(5.2)と同じ幅をもつ階段(西階段)が基壇に取り付いていたことが分かり、凝灰岩が組み合わさった状態で残っていました。

北廊では、版築による基壇の盛土と、屋根から落ちる雨水を受ける塼敷(せんしき)が残っていました。北廊は2度にわたって拡幅されており、北廊創建当初は、基壇幅6.4(1期)であったものが幅12.0(2期)に、さらに幅13.4(3期)に広げられていることが分かりました。

 

先の豊楽殿跡の発掘調査で、北廊は豊楽殿創建時には存在していなかったことが明らかになっており、今回の調査では、清暑堂と北廊の取り付き部分が注目されていましたが、清暑堂の中央には階段は存在せず、清暑堂と北廊は同時に造営されたことが判明しました。

清暑堂の規模を明らかにできたことは、豊楽院の解明を進めるための定点となり、北廊の変遷は、調査面積の狭い平安宮跡において重要な成果であることから、平成2年2月22日に「史跡平安宮豊楽殿跡」として指定を受けた豊楽殿跡を含めて、平成20年7月28日の「史跡平安宮豊楽院跡」と名称変更、追加指定されました。

 

 

 

 

 

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所


平安宮010  豊楽殿跡

2019年01月25日 06時30分37秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

史跡 平安宮豊楽院

平安宮内には、天皇の住まいである内裏をはじめとして多数の役所が軒を連ねてました。国家的な儀式を執り行う場所として平安宮の南中央部には朝堂院が、その西側へは豊楽院が設けられました。豊楽院は、おもに天皇の饗宴を行うことを目的に造営されたものですが、先の都である平城宮や長岡宮には造られていません。

198710月から翌年にかけておこなった発掘調査によって、豊楽殿(豊楽院の正殿)の基壇の西北隅と北側建物への渡り廊下の一部を発見することができました。

盛り上がった土壇の周りに細い溝が巡っていました。これは基壇を化粧するのに用いた凝灰岩を据えた跡で、切り石の一部が部分的ではありますがよく残っています。こうした基壇を壇上積基壇といいます。これにより、今から1200年前に造られた頃の姿を知ることができます。基壇の上で、5ヶ所の礎石を据え付けた位置を確認することができました。

豊楽殿は東西(桁行)9(39.3)、南北(梁間)4(16.2)の建物で、屋根には緑色した瓦(緑釉瓦)が葺かれていました。鳳凰が羽を左右に大きく広げた姿をレリーフした緑釉の鴟尾も発見しています。

今回豊楽殿の北側で見つけた渡り廊下は、造営された時にはなく、後に造られたこともあきらかになりました。敷地内の一段高くなっている所は、基壇跡と廊下跡の一部です。平安宮跡の中でこのように基壇跡が今でも高く盛り上がっているのはこの付近だけです。

平安宮豊楽殿は、古代宮都を解明する上で重要な遺跡であることから平成2年度国の史跡に指定されました

 

 平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 


平安宮009  宴の松原

2019年01月24日 22時38分58秒 | 平安宮

 

この通りは 六軒町通(南北)南を見ています  左右の道は 出水通(東西)右が西方向

 

 

平安宮 宴の松原

平安宮中央部西寄り、豊楽院(ぶらくいん)の北側にあった広場で、「縁(えん)の松原」とも記され、南北約430m、東西約250mの広がりをもち、この説明板はその東端近くにあたる。

呼称から宴の場として用いられたと考えられるが、その事実を示す記録はない。また、平安宮の南北中心線を挟んで東側の内裏と対称の位置にあたることから、天皇の代替わりに当たって内裏を建て替えるための予備の空間として用意されたという説がある。しかしながら、天長6(829)、宴の松原南東部に密教の加持祈祷を行う真言院が設けられたものの、平安時代を通じて大規模な施設が造営されることはなかった。むしろ『大鏡』や『今昔物語集』などの文学作品には、仁和3(887)8月に松の樹下で女性が鬼に殺害されたという話や、若き日の藤原道隆(953995)が、弟の道長と夜に競った肝試しで、右衛門陣から豊楽院へ行く途中、宴の松原あたりで聞こえてくる声に怯えて一目散に逃げ帰ったなどのエピソードが収められている。

この区域では、これまでに広い面積の発掘調査が実施されていないこともあり、遺跡の詳細は明らかではないが、丸太町通や六軒町通、七本松通沿いの調査では、地表から6070㎝の深さで、平安時代の整地層が見つかっている。出土遺物も多くないことから、記録とおり平安宮内に広大な空き地が広がっていた状況が想像できる。

 

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所  15番目

 

 


平安宮007 石碑  従是東北勧学院址

2019年01月24日 07時15分05秒 | 平安宮

 

 勧学院は,藤原氏出身の大学寮学生のための寄宿舎である。大学寮の南にあたる平安京左京壬生の西,三条の北に位置したので南曹ともいう。弘仁12(821)藤原冬嗣(775826)が創設し,貞観13(871)年ごろ大学別曹となる。財源は,藤原氏一族の寄進により,氏族の共同の事務も扱ったので氏院とも呼ばれた。

 

従是東北勧学院址

 

大正六年三月建之   京都市教育会

 

昭和三年六月   京都史蹟会引継

 

 

平安宮まとめ  平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

 


平安宮005  平安宮跡

2019年01月22日 21時14分55秒 | 平安宮

 

 

 

平安時代この周辺一帯には、天皇の居所である内裏や現在の国会議事堂に相当する朝堂院、国家の饗宴施設である豊楽院のほか、二官八省など数多くの役所建物が建ち並び、国家の政治の中心地でありました。各場所に設けられた説明板などを巡りながら、平安王朝の雅な世界に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

  

朝堂院(ちょうどういん)

朝堂院は八省院ともいわれ、現在の国会議事堂に相当する南北470mを越す大規模な施設です。正門の応天門を入ると左右に朝集堂があり、さらに会昌門を入ると12堂が建ち並び、それぞれに役人の座が設けられていました。12堂の北側には、身分差を表す龍尾壇が設けられ、広場の東には青龍楼・西には白虎楼がありました。この交差点の北側には平安宮最大の建物で、屋根には緑釉瓦が葺かれた正殿の大極殿がそびえていました。

 

豊楽院(ぶらくいん)

豊楽院は、朝堂院の西隣にあった国家の饗宴施設で、南北400mを越す長大な施設です。天皇が出御されて新嘗祭・大嘗祭の宴や、正月慶賀・相撲節会・射礼などの国家行事が、ここで開催されました。

これまでの発掘調査で、正殿てある豊楽殿跡とその北の清暑堂跡及び両建物を繋ぐ廊跡が見つかり、史跡指定され保存されています。

 

 朝堂院の正殿である大極殿は天皇の即位式などの重要な国家行事が行われるところです。正月元旦には、天皇が正殿の大極殿に出御して、皇太子以下文武百官から拝賀を受ける朝賀の儀なども行われました。

 

内裏は天皇の居所で、南半は紫宸殿など政治やセレモニーの場として使われ、北半の後宮は清涼殿など天皇の私的な空間で構成されていました。『源氏物語』の「桐壺」はこの後宮を舞台にした物語です。

 

平安宮にあった二官八省のひとつ中務省は、天皇を補佐し、詔勅(天皇の命令)の宣下や叙位などの朝廷の職務全般を担当する役所で、東南には、占い・天文・時(漏刻:水時計)・暦などを職掌する陰陽寮がありました。陰陽師安倍晴明もここで活躍しました。

平安宮(大内裏)は、東西約1.1㎞、南北約1.3㎞の規模を有し、周囲を高い築地塀と隍(ほり 濠)で囲まれ、

多くの役所建物が建っていました。これまで行われた数多くの発掘調査で、建物跡のほか、

築地塀跡や溝跡などが見つかり、文献資料や陽明文庫の「宮城図」などから、内裏や朝堂院、

豊楽院ほかの役所のあった位置がほぼ明らかになっています。

 

 

 

関連記事 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所


平安宮003 大極殿

2019年01月21日 13時28分11秒 | 平安宮

 

 

 南東から

朝賀とは、正月元旦に平安宮中央にあった朝堂院の正殿である大極殿に天皇が出御され、皇太子以下文部百官から拝賀を受ける行事で、平安時代はこの場所で行われていました。

平成253月 京都市考古資料館

 

 

 

大極殿跡

平安宮で最も重要な施設である朝堂院の正殿「大極殿」は、平安京遷都の翌年、延暦14(795)には完成。天皇の即位式のほか、正月に行われる朝賀(ちょうが)や御斎会(ごさいえ)、外国使節の謁見(えっけん)など、国家の重要な行事がここで行われた。弘仁6(815)には、地方から19,800人余りの役夫が動員されて大掛かりな修理が行われ、このとき初めて屋根に緑釉瓦が採用されたものと考えられる。

その後、貞観18(876)416日夜半の火災で焼失。元慶3(879)10月に再建(2)されたが、康平元年(1058)226日に再び火災が発生し、応天門と左方の楼を残して焼失。さらに延久4(1072)415日に再建(3)された大極殿も、安元2(1177)428日に焼失し、以後は再建されなかった。

創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造りの建物とみられ、基壇の大きさは推定東西59m、南北24m、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。

大極殿の位置は、最近まで千本丸太町交差点の北側付近と推定されていたが、近年の発掘調査で、朝堂院内のいくつかの建物跡が見つかり、さらに建都から1200年目にあたる1994年には、初めて大極殿の基壇跡が地表下0.6mまで確認され、現在ではほぼその位置が明らかとなっている。

平成74

 

 

 

朝堂院跡

平安京の北中央にあった平安宮(大内裏)は、東西1,146m、南北1,392mの規模を有し、天皇の住まいである内裏や朝堂院・豊などに宮殿のほか、

国政を行う官衙(かんが)(役所)建物が集中した場所であり、その中心にあったのが朝堂院である。

八省院とも呼ばれる朝堂院は、朝政の場であり、天皇の即位式や長賀の儀式、外国使節の謁見など、国家の重要な儀式がここで行われた。

 朝堂院の規模は、東西約200m、南北470m以上あり、左右に栖鳳・翔鸞の楼を配した応天門を入ると朝集堂が控え、さらに会昌門をくぐると、複廊で囲まれた院内には、左右対称に12の堂が建ち並んでいた。

12堂とは、昌福堂(しょうふくどう)・含章堂(がんしょうどう)・承光堂(じょうこうどう)・明礼堂(めいれいどう)・延休堂(えんきゅうどう)・含嘉堂(がんかどう)・顕章堂(けんしょうどう)・延禄堂(えんろくどう)・暉章堂(きしょうどう)・康楽堂(こうらくどう)・修式堂(しゅうしきどう)・永寧堂(えいねいどう)などの建物で、それぞれの律令国家の政治を担う官人の座が設けられていた。

また正面には、龍尾壇と呼ばれる一段高い場所があり、その中央には豪壮華麗な大極殿が聳(そび)えていた。

大極殿を含む一画は大極殿院とも呼ばれ、天皇の控えの場である小安殿があり、その北には朝堂院の北正門である昭慶門があった。

これまで行われた朝堂院跡の発掘調査によって、建物の基壇跡を示す凝灰岩の石列や溝跡などの遺跡などの遺構がいくつかの場所から発見され、現在ではほぼその位置を復元することが可能となっている。

 

 

 

大極殿

大極殿とは大内裏朝堂院の正殿で,即位等国家的儀礼や諸政が行われる場所であった。貞観18(876)年,創建後初めて焼失し,再三の被災で修復再建が繰り返されたが,安元3(1177)年の大火で焼失して以降,再建されなかった。明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭にあたり,湯本文彦が平安京の実測を行い大極殿をこの地に比定した。この石標はその比定地を示すものである。なお,現在はこの位置より南東で遺跡が見つかっている。


 

大極殿遺址


 

 大極殿遺址碑記

 

延暦十三年

桓武天皇相攸此地奠建新都号曰平安京今京都即是也爾来

一千百年以至今日実為神州之旧京宇内之名都矣京都市民

謹仰      聖徳欽      大勲新営神宮行祭事以挙慶祝之典事

聞詔特奉安

桓武天皇之霊列官幣大社号曰平安神宮一準

橿原神宮於是京都永為

宗廟之地覚襟帯山河益発光輝是誠国家之盛典而京都之光

栄也夫大極殿

天皇叡念所注森厳宏荘為国家正朝実      列聖之所登極億

兆之所瞻仰也然其蹟堙滅識者憾焉乃拠図志按式程考査測

定得其遺趾建石以表之且記紫宸殿等遺址及京城大内四至

以*後昆苟按此碑以徴之則延暦規模可得而詳矣

         明治二十八年十月二十二日               京都市参事会

紫宸殿            艮八十五丈

応天門            南百二十一丈

太政官            巽九十七丈

                        偉鑒門二百八十九丈

                        朱雀門百七十一丈

大内四至

                        待賢門百九十二丈

                     西   藻壁門百九十二丈

                        一条大路二百九十五丈

                        羅城門千四百五十二丈

平安城四至

                        京極七百四十八丈

                     西   京極七百四十八丈

 

 

大極殿遺址碑 碑文の大意

 延暦13(794)年,桓武天皇がこの地を選び,新しい都を建て平安京と呼んだ。いまの京都のことである。それから千百年,現在に至るまで神州日本の古都であり,世界に誇る都である。京都市民は桓武天皇の徳と功績を慕い,神社を創建し祭典を行い,千百年記念の行事を行なった。その事が明治天皇のお耳に達し,桓武天皇の霊を新しい神社に安置し,官幣大社に列し,平安神宮と名付け,制度運営は橿原神宮に準じるという詔勅が出された。これで京都は永遠に天皇家の廟地となり,周りをとりまく山河も光輝を益すことであろう。このことは実に国家の盛典であり,京都の光栄である。そもそも大極殿は天皇が特に思いを込め政治を行う場所であり,荘厳な建物は国家の中心である。歴代の天皇が即位し,国民等しく仰ぎ見る建物でもあった。しかし今では痕跡すら残っていない。識者はこれを遺憾なことに思っていた。そこで史料を検討し,実測を加え,その遺跡を確定し,石碑を建てて明らかにすることにした。また紫宸殿等の遺跡と大内裏の四周を記し,後世に残すものである。この碑を見れば,平安京の概略はつかめると思う。

 

 

 

 

明治弐拾八年十月廿二日               京都市参事会建

 

 大極殿遺址道

 

 

  明治二十八年三月 京都市参事会建之

 

 交差点の北西角

 東側 入口

 

平安神宮

 

 

 

 

 

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平安京前回の記事 ⇒ 平安京001  朝堂院跡  大極殿がよみがえった


 


平安宮001  朝堂院跡  大極殿がよみがえった

2015年07月29日 00時22分20秒 | 平安宮

 朝堂院とは大内裏の正庁で,即位等の国家的儀礼や諸政を行う場であった。

大極殿と14棟の殿舎から構成されていた

朱雀門の正面,内裏の南西に位置する。

応天門の変(866)で創建後初めて炎上し,その後も再三の被災で修復再建が繰り返されたが,

安元3(1177)年の大火で焼失して以降,再建されなかった

 

 西向き

 

北向き

 

 

平安宮朝堂院跡

朝堂院は八省院とも呼ばれ、天皇の即位や外国使節の謁見などさまざまな儀礼や国事の行われるところで、朝政の中心の場であった。宮域の正面の朱雀門を入った所に位置し、北は中和院、西は豊楽院、東は太政官や民部省などの官衙に接していた。

その規模は、東西約60(180)南北約150(450)で、全体が回廊で囲まれていた。正面には応天門があり、両翼に栖鳳・翔鸞の二楼が建ち、応天門を入ると左右に朝集堂があった。さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司宮人の列した十二堂が建ち並び、正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍・白虎の二楼を従えて、朝堂院の正殿である大極殿がその威容を誇っていた。東西11間・南北4間の規模を有する大極殿は、緑彩の瓦で葺かれた大屋根の下に朱塗りの柱の並ぶ華やかな殿堂であった。

朝堂院は、平安京造都開始の翌年の延暦14(795)にはまず大極殿が造営され、次々に整備されていった。その後数度の火災に会いながらもそのたびに再建されてきたが、安元3(1177)の大火で全焼し、以後再び建てられることはなかった。

現在のこの地は、ほぼ大極殿の西端ないしその西側の回廊付近にあたり、昭和50年に平安博物館が発掘調査を行った。後世の攪乱が著しく、遺構を確認することはできなかったが、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の鵄尾(しび)の破片などが出土した。 平安博物館

 

 

 

平安宮と 現代を 地図で重ねると  赤丸が 石碑のある所になります

 

 

大極殿は 平安神宮に 5/8の大きさで復元されています

この建物が 1200年前にあったということです

 

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内裏 と 大内裏  平安時代  歩いてみませんか

2015年07月27日 15時09分10秒 | 平安宮

内裏(だいり)と大内裏(だいだいり)

 

 内裏とは,天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,

禁中・禁裏・御所などともいいます。

平安宮内裏は延暦年間(782~806)に造営されました。

内裏の周囲には朝堂院(ちょうどういん)・豊楽院(ぶらくいん)や

二官八省をはじめとした官庁が並び,

諸官庁のまわりは大垣(築地)で囲まれていました。

その囲まれた区域を大内裏あるいは平安宮と呼んでいます。

 

平安時代の内裏大内裏がどこにあったかは判明しています

グリーンは現在の道

 

 

左下(南西角) ➡ 朱雀門  道順1

朱雀門  ➡  右下(南東角)  道順2

         ゴールが二条城の中なので 途中省略

右下(南東角) ➡ 右上 (北東角) 道順3

 

右上(北東角) ➡ 左上(北西角)  道順4

左上(北西角) ➡ 左下(南西角)  道順5

 

平安宮を歩いて回れば 体感出来るのではないでしょうか

今は暑いのでやめといた方がいいです

 気候が歩くのに適するようになれば 歩いてみたいと思っています