秀吉の京での逸話はたくさんある。
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立入宗継(たてり・むねつぐ)(1528~1622)、禁裏御倉職、皇室経済の立て直しに尽力、正親町天皇の使者となって尾張に下り、織田信長の入京を促した。 墓は清浄華院にある。
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豊臣公参朝のうち、慶長元年(西暦1596年)5月の秀頼初参内(朝廷へ参上すること)と、同2年9月の元服の時は最も盛儀であったと伝えられていて、本列はその様相を模したものです。
乗物は特に盛儀に使われた牛車で、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)といい、蒲葵(びろう)の葉で葺き、すだれなどの色文(いろあや)装具は最高の様式のものです。前後に従う大名は実際はもっと多数ですが、本列はその一部を現わしたものです。また服装は当時特に「一日晴れ」として規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通ではなく、袴をつけ、太刀も武家風です。徒歩の者は当時の武家風の特徴を現わしています。
この行列の中に前田玄以、石田三成、浅野長政、増田長盛、、長束正家 が参列しているなのだか、名前を描いた旗がない。
前田玄以
秀吉の命により、石川五右衛門を捕え、三条河原で釜煮の刑にされた。五右衛門の子、一郎も一緒。同時に母と一味の者20人も処刑された。 五右衛門37歳。天正19年(1592) 正月から4月にかけて市内20数キロに及ぶ御土居(土塁)が造られた。その総指揮が前田玄以。天正11年(1584)、前田玄以は釜座を保護。聚楽第を平常は前田玄以が預かる。
秀次の詰問の使者となる。大仏殿建立の主奉行となる。
明智光秀の本能寺の変の時、前田玄以は三法師、織田秀信とともに岐阜に逃れた。
浅野長政 初代大仏が地震で大破した時、本尊となる仏像を信州・善光寺から京に運ぶ役割を秀吉から命じられた。
増田長盛 五条大橋・三条大橋を造った。
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出雲の阿国は「於国」、「国」、「郡」、「久仁」などともきろくされている。出生や経歴については確実な史料がない。生没年不詳。
江戸時代の「出雲阿国伝」は「出雲国の鍛冶職人の娘で、永禄時代(1558~70)に出雲大社修理の勧進のために神楽舞をしながら諸国を巡業していて、美女だったこともあって評判になった。阿国の考案したかぶき踊りは織田信長や豊臣秀吉らにも気に入られた」と記されている。
阿国が現れたのは1582年(天正10)奈良市の春日大社で上演された「ややこ踊り」に8歳の「加賀」とともに出演している。
この時、阿国は11歳だったとされています。
また、1600年には京都で「菊」とともに、ややこ踊りを演じている。「ややこ(稚児)」は「赤ん坊」のことで、ややこ踊りは幼女のかわいい踊りのことらしい。
阿国のかぶき踊りはブームを起こし、阿国は1604年(慶長9)、京都を去って伊勢の国の桑名へ、1607年(慶長12)、江戸城で興行している。
四条河原の芝居小屋は江戸時代の寛永年間(1624~44には常設されていたらしい、飲食店、茶店などが軒を並べ、遊興街として発展した、1714年現在、四条河原付近に茶屋169軒、旅籠45軒、水茶屋123軒があった。また、芝居小屋は7軒あった。南座の北の北座は1893年(明治26)に廃座された。
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元弘の戦乱。笠置山を取り囲む鎌倉幕府方に対し、武器によって応戦していた天皇方でしたが、続く戦いの中、武器だけでなく、下から攻める敵方に岩を落として応戦したと伝えられています。
「ゆるぎ石」はその名残で、不安定なため、端を押すとゴトゴトと揺れるので、この名が付きました。
ゆるぎ石 元弘元年(1331)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲を受けたところで、この石は奇襲に備えるための武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため「ゆるぎ石」といわれている
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吉野大夫
江戸時代初期、吉野大夫は本阿弥光悦や灰屋紹益(豪商)らと交遊していた。京都市北区鷹峯の常照寺に吉野大夫が寄進した山門の吉野門がある。墓も開山堂の脇にある。二代目吉野大夫は(1606~43本名松田徳子)は慶長11年3月3日洛東方広寺付近で生まれ、7歳で公許の遊里・六条三筋町に預けられた。そこは名だたる文人や学者が集う高級社交場で、容色だけでなく一流の知識と文化芸能を身につけていないとその大夫の座につけない。書・画・和歌連歌・俳諧・立花・茶湯・聞香・太鼓・鼓・琴・三味線・囲碁・双六にまで及ぶ。灰屋紹益(16010~1691、本名 佐野重孝)は、上京の智恵光院上立売の紺灰問屋だったことから通称になっているが、元は本阿弥光益の子で佐野家の養子になった。生涯を通じて多趣味で風雅な生活を楽しんだ人。吉野が身請けされ結婚した時は紹益22歳、吉野26歳だった。その後吉野は38歳で亡くなった。紹益は、土佐光起に吉野大夫像を描かせた。常照寺にはその絵を徳力富吉郎が模写した吉野大夫像がある。4月の第3日曜日に吉野大夫花供養があり、光悦寺から常照寺まで島原の太夫の道中がある。
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この 牛は・・・
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祇園 梶子(ぎおん かじこ、生没年不明)は江戸時代中期の歌人。本名は梶。本姓不明。梶女とも。
梶子は京都祇園の八坂神社近くで茶店を営む店主であった。幼少の頃より、草子や歌物語を好み、特別な師を持たなかったが、歌才に恵まれ、公家の冷泉為村から和歌を贈られるほどであった。
宝永3年(1706年)に歌集『梶の葉』を出版。挿絵は友禅染めで有名な宮崎友禅斎が描いた。和歌を口ずさむ店主がいる珍しい店として、梶子の和歌目当てに訪れた客で茶店は繁盛し、梶子の歌名は、洛中のみならず全国に知られたという。また、町絵師でもあった友禅斎が絵を描いた扇子に、客の頼みで梶子が和歌を書き、客がそれを京都の土産にすることもあったという。
梶子は生涯独身であったが、百合という養女を貰い、茶店を継がせた。百合も養母梶子と同じく歌才に恵まれ、歌集『佐遊李葉』を残している。百合は旗本徳山氏との間に一女・町をもうけており、この町が後に池大雅と結婚し自らも画家として知られる玉瀾である。梶子、百合、町の三人で祇園三女として知られた。
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南を見る
昔の京は道が狭かったのか
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中村内蔵助は京都で巨万の富を築いた商人。内蔵助と親交のあった尾形光琳のアドバイスで、当時行われた「衣装比べ」に出た妻が、あえて地味な装いで登場し、称賛を得たという逸話が残る。正徳4年(1714)5月、光琳の後援者、銀座年寄りだったが貨幣改鋳の不正事件で家財没収のうえ、闕所追放となった。
「中村内蔵助像」(重要文化財、江戸時代中期)は、琳派の代表的な画家として著名な尾形光琳の描いた唯一の肖像画として貴重です。光琳の最大の後援者を題材としたこの作品には、内蔵助の堂々とした佇まいが描写される
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胎内くぐり
笠置山修行場の入口にあり、行場入りする前に滝で身を清めるのが普通であるが、当山は滝がないためこの岩をくぐり抜けることにより身を清めたという。安政地震で天井岩が落下、以後切り石の天井となった。
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池大雅の妻
本名は町、柳沢淇園(やなぎさわきえん)や夫から画業を学ぶ、大雅より4つ年下とされている。八坂神社南門の近くの名物茶屋の娘であった。初代は祖母の梶・母の百合・そして町の三代続いた。大雅は東山双林寺門前や八坂神社境内でむしろの上に自らの書画を並べて商っていた。大雅30歳、町26歳の頃夫婦となった。大雅はふらりと家を出ると1ケ月も家に帰らず画を描いた。そんな大雅を町は大きく包み込むように見守り、動ぜず留守を守った。二人は終生仲睦まじく暮らした。大雅は1776年(安永5年)、54歳で亡くなった。玉蘭はその後も8年間、茶屋を守りながら過ごし、1784年(天明4年)56歳の生涯を終えた。
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