北方向を 見る
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き向0506 冨永屋 伊能忠敬が宿泊、初代若乃花が風呂を使う
五七五
足あとが 書き込んで有る 友の地図 /大杉
ことわざ
人のふり見て我がふり直せ
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五七五
足あとが 書き込んで有る 友の地図 /大杉
ことわざ
人のふり見て我がふり直せ
9月28日 千本西入 烏丸町
9月28日 裏門東入 南新在家町
9月28日 黒門西入 下石橋南半町
平成29年6月8日 紙屋川東入 西町
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五七五
熱燗や 話し上手に 聴き上手 /太田
ことわざ
大敵と見て恐れず小敵と見て侮らず
物集女の歴史と地名の由来
来たらまっすぐ南下してきた物集女街道は、この場所で向日丘陵のすそにひろがる段丘に突き当り、いったん大きく東にカーブして、段丘の縁に沿ってさらに南へ続いていきます。この段丘上に古くから形成されてきたのが物集女の集落です。この地の歴史は、今から1万年以上前の旧石器が発見された中海道遺跡にさかのぼり、縄文時代終わりころから現在に至るまで、連綿と人々の生活が営まれてきたことがわかっています。
物集女の地名は、古くこのあたりに土師氏の支族である「毛受腹」の人々が住んでいたことにちなむ、という説があります。記録には、平安時代の辞書『和名類聚抄』に乙訓郡の郷名の1つとして「物集毛都米」と登場するのが最初です。
平安京・京都に入る重要な道であった物集女街道と、丹波へ向かう街道が交わる物集女は、古代から多くの人や物資で賑い、戦乱の時には軍勢が行き交う場所でした。室町時代になると、この地は嵯峨の天龍寺の庄園となり、物集女庄とよばれるようになります。やがて戦国時代に入ると、庄園の代官として、また地元の有力者として実力をつけた武士が現れ、地名をとって物集女氏を名乗りました。物集女氏は、今から540年ほど前、現在の物集女町中条に土塁や堀を備えた居館を築き、支配の拠点としました。その跡は現在も残り、乙訓地域を代表する平地の城館として、全国的にも貴重な存在です。城跡の周囲は昔からの集落で、屈曲した道に沿って寺院や家々が並び、かつての面影を今に伝えています。城跡の地名「中条」は村の中心を示し、地区の南端には「南条」、その隣には「出口」の地名もあります。城跡の近くにある「御所海道」や「中海道」の「海道」は、古い集落を意味する「垣内」に通じ、城(御所)や家並みの存在を示しています。
この情報板が建っている付近は、北の端にあたる場所で、「北ノ口」という地名が残ります。古くから続いてきた物集女の歴史は、現在の地名や景観のなかにも脈々と息づいています。平成28年 3月 向日市
物集女北ノ口の常夜燈
この常夜燈は、火事を防ぐ火伏の神様「愛宕さん」へ火を献じるための愛宕灯籠です。向日市域では愛宕信仰が盛んで、その昔、町内ごとに灯籠を設けることが多く、現在市内では24基の愛宕灯籠が確認されています。このうち物集女地区には二基あり、一基はこの燈籠、もう一基は南東500mほどの場所にある、通称「サクライ」の祠の南側にあります。
燈籠の正面に「愛宕山 常夜燈」と刻まれた下には「右柳谷 左山崎」 左側の面には「右あたご通」とあります。北から南下してきた物集女街道が大きく東へカーブする曲がり角に位置するこの燈籠は、道しるべの役割も果たしてきました。
右側面には、江戸時代後期の天保2年(1831)に、地区の青年集団である「若中」が、村内の安全を祈って建立したものであることが記されています。なお、今まで失われていた笠石ゃ火をともす火袋については、今回の石碑保全活用工事において、本来の姿に近づけるよう復元しました。平成28年 向日市
上部の笠石と火袋が復元された
愛宕山
常夜燈
右柳谷 左山崎
天保2年 秋
當村 安全
世話 若中
右 あたご道
サクライの祠
愛宕燈籠 一覧 ➡ 愛宕燈籠 一覧
愛宕燈籠 前回の記事 ➡ 愛宕燈籠西048 弥勒寺より 東へ
五七五
友達って いいなあメール 弾んでいる /田村
ことわざ
竹馬の友
愛宕神社 と書いてある
横に書かれている文字は わかりにくい
関連記事 ➡ 愛宕燈籠 一覧
前回の愛宕燈籠記事 ➡ 愛宕燈籠047 桃山 水野左近東町
五七五
ページ繰る 新たな道を 探る旅 /笠
ことわざ
天に眼
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ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0063 北野天満宮 御土居の紅葉
五七五
ページ繰る 人と生まれし 幸を知る /柴倉
ことわざ
命は宝の宝
式内
綺原座健伊那太比賣神社
明治21年9月
由来
ここに鎮座されます綺原神社は「大日本史」「日本書紀」「延喜式」にも綺原座伊那太比賣神社として記述されており、祭神は「タテイナダヒメ」とされ、タテは健康、イナダは稲田で達者で農耕にいそしめるよう祈願されたものだと考えられます。ここの地名「綺田」はその昔、紙織または神織とも呼ばれ、神に献ずる衣服を織る技術者及び養蚕技術者を祀った社とも言われており綺氏一族(秦氏一族)の創起だと言われております。
現在は、菅原道真公を祭神とする天神社及び、八王子社を併せおまつりしております。
本殿
狛犬
天神社
狛牛
末社
遥拝所
牛
昭和45年建立
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神社 前回の記事 ➡ 神社向0105 向日神社
五七五
老いの影 振り払うよう 髪染める /内西
ことわざ
玉に瑕(たまにきず)
向日丘陵南端部、乙訓地域を一望できる最良の地に鎮座する当社は、『延喜式』神明朝に記載された式内社で、「向神社」と称されていました。『向日神社略記』によれば、後に乙訓坐火雷神社を併祭して現在に至っています。後世、向神社を上ノ社と呼び五穀豊穣の神、火雷神社を下ノ社と呼び祈雨・鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは古書に数多く見られます。神社の創建は、養老2年(718)に六人部氏が当地を賜ったことに始まるといわれます。
棟札によれば、本殿は、応永25年(1418)より4年の歳月をかけて建造されたもので、造営は、向日市域内外の7ケ村の共同事業として行ったことを記しています。本殿の建物は、三間社流造で、創建年代のわかる室町時代の代表的な神社建築として重要文化財に指定されています。現社殿は、透塀を囲んで本殿覆屋があり、幣殿・拝殿と連結して権現造のような一連の建物を呈しています。また、明治神宮本殿は、当本殿をモデルとして建立されたとも伝えられています。
現本殿は、東面して建っていますが、江戸時代の『山州名跡志』等には、南面した姿が描かれています。本殿の背後には、京都府下最古の前方後方墳・元稲荷古墳が所在しており、当神社の地が、古くから乙訓地域を治める人々の聖域であったことが伺われます。当社の神官六人部氏は、平安時代以来の由緒を伝える家系で、特に幕末にでた六人部是香は有名です。是香は、平田篤胤に師事し、多数の書を著した国学者で、倒幕運動の一翼を担っていました。京の情勢を窺がうに便利な地にあった六人部家には、坂本龍馬や中岡慎太郎も立ち寄ったといわれます。祭礼~おいで祭り~
宝物
『日本書紀』神代紀下巻(重要文化財)
本殿棟札(重要文化財)
伝小野道風筆『額』
「向日神社政印」の銅印
天狗久作銘「飾太刀」
豊臣秀吉、徳川家康「朱印状」他
六人部氏
さざれ石
国歌に詠まれている「さざれ石」この石は学名石灰質角礫石と言う石灰岩が雨水に溶解しその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い液状となって地下にて小石を集結し次第に大きくなり、やがてそれが地上に出て国家に詠まれている如く千代に八千代に年を経てさざれ石巌となりて苔のむすと言う誠に目出度い石である。全国至る所の石灰質の山や谷に産す岩であるが、この石は岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので集結過程の状態がこの石を一見して知ることが出来、団結と平和繁栄と長寿を象徴した石であります。向日神社
説明板より
普賢象
普賢象は水上勉の小説「櫻森」に登場する桜です。『普賢象は弥吉の好きな桜の1つで、これも竹部からの知恵だったが、上京区の千本閻魔堂にある1本は見事である。たいいち花が変わっている。下向きにうつむいて咲くのが特徴だが、数多い花弁の中から2つの変わり葉が出て、それが普賢菩薩の乗った象の目に似ているといわれる』弥吉は植木職人で櫻守の主人公、竹部はモデルとなった笹部新太郎で弥吉の雇い主です。
この桜に気付いたのは鎮守の森の整備を始めた平成16年の4月が終る頃でした。参道のこの場所が薄桃色の絨毯を敷いたようになりました。なぜここに普賢象があるのだろうと考え調べると、向日神社の北に笹部新太郎さんの桜の園がありました。
桜の園は昭和36年に名神高速道路の土を取るため壊されましたが、この普賢象はその時桜の園から移されたものだと思われます。
向日神社に桜を植えたのは90代の宮司六人部是香ですが、孝明天皇の家庭教師であり、幕末には王政復古の実現に奔走した国学者でもあります。
向日神社のようすがわかるもっとも古い絵図は、江戸時代中期に発行された「都名所図会」ですが、挿絵を見ると社殿の位置が現在と異なり南を向いています。1819年の地震で社殿が傷み是香が東向きに建て替え、その時参道も整備して両側に山桜を植えました。
1822年是香25歳の時ですが、それから10年後向日町の商家の日記に向日神社の花見のようすが記され、和歌を詠む会が催されており、桜の名所になっていたようです。
その桜は残っていませんが、2005年ごろまで樹齢100年は超えていると思われる山桜が5本、本殿の裏にありました。今、霞桜の大木が1本、本殿の北側に残っており、4月下旬花をつけます。 鎮守の森の会
説明板より
紅山桜
山桜の仲間で花が薄紅色であることからこの名前が付きました。山桜にくらべて花が大きいことからオオヤマザクラとも、北海道に多く自生していることからエゾヤマザクラともいわれています。自生しているのは本州の中部以北で関西では見かけません。同じような紅山桜が東に300mばかり下った祓所公園にもあります。
この桜に気付いたのは鎮守の森の整備を始めた平成16年4月のことです。なぜここに紅山桜があるのだろうと考え調べると、向日神社の北に笹部新太郎さんの桜の園がありました。桜の園は昭和36年に名神高速道路の土を取るために壊されましたが、この紅山桜はその時桜の園から移されたものだと思われます。鎮守の森の会
勝山稲荷社
拝殿
本殿
狛犬
御霊神社
勝山身代不動
神社 前回の記事 ➡ 神社左0104 北白川天神宮 と 御旅所
五七五
ページ繰る 我が人生の 幾山河 /新妻
ことわざ
棄てる神あれば拾う神あり
普門山と号し、真言宗智山派の寺、白鳳時代の銅造釈迦仏と不思議な霊験談を有する名刹。
昔この村に篤信家があって、7つになる娘もつねに観音を信仰していた。その娘がある日、蟹を捕える村人をみて、これを買い取り、逃がしてやったことがあった。その後、娘の父は田圃で蛙を呑もうとする蛇をみて、蛙を放すのなら娘の婿にしようといったところ、蛇は呑みかけた蛙を吐き出して姿を消した。その夜、人間と化した蛇が訪ねてきて、昼間の約束の実行を迫った。おどろいた父は3日の猶予を乞い、そのあいだに堅固な部屋をつくってその中に娘を閉じ込めて隠れさせた。3日後に訪ねてきた男は、この有様をみて大いに怒り、たちまち本性をあらわし、娘のかくれている部屋を這い巡り、尾をもって戸を叩き破らんとした。ところが夜中に多数の蟹が来襲し、蛇をさんざん挟み斬って娘の危難を救った。これは娘がつねに信仰する所の観音の加護によるものといわれ、殺された蛇は蟹と共に1ケ所に埋葬し、一宇の堂を建てたのが当寺の起こりと伝わる。
太秦広隆寺の蔵書には、秦河勝の弟和加(阿津見長者)の建立とある。奈良朝以前に秦氏一族によって造営されたものといわれるが、裏付ける飛鳥・白鳳時代の瓦の出土がいまだない。
江戸時代の正徳元年(1711)智積院の亮範法師によって再興された。真言宗智山派の寺となった。
本堂は宝暦9年(1759)の再建。
本堂に安置される。釈迦如来座像は国宝・奈良時代
現在は当寺の本尊になっているが、実際は他所にあった仏像で、銅造、丈六の巨像。現存する古い銅仏としては奈良薬師寺の薬師如来座像と並び称される。
蟹が彫られていますが
燈籠にも蟹
扁額
本堂の壁に
社務所の前で
釈迦如来座像
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五七五
なべやきと 決めていながら 見るメニュー /片山
ことわざ
蟹は甲羅に似せて穴を掘る