蔵のある風景 前回の記事 ➡ 蔵のある風景伏0321回 伏見区 宝塔寺 付近
五七五
飲むとまだ将来語る夫です /よっしー
ことわざ
石の上にも三年(いしのうえにもさんねん)
類・茨の中にも三年の辛抱、三年居れば温まる、火の中にも三年、辛抱する木に金がなる
蔵のある風景 前回の記事 ➡ 蔵のある風景伏0321回 伏見区 宝塔寺 付近
五七五
飲むとまだ将来語る夫です /よっしー
ことわざ
石の上にも三年(いしのうえにもさんねん)
類・茨の中にも三年の辛抱、三年居れば温まる、火の中にも三年、辛抱する木に金がなる
京都市伏見区深草坊町4
寺院伏0344 瑞光寺 日蓮宗
深草山と号する日蓮宗の寺である。この地は、もと極楽寺薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していたが、明暦元年(1655)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれている。
上人は、京都に生れ、俗名石井吉兵衛と称し、元和9年(1623)一条戻り橋付近で生まれた。13歳のとき彦根藩に仕えた武士であったが、生まれつきからだが弱く、26歳の時、妙顕寺の日豊上人の弟子となり、明暦元年(1655)に出家してここに草庵を建て、父母を引き取って孝養に務め、学者、文人、又は孝子として知られるようになった。とくに元政の孝心は名高く、好きな連歌会に誘われても、夜遅く帰宅して老母の安眠を妨げることをはばかり、出席を断っていた。常に法衣を脱がず、きびしく身を律して勤行につとめ、多くの人々が信服した。著書「草山集」が有名。寛文7年(1667)12月、母親の死の2か月後に寛文8年2月18日、46歳で没した。上人の墓は、境内の西隅にあり、遺命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。本堂寂音堂は、丸みを帯びた萱葺屋根の建物で、寛文元年(1661)に建立されたものである。堂内に安置する本尊釈迦如来座像は、中正院日護上人の作で、胎内に法華経一巻及び五臓六腑を形作ったものが納められている。熊沢蕃山、石川丈山、清国の人陳とも親交を結んだ。毎年3月18日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開される。水戸光圀は西国巡礼と途次に当寺に立ち寄っている。京都市
弁財天 帝釈天
鐘楼
本堂 上人在世当時の面影をそのまま伝える
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0343 慈雲院 日蓮宗
五七五
和牛なら霜降りだけどこのアタシ /久
ことわざ
石に布団は着せられぬ(いしにふとんはきせられぬ)
類・孝行したい時分に親はなし
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まち歩き前回の記事 ➡ まち歩き伏0385 琵琶湖疏水 砂川橋
五七五
5分だけ寝転ぶつもりが3時間 /山口
ことわざ
石に判(いしにはん)
類・石に錠、石の証文岩の判、石屋の尻に老中の判
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七面宮参道
太鼓楼
宝塔寺の鎮守社で、法華経守護の吉祥天が祀られている
三十番神
三十番神
千仏堂
七面大明神
七面大明神
七面大明神
妙見大菩薩
熊鷹大明神
清高姫大明神
祠 前回の記事 ➡ 祠伏026 伏見区 何の神さんかな
五七五
生きてるよ知らせるために雨戸開け /兜
ことわざ
石に立つ矢(いしにたつや)
類・雨垂れ石をも穿つ、一念岩をも徹す、一念天に通ず、精神一到何事か成らざらん
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京都市伏見区深草宝塔寺山町32-6
明暦3年(1657)日銀の弟子日利が開く、明治に入り、玉泉院を併合した。
瑞光寺元政ゆかりの寺
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0342 霊光寺 日蓮宗
五七五
予定欄使うことなく月替わる /森井
ことわざ
石に立つ矢(いしにたつや)
類・雨垂れ石をも穿つ、一念岩をも徹す、一念天に通ず、精神一到何事か成らざらん
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深信院、本久院、了性院 廃寺跡
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0105 一本松
五七五
台所目的忘れ水を飲む /阪田
ことわざ
石に漱ぎ流れに枕す(いしにくちすすぎながれにまくらす)
類・流れに枕し石に漱ぐ、漱石枕流
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京都市伏見区深草宝塔寺山町32
境内に立本寺21世日審上人像を安置した廟所があり、安産祈願の信仰がある
寺伝は、真言宗荘厳院が日蓮宗に改宗して、霊光寺と改称したという。慶長元年(1596)現地に再建された。墓地には、江戸初期の将棋名人、大橋宗桂と、江戸末期の名人、天野宗歩夫妻の墓があり、将棋の駒形をし、裏面にそれぞれ桂馬、歩兵がそれぞれ彫られている
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0341 直勝寺 日蓮宗
五七五
平等に便座は人を座らせる /加藤
ことわざ
石に灸(いしにきゅう)
類・石に針、ししの角を蜂が刺す、沢庵の重しに茶袋、豆腐に鎹、泥にやいと、糠に釘
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周辺案内図
四脚門
駒札
深草山と号する日蓮宗の寺院である。
寺伝によれば、藤原基経が発願し、昌泰2年(899)に藤原時平が大成した極楽寺に始まるといわれる。当初は真言宗であったが、徳治2年(1307)に住持の良桂が日蓮の法孫・日像に帰依して、日蓮宗に改めた。
また、日像が京都に通じる7つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の1つが、当寺の日像廟所に奉祀されたことにちなみ、寺名を宝塔寺と改称したとされる。本堂(重要文化財)は、江戸初期の1608年の創建で、本尊の十界曼荼羅、釈迦如来立像、その左右の日蓮・日像の像が祀られている。行基葺の多宝塔は永享10年(1438)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(総門)とともに重要文化財に指定されている。境内には、肺病治療の名医で、肺病平癒の信仰を集める宗有とその妻妙正の墓があり、夫婦塚と呼ばれている。また、本堂背後の七面山には、寛文6年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神を祀る七面宮があり、そこからの眺めは素晴らしい。 京都市
総門・四脚門
縁起は藤原氏の極楽寺にさかのぼる。徳治2年(1307)日蓮の法孫は日像は、京都布教中に洛外へ追放された。その時、真言寺(向日市)で、時の極楽寺住持良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂は屈服した。極楽寺を法華道場に改め、日像を開山に仰ぎ、自らは二世になった。日像は京都妙顕寺で没するが康永元年(1342)遺言により、ここで荼毘(火葬)に付された。今、参道に碑が立っている。また、日蓮、日朗の遺骨も納められたので、西身延、巽の霊山とも呼ばれている。天正18年(1590)妙顕寺日尭が本堂の再興を志し、弟子日銀がその志しを受け八世を継ぎ、荒廃した諸堂の再建に着手。本堂(重文)は、京都大仏殿建立の余材が寄進され、慶長13年(1608)落成した。この時、寺名は鶴林院常寂寺、深草山宝塔寺に改められた。
四脚門
門を入って 振り返ったところ
平成8年から始まった本堂の解体復元工事に関連して、宝永2年(1705)に起工された仁王門の彩色修復調査を行った際、28㎝四方の正方形に区切られた天井板1枚1枚にボタンが描かれているのが判明、復元された約250枚の色鮮やかに描かれたボタンが再現している。
本堂(重文) 本尊 十界曼茶羅、立像釈像(釈迦像)。
大仏殿の余材寄進により、桧、欅、栂など多種の木材が使われている
秋山自雲(岡田孫右衛門)の墓。
孫右衛門(1699~1744)は、摂津の酒造家に生れ、長じて江戸霊厳島の酒問屋を継いだ。38歳の時、持病にかかり全治しなかった。頭をまるめて浅草山谷本寺の題目堂に篭って、法華信仰による平癒祈願に努めるが、その効なく、7年間持病に苦しみ、45歳で没した。秋山自雲は戒名で、死に臨んで「願わくば、後世、持病痛苦の者の来って、題目を信仰せば、我これを援護し、利益を垂れん」と、一大誓願を発して世を去ったという。以来、痔疾平癒祈願の参拝者は多く、浅草から各地の日蓮宗寺院に分骨された。京都でも宝塔寺以外に8ケ所の分祀があるといわれる。病気が病気だけに、石塔に裏側からも拝めるようになっている。
宝塔寺
秋山自雲(岡田孫右衛門)の墓。
孫右衛門(1699~1744)は、摂津の酒造家に生れ、長じて江戸霊厳島の酒問屋を継いだ。38歳の時、持病にかかり全治しなかった。頭をまるめて浅草山谷本寺の題目堂に篭って、法華信仰による平癒祈願に努めるが、その効なく、7年間持病に苦しみ、45歳で没した。秋山自雲は戒名で、死に臨んで「願わくば、後世、持病痛苦の者の来って、題目を信仰せば、我これを援護し、利益を垂れん」と、一大誓願を発して世を去ったという。以来、痔疾平癒祈願の参拝者は多く、浅草から各地の日蓮宗寺院に分骨された。京都でも宝塔寺以外に8ケ所の分祀があるといわれる。病気が病気だけに、石塔に裏側からも拝めるようになっている。
宗有、妙正の墓。2人は内科医夫婦である。2人の詳細は不明であるが、この墓前で朴木の塔婆を上げて読経してもらい、その灰をのめば、胸の病が治るといわれてきた。朴木は、古来、胸の病に効くといわれ、胸の病で亡くなった桃園天皇の皇后は、死後、自分の墓のそばに朴木を植え、この病気で困っている人に、この木の葉を煎じて飲むようにと遺言されたという。今も、泉涌寺の墓のそばに朴木が茂っている。また、歌舞伎の「大経師昔暦」の登場する、おさん、茂兵衛の比翼塚との伝えもある。そのためか、俳優さんの参拝もある。
伊良子一族の墓。伊良子道牛(1671~1734)は16歳から10年間、長崎で河口良庵からカスパル流外科を学び、元禄9年(1696)江戸への途中、伏見で草鞋を脱いだ。銀座2丁目で開業し、患者は列をなしたと伝えられている。享保12年(1727)に入門した大和見水は岸和田で開業するが、その養子となった大和見立の弟子に華岡青洲(1760~1852)がいる。
伏見は、伊良子流外科の発祥の地であり、宝塔寺の南、真宗院墓地には、山脇東洋の墓があって、深草は、近代医学の先駆者たちの眠る場所なのであるが、道牛の墓石は紛失している。(伊良子氏は、今も、滋賀県近江八幡で外科医を継承されている)
その他、江戸時代の儒者、山本亡洋や三宅寄斎の墓があり、京都大丸の下村家の広大な墓地もあるが、その中で、大丸従業員の供養塔が目につき、そこには出身地と名が刻まれている。
鐘楼
仁王門
寺号標
大正7年 大坂 川端半兵衛
極楽寺開創1100年記念
右 七面・ ・・・・熊鷹・・ 之
小西巻三郎
秋山自雲 ➡ 人物024 秋山自雲
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0337 摂取院 浄土宗
五七五
幼児に見せたくなくて消すニュース /みぐママ
ことわざ
砂長じて巌となる(いさごちょうじていわおとなる)
小さな砂つぶが大きな岩石に成長いるという言い伝えから、永く栄えることを祝っていうことば、また小さなもの、とるにたらないものでも、たくさん集まれば、大きなもの、価値あるものになるということ。
類・塵も積もれば山となる
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日像は京都妙顕寺で没するが康永元年(1342)遺言により、ここで荼毘(火葬)に付された。今、参道に碑が立っている。また、日蓮、日朗の遺骨も納められたので、西身延、巽の霊山とも呼ばれている。
墓所 前回の記事 ➡ 墓山002 圓如上人 浄土真宗の僧侶
五七五
おみくじの文面だれが作るのか /明日香
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京都市伏見区深草宝塔寺山町32-3
大雲院日随が開く、日随の隠居所。 昭和16年、院から寺に改称。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0340 円妙院 日蓮宗
五七五
片まゆをひいたところで降りる駅 /荒川トンボ
ことわざ
石地蔵に蜂(いしじぞうにはち)
石でできた地蔵は、蜂が刺しても痛みを感じないことから、痛くも痒くもないことのたとえ。
類・牛の角を蜂が刺す
・蛙の面に水
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京都市伏見区深草宝塔寺山町32-5
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0339 大雲寺 日蓮宗
五七五
うるさいのケータイよりも車掌さん /小心者
ことわざ
石が流れて木の葉が沈む(いしがながれてこのはがしずむ)
重くて沈むはずの石が流れて、軽くて浮くはずの木の葉が沈むというように、物事が逆になっているたとえ。
類・石が浮かんで木の葉が沈む
・西から日が出る
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西之大坊大雲 寺
京都市伏見区深草宝塔寺山町32
元、宝塔寺塔頭 天正年間(1573~1591) 宝塔寺8世日銀の弟子日随が開く。宝塔寺6坊の第1。昭和28年、大雲院から大雲寺に改称。
福祉事業として「老人憩いの家」を開設
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0338 宝塔寺 日蓮宗
五七五
被災地に居る気配せぬ神ほとけ /真喜楼
ことわざ
石臼を箸に刺す(いしうすをはしにさす)
石臼を箸で突き刺せというような無理を言うこと。ただをこねること。
類・石臼を針にする
・石臼を楊枝に刺す
・斧をといで針にする
・豆腐をわらでつなぐ
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蔵のある風景 前回の記事 ➡ 蔵のある風景東0319回 本町十六町目 付近 蔵っぽい
五七五
お母ちゃん今じゃ虐待かなヤイト /紀の笹
ことわざ
いざ鎌倉(いざかまくら)
さあたいへん、一大事がおこった、すぐにも駆けつけ泣けなければ、という意。
用・危急のときや大事が起こった場合にいう。
知・鎌倉時代、大事件がおきたとき諸国の武士が幕府のある鎌倉に召集され、馳せ参じたことから。謡曲『鉢木』の中のことばに由来するという。