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史跡亀岡086  丹波国分寺跡 

2021年06月20日 07時30分09秒 | 史跡・旧跡

 

史跡 丹波国分寺跡 附八幡神社跡

丹波国分寺跡は、現在の国分寺境内に塔跡の礎石がすべて残り、

またその鎮守社と考えられる八幡神社の跡があることなどから、

貴重な遺跡であるとして昭和3年に国の史跡に指定されました。

平成18年には発掘調査の結果、寺域が追加されました。

 これまでの発掘調査により、伽藍配置や各建物の規模等は概ね解明されていることから、

国分寺の往時の姿を感じ取っていただくために、現在、環境整備工事を進めています。

東面回廊跡

丹波国分寺 回廊跡

丹波国分寺は東に塔、西に金堂、その背後に講堂を配置する伽藍です。

回廊は伽藍(仏地と僧地)を画する細長い建物で、塔と金堂、

さらには講堂を取り囲む場合、また金堂や講堂に取り付く場合など様々です。

 丹波国分寺では、回廊が僧房まで取り囲んでいる点が特徴的ですが、

講堂に取り付く築地が想定され、これによって仏地と僧地を画していたと思われます。

また、南面に比べて他の面は基壇の幅が狭いことから、南面のみの回廊で、

東・北・西の面は築地が巡っていた可能性が考えられます。

亀岡の名木

丹波国分寺跡のイヌマキ

亀岡の名木の中に4本のイヌマキが指定されているが、その中でも一番樹形が整い、庭木らしい木である。

晩秋、熟した実は食べられる。

胸高幹周 2.2メートル

樹高 8メートル

「亀岡の名木」108ページ 所載

聖武天皇 勅願所

丹波 国分寺

国分寺(千歳町)

奈良時代に建立された国分寺は中世以降、一時衰退しましたが、元禄年間(1688~1704)に再興され、

現在の本堂は、安永3年(1774)に護勇比丘が近在の村はもちろんのこと、全国的に浄財を集めて建立しました。

 本堂は、正面向拝を唐破風造とした入母屋造、妻入の建物で、

城下紺屋町の木村藤四郎玄信が大工棟梁として、花野九兵衛が瓦工として関わっています。

内部の格天井には四季折々の花鳥風月が描かれるなど、彫刻や柄様に見られる匠技は見事です。

また、山門や鐘楼も本堂と同時期に建てられたもので、

丹波国分寺の歴史を今に伝える重要な建物として、亀岡市指定文化財になっています。

 本尊の薬師如来坐像は平安時代後期の作で、国の重要文化財に指定されています。

また、後堀川上皇が北国の天変を心配して、この薬師如来に祈願したところ宮廷に米が降ったということから、

「飯薬師」と呼ばれています。

さらにイチョウ、カゴノキ、ムクノキは亀岡市指定文化財となっています。

なを、本堂等を再建した護勇比丘の墓所は、山門の南方約130メートルの竹藪の中にあります。

亀岡の名木

丹波国分寺跡のオハツキイチョウ (雌)

雌雄異株の落葉高木。たれさがった気根(俗に乳という)にふれると母乳が良く出るといい

「チチイチョウ」と呼ばれ信仰されてきた。

オハツキイチョウは「お葉つき銀杏」の意で葉の先にも実(正しくは種子)がつくことから名付けられた。

これはまれに現れる奇形である。亀岡市の天然記念物に指定され、京都・自然二百選にも選ばれている。

調査日 1996年1月29日

胸高幹周 4.3メートル

樹高 22メートル

亀岡の名木

丹波国分寺跡のカゴノキ(雄)

雌雄異株の常緑高木。京都府下に稀に自生する暖帯~亜熱帯性の樹木で主に渓流脇の岩の多い斜面に生え、

また神社の境内でしばしば見るが、寺院跡にあるのは珍しい。

府下では三指に入る大きさを誇る。和名は幹に生ずる鹿の子まだら模様に由来する。

天保時代の書「盥魚庭落葉」の国分寺の境内図にオハツキイチョウと並んで描かれている。

花期9月、果実は翌年の夏に熟す。

調査日 1996年1月29日

胸高幹周 3.3メートル

樹高 13メートル

亀岡の名木

丹波国分寺跡のムクノキ

落葉高木。里山や人里に多く、また神社仏閣に大木が多い。

この木は京都府では屈指の大きさである。ここ国分寺跡には本種の他にオハツキイチョウやカゴノキら巨樹が目立つ。

これは国分寺跡という由緒と密接に関わっているからであろう。

強靭な村は寡婦、船舶器具などに用いられ、葉は木工やべっこう細工の仕上げの研磨に使用された。

果実は甘く、ムクドリが好んで食べる。

調査日 1996年1月29日

胸高幹周 6.3メートル

樹高  25メートル

 

 

 

 

 

 

関連記事 ⇒ まとめ044 京都の自然 200選 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡宇治085  旦椋遺跡

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古墳木津川30 木津川 椿井大塚山古墳

2021年05月22日 07時10分16秒 | 史跡・旧跡

 

現在地から 実線に沿って古墳の頂上部まで行きました。

カラスウリ

後円部を見る

史跡 椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳は、木津川を望む段丘上に立地する古墳時代前期初頭の前方後円墳です。

墳丘の規模は、全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、

前方部墳端幅約76mを測り、高さは後円部約20m、前方部約10m程度であったと考えられます。

築造時期は、奈良県桜井市の箸墓古墳を頂点とする定型化した

前方後円墳の出現時期(3世紀後半)にあたり、いわゆる邪馬台国の時代の古墳です。

昭和28年(1953年)、古墳後円部を横断する鉄道の改良工事が実施され、

偶然に発見された竪穴式石室から、三角獣神獣鏡30数面を含む40面近くの銅鏡や、

おびただしい量の副葬品が出土しました。

三角獣神獣鏡については、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏の皇帝から賜わった鏡とする有力な説があります。

椿井大塚山古墳は、邪馬台国の所在地論争ともからんで、古墳時代成立の鍵を握る記念碑的遺跡です。

JR奈良線の線路が見えます

関連記事 ⇒ まとめ055    古墳

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古墳城陽29 丸塚古墳

2021年01月06日 06時14分38秒 | 史跡・旧跡

 

 

丸塚古墳

丸塚古墳は、前方部が低く短い帆立貝形の前方後円墳で、周囲には周濠がめぐります。

墳丘の長さは80mで、周濠を含めた全長は104mあります。後円部の直径は63mあり、高さは東側で8.3m、西側で9.6mあります。

後円部は2段に築かれていると考えられており、墳丘斜面には葺石が施され、1段目平坦面には埴輪列がめぐっています。

前方部の長さは17mあり、幅は前端で32m、クビレ部で26.5mあり、高さは約2mあります。

前方部は1段に築かれ、墳丘斜面には葺石が施されています。

周濠は墳丘と相似形で、幅が16mあります。

また、周濠の上縁から1.8m外側には約6.6m間隔で円筒埴輪が据えられています。

この埴輪列にわり、古墳の範囲(墓域)を区画していると考えられます。

埋葬施設については未調査のため明らかではありません。

墳丘からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪や形象埴輪が出土しています。

形象埴輪は据えられた状態でみつかったものはありませんが、家形埴輪・蓋形埴輪・甲冑形埴輪が出土しています。

特に家形埴輪は、5棟以上の破片が出土しています。

この内の1棟は大形の入母屋造の家形埴輪で、桁行が約72㎝、梁行が約60㎝、高さが約1メートルあります。

出土した埴輪から、5世紀初めに築造されたと考えられます。

関連記事 ⇒ まとめ055    古墳

古墳 前回の記事 ⇒ 古墳城陽28 久津川 車塚古墳

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古墳城陽28 久津川 車塚古墳

2021年01月05日 12時40分43秒 | 史跡・旧跡

 

国指定史跡 久津川車塚古墳

久津川車塚古墳は南北に主軸をもつ前方後円墳で、3段に築かれた墳丘の長さは約180mあります。

周囲には盾形の周濠が二重にめぐらされており、周濠を含めた全長は272mあり、最大幅は約209mあります。

久津川車塚古墳は、大谷川により形成された扇状地のほぼ中央に築造されています。

久津川車塚古墳梶塚古墳芭蕉塚古墳青塚古墳箱塚古墳指月塚古墳丸塚古墳がそれにあたります。

現在は、国指定史跡の久津川車塚古墳丸塚古墳、城陽市指定文化財の芭蕉塚古墳の他に、

青塚古墳の一部が現存しています。

宇治市南部から城陽市北半部にかけての丘陵上や平地には、多くの古墳が築造されており、

これらの古墳を総称して久津川古墳群と呼んでいます。

久津川古墳群は、広い範囲に古墳時代前期から後期にかけて築造された多くの古墳があり、

京都府内最大の古墳群と言えます。

久津川古墳群は、宇治市南部の広野地域、

大谷川扇状地を中心とした平川地域、

城陽市の中央部にあたる富野地域の3グループに分けることができます。

特に、三基の大形前方後円墳(久津川車塚古墳、芭蕉塚古墳)が所在する平川地域は、

久津川古墳群の中心となっています。

この場所は車塚古墳の東外堀の跡である。

車塚古墳は、墳丘の長さ180mの南向きの前方後円墳である。

周囲には二重の堀がめぐり、外堀を含む全長は272mに達し中期の古墳では南山城最大である。

3段に築かれた墳丘の平坦部や外堤には埴輪が立てられていた。

今は、墳丘下段と二重の掘りは埋まっている。

明治27年(1897)、後円部から長持形石棺と両端に付いた簡単な竪穴式石室が掘り出された。

副葬品に武具武器が多いので軍事に携わった人物が葬られていると思われる。

石棺は大王陵の石棺に多い兵庫県加古川産の竜山石が使われている。

時期は古墳の形や副葬品から5世紀中頃と考えられる。

東方130mにある丸塚と共に国の史跡に指定されている。

石棺出土状態 この石棺 京都大学総合博物館で実物が展示されています。重要文化財

関連記事 ⇒ まとめ055    古墳

古墳 前回の記事 ⇒ まち歩き長岡京1327 長岡京市 古墳長岡京27 恵解山古墳(いげの山) 

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史跡木津川084 恭仁宮跡  内裏

2020年09月18日 09時19分42秒 | 史跡・旧跡

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡木津川083 山城国国分寺跡 旧恭仁宮跡

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史跡木津川083 山城国国分寺跡 旧恭仁宮跡

2020年09月16日 07時58分33秒 | 史跡・旧跡

昔の京の字が使われている

 

 

関連記事 ⇒ 史跡木津川038  山城国分寺址  舊恭仁宮址 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡長岡京082 神足遺跡 旧石器時代~400年前

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史跡八幡081 八角堂 重要文化財 三宅石碑

2020年03月01日 05時55分46秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

 

史跡 石清水八幡宮境内 八角堂
 石清水八幡宮境内は、古代以来の神社境内の趣を今に伝える空間であり、また、境内の地下には、石清水八幡宮が神仏習合の宮寺であったことを示す坊舎跡などの遺構も良好に保存されていることから、我が国の宗教史を理解する上で重要であるため、平成24年に国指定史跡となりました。
八角堂は、かつて石清水八幡宮境内にあり、現在まで残った唯一の仏堂で、神仏習合の宮寺を理解する上で重要であるため、明治期に当堂が移築されたこの地も、境内の一部として国指定史跡となりました。

八角堂の概要
八角堂は、男山丘陵の東裾にある古墳時代前期(4世紀頃)の前方後円墳、西車塚古墳の後円部墳頂に建っています。
本尊は、阿弥陀如来で、石清水八幡宮検校の善法寺祐清により建保年中(1213~1219)に、男山山頂の石清水八幡宮境内西谷に建立されました。)
慶長12年(1607)に豊臣秀頼により再建されましたが、寛文年中(1661~1673)には破損転倒していたため、元禄11年(1698)
に善法寺祐清の勧進により再興されました。
明治3年(1870)に神仏分離政策で石清水八幡宮境内から仏堂等が撤去された際、正法寺の前住職志水円阿が八角堂と元三大師堂を仏像と共に譲り受け、現在地に移築されました。この時、八角堂の東に庫裡を、その南に茶所を設け、八角院と称されていました。
本尊の木造阿弥陀如来像は、大正6年(1917)に古社寺保存法により国宝に、昭和25年(1950)に文化財保護法により重要文化財に指定されました。
その後、平成10年(1998)に京都国立博物館に寄託され、平成20年(2008)に八幡市清水井の正法寺境内に移されました。
平成24年(2012)に石清水八幡宮境内が国指定史跡となった際、八角堂の建つこの地についても、境内の一部として国指定史跡となり、平成25年(2013)に国庫補助事業により市有化しました。
明治期に整備された建物は、八角堂を除いて昭和50年代には撤去され、新たに建てられた東屋が敷地南西部に残り、今日に至っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡079 女郎花 塚

関連記事 ⇒ 関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

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史跡八幡079 女郎花 塚

2020年02月29日 08時59分10秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

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史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡080 松花堂庭園

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史跡八幡080 松花堂庭園

2020年02月28日 07時52分24秒 | 史跡・旧跡

 

八幡と吉井 勇
放浪の歌人 吉井勇は、昭和20年10月(60歳)から23年8月まで、孝子夫人とともに八幡月夜田にある宝青庵(通称紅葉寺)で暮らした。
勇は八幡での2年10ケ月を「人世行路にようやく光明が射し始めてきた時期」であったと回想している。終戦による文学上の自由の回復と、出版界の活況が勇の文筆意欲を高め、この期間に雑誌などの原稿を多く書くほか、歌集を9集、小説3編を出版しており、23年1月に宮中歌会始の選者に、8月には日本芸術院会員となり、歌壇の頂点に到達した感があった。その歌境は、人生の幾多の起伏を経て沈潜した枯淡味が増し、日常の生活詠には自然と人間に対する勇の深い愛情を読み取ることができる。とくに、歌集「残夢」には松花堂庭園をはじめとして、八幡の風物と人々の暮らしを詠んだ五百余首が収められた。
勇の足跡は、その作詞になる「八幡音頭」として市民に愛誦され、踊り継がれており、男山団地内の地名に「男山吉井」としてのこされている。
昭和60年10月、八幡市の「やわた文学碑建立事業」の第1号として吉井勇歌碑が除幕された。
昭乗といへる隠者の住みし盧
近くにあるをうれしみて寝る

 

湯川秀樹さんも一緒に写っています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かか

 

 

 

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡078 石清水八幡宮 小塔跡

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史跡八幡078 石清水八幡宮 小塔跡

2020年02月26日 06時08分29秒 | 史跡・旧跡

 

西谷・小塔跡
当初より、神仏習合の宮寺であった石清水八幡宮の御本社西側、「西谷」には、早くも平安時代中期から仏堂建立が始まった地区です。今から900年程前の平安時代後期、白河法皇が大塔の建立を発願したことをきっかけに、谷を埋めた大規模な整地が行われ、大塔に続き小塔、鎌倉時代には八角堂など、数々の仏塔や仏堂が建立されました。
小塔は鳥羽天皇の皇后である待賢門院(藤原璋子)の発願により、長承元年(1132)にこの付近に建てられ、文禄5年(慶長元年・1596)の「慶長の大地震」で倒壊したまま再建されませんでした。大塔より小型の「多宝塔」と呼ばれる形式の塔でした。

関連記事 ⇒ 史跡八幡077 石清水八幡宮 大塔跡

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史跡八幡077 石清水八幡宮 大塔跡

2020年02月25日 06時59分08秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

大塔は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇の御願により建てられました。
慶長10年(1603)には豊臣秀吉の子・秀頼が再建します。その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市 根来寺の大塔(国宝)とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。側柱一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました。
平成22年(2010)の発掘調査で、塔の周りに四角く巡らせた雨落ち溝と、柱を支えた礎石やその抜き取られた穴が確認されたことから、大塔の位置と大きさが正確にわかりました。現在、生垣の通路に見えている丸い花崗岩は、落ち縁の礎石です。

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 史跡八幡076 石清水八幡宮 八角堂跡

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史跡八幡075 石清水八幡宮 表参道 愛染堂

2020年02月11日 14時43分08秒 | 史跡・旧跡

 

 

愛染堂と南谷の坊跡

石清水八幡宮の三の鳥居から東へ階段を下るルートを「表参道」といいます。表参道の石垣は、「坊」という小さな寺院の跡です。

神と仏を合せ祀った八幡宮には坊が数多くあったことから、「男山四十八坊」と呼ばれていました。「南谷」といわれたこの周辺にも坊や仏堂が建ち並んでいましたたが、明治時代の神仏分離令により失われました。

三の鳥居周辺には、平安時代に栄華を極めた藤原道長が建てた仏塔もあり、鳥居のすぐ南には、天治3年(1126)に平宗実が建てた「駿河三昧堂」という多宝塔がありました。さらに現在地周辺には、愛染堂(盛輪院)がありました。石清水八幡宮長官であった檀棟清により、寛元4年(1246)に建てられたものです。かつて本殿の南西、西谷にあり、八幡市内の古墳の上に移築された八角堂と同じ、隅切り八角形の仏堂だったようです。愛染堂にあったと伝えられる仏像・愛染明王像は、現在愛知県蒲郡市の永向寺に安置されています。

 

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                   八角堂

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡074 石清水八幡宮 表参道 豊蔵坊 三宅石碑

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史跡八幡074 石清水八幡宮 表参道 豊蔵坊 三宅石碑

2020年02月10日 07時01分02秒 | 史跡・旧跡

 

豊蔵坊跡  昭和2年10月 京都三宅安兵衛依遺志

 

 

南谷 豊蔵坊跡

江戸に幕府を開いた徳川家康が早くから祈願所とし、徳川将軍家の坊として江戸時代もっとも栄え、文久3年(1863)に孝明天皇が攘夷祈願を行った場所としても有名です。

石高は男山四十八坊といわれた坊のなか随一でした。正法寺の開祖である志水家の娘で、家康の側室となったお亀の方(相応院)のおかげで、江戸幕府の手厚い保護があったともいわれています。お亀の方の子は初代尾張藩主となり、母の菩提寺である正法寺を厚く庇護しました。

豊蔵坊は、江戸幕府が直接修理や築造を行ったので、詳しい絵図が複数現存しています。客殿や庭を備え、湯殿が2ケ所、蔵が3棟あり、敷地全体に所狭しと建てられていました。明治初めに建物は全て取り除かれましたが、豊蔵坊にあった徳川家康の像(東照神君像)は、京都市の等持院に移され現存しています。

 

 

 

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                     寺院八幡0600 正法寺 浄土宗鎮西派 重要文化財

       寺院北0078  等持院  臨済宗天龍寺派

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡073 石清水八幡宮 表参道 中坊と椿坊跡

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史跡八幡073 石清水八幡宮 表参道 中坊と椿坊跡

2020年02月09日 18時43分26秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

中坊と椿坊の坊跡

神仏習合の宮寺・石清水八幡宮では、江戸時代末まで山内に数々の坊があり、「男山四十八坊」と呼ばれました。

この周辺は「中谷」といわれ、現在の社務所周辺まで、所狭しと坊が建てられていました。明治の初めに神仏分離令によって取り除かれ、現在は石垣を残すだけですが、詳細な絵図が残されており、坊の名前もわかっています。四角い切り石が積み上げられたのは「中坊」の門があった場所です。中坊は平安時代中期にはすでに記録があり、鎌倉時代以降に増える石清水八幡宮の坊の中でも古くからありました。

現在の社務所のあたりにあった「椿坊」には、平安時代末期の女流歌人で有名な小侍従が住んでいたといられています。小侍従の父は石清水八幡宮第25代別当の光清、姉妹は鳥羽天皇に嫁ぎ、八幡市の地名・美濃山の由来として語られる美濃局。「待つ宵に更けゆく鐘の声聞けば あかぬ別れの鳥はものかは」の和歌は小侍従の代表作です。

 

 

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史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡072 石清水八幡宮 表参道 橘本坊跡

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史跡八幡072 石清水八幡宮 表参道 橘本坊跡

2020年02月09日 15時04分01秒 | 史跡・旧跡

 

橋本坊は足利氏の祈願所でした。足利氏は、平安時代後期に石清水八幡宮社頭で元服し、「八幡太郎」と呼ばれた 源 義家の孫・義康を祖とする武家の名門で、室町幕府を開いた足利尊氏から約240年間のわたり日本を統治しました。

室町幕府3代将軍である足利義満の母、良子は、石清水八幡宮寺の長官を務めた家である「善法律家」の出身であったことからゆかりが深く、足利将軍の多くは生涯に何度も参詣し、放生会(現在の勅祭・石清水祭、9月15日)も執り行いました。橋本坊には世に名高い八幡太郎義家の産衣や甲冑がありましたが、宝暦9年(1759)の火事で焼失し、今は石垣だけが残されています。

 

 

 

 

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史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡071 石清水八幡宮 萩坊跡  三宅石碑

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