土御門天皇金原陵
土御門天皇(1195~1231)は、後鳥羽天皇の第1皇子で建久9年(1196)僅か4歳で83代天皇に即位しましたが、承元4年(1210)に在位13年で順徳天皇に位を譲りました。
承久3年(1221)の鎌倉幕府討幕計画(承久の乱)に関与しなかったので幕府からとがめられることはありませんでしたが、父の後鳥羽天皇は隠岐に、弟の順徳天皇は佐渡に配流されました。土御門上皇は、「ひとり都に留まるに忍びない」と、この年土佐に移りましたが、「都に返せないまでも、せめて都に近いところへ」との鎌倉幕府の配慮で、翌年阿波に移りました。
その後、11年が過ぎた寛喜3年(1231)10月、御年37で亡くなり、阿波で火葬(現在、阿波池谷村陵とよばれる火葬塚がある)に付された後、ここ金が原に安置されました。
天皇の塚の上には母の承明門院によって金原御堂(法華堂)が建てられ、天福元年(1231)に落慶供養が行われました。のちに金原御堂の維持、管理のため金原寺が営まれたといわれていますが、江戸時代の初めには名ばかりを残す状況となっていました。地元にある地蔵院は金原寺の別院とされ、本尊阿弥陀如来像(平安時代作)の台座には「本山金原寺当仏」の墨書があります。
この天皇陵は、仁治3年(1242)後嵯峨天皇の即位にともない天皇の即位を報告する山陵使の派遣先の1つに加えられました。また、寛元3年(1245)には天皇自筆の書状を献じる山陵使が、文永5年(1268)には蒙古来襲による国家的な事件を報告する山陵使が派遣されるなど、鎌倉時代には重要な山陵の1つとされていました。
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