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神社左0254 府立植物園内に半井神社(なからいじんじゃ)

2021年06月28日 06時43分56秒 | 神社

世界文化遺産・上賀茂神社末社

半木神社 (なからぎ)

流木神社とも云い、この周辺は京都絹織物発祥の地といわれ、

織物業の守護神・府立植物園開園後は植物園の守り神として崇敬され、

毎年4月・11月に行われる春秋の祭典には多数の関係者が訪れます。

多くの木や花が実を結ぶ処に因み、試験の合格や恋愛成就の願いが叶うとの信仰が厚く、

その努力が実を結ぶお守り『実守』を上賀茂神社で授与しております。

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神社右0253 樒原 四所神社

2021年06月21日 17時49分52秒 | 神社

 

嘉永5年 1852年 の建立

四所神社

征清紀念  日清戦争への従軍かな

明治28年 9月 と記されている

四所神社

四所神社は、室町時代の天文21年(1552年)、愛宕山白雲寺福寿院の幸海僧正によって、

白雲寺奥の院と清滝からの愛宕山参道の途中にあった清滝四所明神を

原村「かぶとの森」へ勧請したことに始まると伝えられる。

かつて白雲寺奥の院には、鎌倉時代から幕末まで日本一の大天狗として信仰された太郎坊が祀られ、

愛宕山の本尊・勝軍地蔵とともに愛宕大権現と呼ばれて、篤い信仰を集めていた。

また、清滝四所明神には、役行者や白山の泰澄が愛宕山を開いたときに参道の大杉に現れた天狗たちを祀られた。

明治時代の神仏分離により清滝四所明神は廃絶したが、樒原の四所神社は愛宕山の神々を祭神に迎え、

村の鎮守として今も人々の信仰を集めている。

現在の社殿は江戸時代の建立と考えられ、中心に四所神社、その左右に末社が祀られている。

社殿前の石橋や石段は江戸時代後半に、石造狛犬や鳥居は戦前に地元の有志によって整備された。

四所神社は愛宕信仰とともに歩んできた樒原の歴史を今も伝える大切な地域の文化遺産である。

 

本殿

末社

昭和9年 1934年 建立

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神社亀岡0252 亀岡 走田神社

2021年05月31日 17時51分04秒 | 神社

 

 

享保3年4月 の鳥居 (1717年)

走田神社

走田神社は社伝等によると和銅4年(711)に創祀されたといわれます。

また、平安時代の「延喜式」の「神名帳」に記載されている丹波国桑田郡19座の内の1社です。

祭神は彦炎出見尊、豊玉姫尊、彦波・・・の3社をお祀りしています。

この彦炎出見尊は神話「海幸彦、山幸彦」に登場する山幸彦にあたります。

豊玉姫尊は、山幸彦が海幸彦の釣り針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘で彦炎出見尊の妃となった方です。

・・・・はこの2神の御子です。

昔社殿に掛けられていた絵馬から馬が毎夜抜け出て草を食べ歩き、やがてその蹄の跡が窪地となり川になったといわれます。

この川は増水の時でも川音を立てないことから「不鳴川」とも呼ばれます。

この川は、干ばつの時でも枯れることがなく、近隣の田畑を潤しました。

また、この川の改修や泥さらえ等をするときは、

故事にしたがってその日には馬の好物である青豆を供えて祈願する風習が今も続いています。

また、境内の中に「垂乳味池」と呼ばれる清水があり、次のような話が伝わっています。

豊玉姫尊が子を出産した後、子を残し龍宮に帰っしまいました。

そこで残された葺木合尊は豊玉姫尊の妹である玉依姫により養育されることとなりました

玉依姫はこの清水の水で粥を作り乳のかわりとしました。

これより「垂乳味池」と呼ばれるようになりました。

後にこの清水は、乳の出の悪い婦人がこの清水で作った粥を食べると、乳がたくさん出るようになったといわれています。

 

日露戦役 凱旋軍陣團 建立

参道

チェーンソーで作った馬

向こうに見えるのが 本殿

御大典紀念  在郷軍人 亀岡町分會第2班

本殿

 

余部青年会創立10周年記念 月桂樹

大正9年1月植樹 

昭和8年8月建立

 

余部青年会  御大典紀念

宝暦3年 (1753年)

御大典紀念碑のあるところ ⇒ まとめ051 関連0008  御大典記念のあるところ

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神社木津川0250 木津川 春日神社

2021年05月25日 05時50分03秒 | 神社

 

 

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神社左0249 大原 飯導寺神社

2021年05月08日 11時33分05秒 | 神社

 

飯導寺神社(はんどうじじんじゃ)

野村町の鎮守の森で農耕神の飯導大権現を祀る。

「はんどじさん」と呼ばれ、宮座(村の若衆の組織)で毎年10月秋祭り(お湯)の行事が行われている。

かつては、中央の土俵で神さん相撲が奉納され、その日ばかりは見物人の声援でこの森が沸き返ったといわれている。

「淋しさに宿を立ちて出でてなかむればいづこも同じ秋の夕ぐれ」

と詠んだ良暹(りょうぜん)法師の庵があった。良暹山もここから近い

この社は飯導大権現を祀る神社として創建された。飯導大権現は、農耕と修験道の神様で、

滋賀県甲賀にある飯導神社から勧請されたといわれている。

神社は信仰心のあつい野村地区の人々によって護持されており、社の姿は創建当時の面影を残している。

毎年秋ごろになると巫女さんが大原中をまわって湯上げ式を行い、野村地区では10月10日に行われる。

湯上げ式が行われた日には、神社境内にあった土俵で相撲が奉納され人々の楽しみとなっていた。

此の土俵は昭和17年が18年ごろにつくられたそうである。

その頃はちょうど相撲が盛んな時期で、この地区には相撲の強い人が多くいた。

昼間には子どもたちが、夜には大人たちが相撲をとっており、勝者には餅や酒、賞金などがおくられたという。

最盛期には岩倉や上高野からも力自慢が集まり、

また、横綱・千代の山など大相撲の力士を呼んだこともあったことから、賑わいをみせてた。

土俵は平成30年に撤去されたものの土を一部脇に残しモニュメントとしている。

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神社左0248 神明神社

2021年05月02日 17時31分41秒 | 神社

 

境内には伊勢神宮と同じく 内宮・外宮の2つの社殿がある。

天照・豊受両大神を祀る。由緒等ははっきりしないが、

古文書では文明8年(1486年)6月16日当社の拝殿にて送別の宴がひらかれた。

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神社城陽0246 賀茂神社

2021年01月25日 06時14分19秒 | 神社

 

 

賀茂神社

旧奈島村の産土神。社伝によれば、当社は平安末期の寛治6年(1092)

上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神を勧請して祀ったのが起こりと伝えられる。

毎年5月5日に行われる競馬にさいしては、村からすぐれた馬を参加出場させ、天覧の競馬に加わった。

いまなお20番の第13位を奈島庄の御馬と称する。

当社は上賀茂神社の神領地でありその御厨を神格化したのが起こり。

本殿、拝殿、社務所、末社恵比須神社、稲荷神社があり、

例祭は10月16日、八朔祭は9月1日に行われる。

境内に神福寺(真言宗)があったが明治維新後に廃寺となり仏像などは同地の深広寺に移された。

 

参道の石灯籠は室町時代のものである。

この形の灯籠は精華町の春日神社にあり、重要美術品に指定されている。

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神社城陽0245 荒見神社 御旅所

2021年01月22日 14時32分03秒 | 神社

 

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神社城陽0244 天満宮社  石碑城陽0233 記念碑

2021年01月20日 07時32分55秒 | 神社

 

天満宮社 本殿 (江戸時代初期)

この天満宮社は旧枇杷庄村の産土神であり、祭神は天満天神(菅原道真公)である。

明治6年(1873)村社に列せられ今日に至っている。

境内には拝殿、御供所、みこし蔵などがある。

現存する棟札によると、本殿は寛永4年(1627)に近村の大工により造営された。

近年では昭和35年の木津川の堤防改修で、南の旧地から約30㍍北に移築され、

翌年の第二室戸台風による損壊のため、昭和37年に屋根を鉄板葺きに改めるなどの修復が行われた。

本殿は側面を二間とする三間社流造で、三間の向拝をもち、木鼻・蟇股・繋海老虹梁など装飾性もある。

近世初期における山城地方の神社建築を知る上で、建築年代の明らかな貴重な遺構の1つである。

 

記念碑

維持昭和34年9月26日伊勢湾台風により当区頭上木津川堤防決潰寸前の危険に瀕し

直に水害対策委員会を決成し地元各位の協力を得て建設省へ事情具陳せし処

我々の熱意と堤防の危険を確認され完全補強工事に着手今日其完成を見るに至る

真に当区の安楽を永劫に記念するべきものなり。

これに伴い天満宮社の移転並に阿弥陀堂の建替等大事業も本日これ又完成を見

本業の足跡を後世に伝ふべく茲に記念碑を建立するものなり

昭和35年4月16日建立

関連記事 ⇒ 寺院城陽0763 浄土宗 阿弥陀寺  薬師如来像は重要文化財

石碑 前回の記事 ⇒ 石碑城陽0232 忠魂碑 その他

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神社 前回の記事 ⇒ 神社城陽0243 枇杷庄 庚申堂

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神社城陽0243 枇杷庄 庚申堂

2021年01月19日 11時31分48秒 | 神社

 

枇杷庄庚申堂の由来

この庚申堂は、300年余にわたる長い歴史を持つ、

元禄2年(1689)、富士山を信仰する当地の修験者が建てた行屋(ぎょうや・ぎょうのための施設)がその起源である。

この行屋がいつしか庚申堂と呼ばれるようになり、

天満宮社・阿弥陀寺とともに当地域住民の心のよりどころとして厚く信仰されるようになった。

庚申とは、60日または60年に一度回ってくる干支のことである。

「庚申の日の夜に眠ると三しの虫が体内から抜け出して天に昇り、天帝にその人の日頃の罪過を告げる、

すると天帝はその人を殺してしまうので、長生きを願うなら眠らずに起きていよ」

という中国の道教の教えがわが国の諸信仰と習合し、その夜は身を慎んで庚申をまつる庚申信仰となった。

 

お堂内には、密教の中心本尊の大日如来像、庚申信仰の本尊である青面金剛尊のほか6体の仏をまつっている。

13才の子供に知恵を授ける十三まいりの本尊・虚空蔵菩薩、

一切の悪を火焔で焼き払う不動明王、

愛の守護神・愛染明王、

財宝と美を与える弁財天、

福徳を功徳とする吉祥天、

修験道の祖・役行者菩薩である。

この庚申堂の老朽化という事態に際し、ぜひ再建すべきだとの声が高まり、

自治会内に庚申堂再建委員会が設けられ、その努力と地域住民の熱意によって、

平成2年(1990)12月、再建竣工の運びとなった。

長寿や諸願成就に霊験あらたかな諸仏をまつる枇杷庄庚申堂は近隣に例のない本格的な庚申堂であり、

当地住民の誇りとするものである。

平成2年12月

 

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神社城陽0242 水主神社 樺井神社 城陽市の名木

2021年01月17日 19時38分44秒 | 神社

 

水主神社  樺井月神社

府社が消されています

宮馬場鎮座

明治36年11月

大正13年2月

 

 

下馬

 

樺井月神社 由緒

水主神社の末社の1つとして本殿のそばにある。

もと木津川の樺井の渡の守護神として創祀された神社、祭神は月読命または天月神命ともいわれる。

延喜の制には大社に列せられ、4度の官幣・祈雨祭の幣にあずかった。

また承和12年(845)綴喜・相楽両郡に蟲虫が発生し、牛馬が害せられて病死するものが多かったので、

神に占ったところ、樺井月神のたたりであることがわかった。

よって朝廷は当社に勅使を派遣して平癒を祈らしめられたところ、悪疫はたちまちやんだという。

これにちなんで当社は牛馬の守護神としてあかめられ、毎年2月20日の例祭には牛馬攘疫祭が行われる。

当社はもと綴喜郡樺井の地にあったが、木津川の氾濫によって社地をうしない、

寛文12年(1672)12月、水主神社の境内にうつしたとつたえられる。

樺井とは対岸の大住村(現田辺町大住)といい、今なお樺井を姓とする人々が居住し、当社の管理に当たっている。

一説に、もと棚倉村綺田(現山城町綺田)付近にあったのが、

ある年の木津川洪水によってこの地に流れ着いたものだろうともいわれている。

 

水主神社

木津川畔の宮馬場に鎮座する水主村の産土神で、10柱を祀っている。

祭神が多いのが特長。水主直一族がその祖神とあがめ奉った神々で、当社は水主氏の氏神社である。

水主神社も洪水によって流され、この地に漂着したのであるともいわれ、当社の旧鎮座地についてはあきらかでない。

水主氏とは、栗隅の大溝の入口に設けられた水門(井堰)の管理をつかさどったものであるから、

当社の旧鎮座地は現在のところよりは長池に近い所にあったものと思われる。

本殿は寛文10年(1672)の再建、例祭は10月3日・当社の祭神第二柱の天香語山神は衣縫大神といい、

古来、衣服を縫う方法を教える神とされ、いまなお紡績関係者の信仰を得ている。

狛犬  台座裏の墨書銘によると、嘉禎4年(1238)に水主郷の鎮守大明神に奉納されたものと分かっています。

御神木 城陽市の名木

針の碑   昭和53年

城陽市の名木 ⇒ まとめ058  城陽市の古木・名木 一覧 

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神社城陽0241 水度神社 第1鳥居   寺田村・道路元標

2021年01月11日 19時53分01秒 | 神社

府社 水度神社

道路元標の形をしています。

寺田村 道路元標  と書かれていました

長い表参道の始まり

明治40年8月建立

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道路元標 ⇒ まとめ048 関連0005  道路元標

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神社城陽0240 平井神社

2021年01月03日 07時28分28秒 | 神社

 

 

平井神社 京都府登録文化財

旧平川村の産土神、当初は、牛頭天王社と称したが、明治2年(1869)に平井神社と改められた。

また、当社は以前古宮(平川廃寺跡)にあったが、火災で焼失後、現在地に移されたと伝えられている。

境内南面の鳥居は、その当時のものといわれる。

境内の一画にある宮寺、蓮開寺には大般若経六百巻がおさめられている。拝殿、社務所がある。

例祭は毎年10月9日におこなわれる。境内北方に接するところを室城といい、

当社は式内室城神社にあてる説があるがあきらかでない。

1月1日 元旦祭

2月15日 春祭り(蓮開寺で)

10月    おいで祭

10月    例祭

12月15日 お火焚祭 平井神社

石造明神鳥居 

この鳥居の右側の柱には、「牛頭天王鳥居奉再興山城久世郡平川郷」と刻まれ、

左側の柱には、貞享2年(1685)造立の銘が刻まれている。

時代の明らかに古い明神鳥居として、昭和62年3月京都府の登録文化財になりました。

本殿は、大型の一間社流造で鉄板葺の建物である。

正面の柱などには、桃山時代風の華やかな彫刻がほどこされています。

蟇股上の実肘木などは、慶長年間豊臣氏の造営に用いられた形を用いるなど、

桃山時代の古様を伝える建物として、

また、造営関係の記録がよく残されており、建築活動がよくわかる物として注目される。

本殿は神速須佐之男命、五十猛命、奇稲田比売神の三神を祀る。

他に末社として若宮神社、大国主神社、天満宮神がある。

 

京都の八坂神社の祭神も、当社と同じく江戸時代は牛頭天王で明治以降は素戔嗚尊になっています。

また、神紋も同じ木瓜紋です。

末社 若宮八幡社  江戸時代初期

本殿の東側にあり、石垣積基壇に建つ一間社流造で銅板葺の小柄な建物である。

建立年代は明らかではないが、細部の装飾に本殿との共通性がみられること、

本殿と共に屋根のふき替えが行われたという記録があることから、

本殿とほぼ同時期の建立と考えられる。

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神社宇治0239 旦椋神社

2020年12月26日 15時31分40秒 | 神社

 

 

明治20年11月建設

 

当旦椋神社は、養老4年(720)の日本書紀に栗隈県の大溝(おおうなで)(栗隈大溝)の東側(地名旦椋)に、

古社としてあったと伝えられていますが、この社は天文19年(1550)に焼失しました。

祭神は高皇産霊(たかみすび)、神皇産霊(かみむすび)を主神とし、

天満天神(菅原道真)を配祀するので、「栗隈天神」と称した。

現在の社は、大久保町旦椋の地より永禄9年(1566)にこの地に移転再興されたことが、

吉田兼右の「兼右卿記」に見えます。

また、延喜年間(901~923)に編纂された「延喜式」に記載されている神社を延喜式内社とよび、

旦椋神社もその中のひとつです。本殿は延宝2年(1674)に改築されたもので、

旦椋とは、穀物を貯蔵するところの校倉の古言で、

この地は『和名抄』の「久世郡栗隈郷」にあたるので、栗隈屯倉址に因んで創祀された神社と思われる。

京都府登録有形文化財(昭和60年5月)に指定されました。

 本殿 正面は板扉、内法上に竜の欄間彫刻をはめ込む。江戸初期か桃山初期の造りがみられる。

宇治市名木百選

しいのき 群生 ブナ科

高さ 14m、幹周 3.2m 推定樹齢 400年

大久保尋常小学校跡

明治14年(1881年) 栗隈校(4年制の義務教育)として開校

明治23年(1890) 大久保尋常小学校と改称

明治38年(1905) 広野町西裏100番地に移転するまで24年間使用

平成25年(2013) 当時使用されていた井戸跡の保存整備実施

令和の御大典奉祝記念植樹

 

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神社宇治0238 皇大神宮社

2020年12月25日 06時05分51秒 | 神社

 

皇大神宮社

淀藩第二代藩主、永井信濃守尚政公が、慶安2年(1649)広野新田村を創設した時に、円蔵院の鎮守として、天照大神を奉祀した。

その後、広野神社と称されたが、いつの頃からか今の社名になっている。

明治維新の神仏分離令により、円蔵院から離され村方三役が、この神社を引請けることとなり、民衆の信仰の対象となる。

昭和36年(1961)第2室戸台風により、本殿他社殿が倒壊したが、氏子中の熱意により昭和38年12月現社殿が滞りなく復興竣工した。

末社・豊受神宮、住吉社、春日社、天満宮、稲荷大神、瀧長明神

主な祭事・1月1日 元日祭

       2月3日 節分祭

       3月中旬日曜日 春季祭

       10月9日   秋季祭

       12月31日  除夜祭

文化14年 (1817年)

拝殿から本殿を見る

本殿

狛犬

末社

外宮豊受神宮

伊勢神宮遥拝所

瀧長社

末廣大神

昭和28年  正遷宮記念

関連記事 ⇒ 円蔵院 寺院城陽0750 円蔵院 

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