1 多賀
2 高神社
3 贄野の池
4 井出
5 玉川
6 玉井・蛙塚址
7 井出神社
8 梅宮社址
9 玉津岡神社
10 地蔵院
11 小野小町塔
12 井出山
13 椿坂
14 橘諸兄墳
15 地福寺
16 相楽別業址
17 六角井
18 有王山
1 多賀
2 高神社
3 贄野の池
4 井出
5 玉川
6 玉井・蛙塚址
7 井出神社
8 梅宮社址
9 玉津岡神社
10 地蔵院
11 小野小町塔
12 井出山
13 椿坂
14 橘諸兄墳
15 地福寺
16 相楽別業址
17 六角井
18 有王山
平成29年10月9日 撮影
勢関 日馬富士関
最近 相撲中継中 「崑ちゃん」みかけないなぁ。
宇良 関
まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右0989 花園 木辻町の祭
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
1 宇治田原
2 郷之口
3 蕪村句碑
4 田原又太郎塚
5 龍雲寺
6 御栗栖神社
7 くつわ池
8 高尾
9 一ツ井
10 山滝寺址
11 田原天皇社址
12 大宮神社
13 岩山
14 双栗天神社
15 双栗天神社
16 大岩山
17 真言院
18 巌松院
19 禅定寺
20 美女石
21 真言院
22 建藤神社
23 猿丸神社
24 大道寺
25 信西塚
26 茶祖永谷宗円旧棲宅
27 湯原寺址
28 天神社
29 正寿院
30 元性院
31 医王教寺址
32 奥山田化石層
33 鷲峰山
34 金胎寺
毎年 10月16日の例祭には 神輿の巡幸がある。
境内には、寛永21年(1644)仁和寺門跡、覚深法親王造営の本殿および拝殿、社務所、末社がある。
今宮神社本殿(いまみやじんじゃほんでん) 京都市登録文化建造物
当社は仁和寺の鎮守社であった。本殿は大型の一間社流造で,寛永21年(1644)に徳川家光の援助による仁和寺再興の一連で造営された。同じく仁和寺の鎮守社であった福王寺神社本殿(重要文化財)は春日造だが,造立年代は当社と同じで細部手法も共通する。
三条天皇の長和4年(1015)夏、疫病が流行したとき、宣託によって創始された。後冷泉天皇の永承7年(1052)の夏、再び、疫神が現れたので、御了解が執り行われたことが、『続古事団』にみえる。
拝殿
関連記事 ⇒ 神社右0037 今宮神社 (右京区) 御霊社の1つ
神社 前回の記事 ⇒ 神社南0147 宇賀神社
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
平成29年10月 撮影
大悲山(だいひざん)は、平安末期の久寿元年(1154)山岳修験者観空西念によって峰定寺が創建されて以来、山全体が山岳信仰の霊境となっています。指定地域は、その南斜面で古くから自然が守られてきたところであり、今日モミ、ツガのすぐれた天然林となっています。この森林では、ヒメコマツ、ホンシャクナゲ、ヒカゲツツジなどの貴重な植物や豊富なシダ植物の群生地が見られます。また、峰定寺本堂、仁王門、由緒ある行場等が周囲の自然環境と一体となって歴史的風土が保持されています。
金剛力士像はなかった
峰定寺(ぶじょうじ)は、平安末期慰安末期の仁平4年(1154年)山岳修験者の観空西念が創建し、同年4月鳥羽上皇の勅願により不動明王・毘沙門天像が奉納されました。寺の造営には、少納言藤原信西が奉行となり、工事雑掌として平清盛が任命され、平治元年(1159年)に仏舎利、16羅漢画像を奉納したと伝えられています。現存する本堂や仁王門などの建物は、いずれも鎌倉時代末期の貞和6年(1350年)の再建によるもので、延宝4年(1676年)、後西上皇が聖護院宮道祐法親王に詔し、貴船の成就院の僧元快上人を当寺の住職として再興せしめられてより、聖護院の支配下となり、大和大峰山になぞらえる修験道練行の道場となった。仁王門に安置された金剛力士像などとともに、重要文化財に指定されています。 京都府
関連記事 ⇒ まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0531 東寺 南大門
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
34
35
南大門(重文・桃山時代)3間1戸の8脚門で、東寺伽藍正面の門。屋根は切り妻造り。本瓦造り、本瓦葺き、蟇股などに桃山風の建築様式がみられる。創建当初は正面5間、重層の楼門であったが、文明18年(1488)の土一揆に焼かれた。その後再建されたが、明治元年(1868)再び炎上した。今のは明治28年(1895)平安遷都を記念して蓮華王院(三十三間堂)の西門を移建したもので、慶長6年(1601)建造の桃山時代の代表的な八脚門です。
刀傷か 右から左から 切っている
鉄砲玉の穴かも
関連記事 ⇒ まとめ038 東寺
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0530 東寺 金堂
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
南面する。創建は延暦15年(796)とつたえる。文明18年(1486)に焼亡した。この金堂は慶長8年(1603)豊臣秀頼の再建です。外観は正面を5間、側面を3間とした単層、裳階付、入母屋造り、本瓦葺きの大きな建物。裳階の正面中央ら一段と高くしているのは、外観に変化をもたせるためといわれ、奈良大仏殿の古制をまねている。また下層には天竺様の挿肘木を用い、上層の枓栱に四手先を組むなど和様・唐様・天竺様の各手法を巧みに折衷した桃山時代仏寺建築です。
入り口は正面に3ヶ所、両側面に各1ヶ所、背面に1ヶ所あって、戸口以外はすべて連子窓、扉は両開きの桟唐戸を吊っている。
内部は周囲1間通りを外陣、中央5間3間を内陣とし、後方須弥壇上には慶長8年(1603)、仏師康正の作になる薬師三尊像(重文・桃山時代)を安置する。このうち中尊ま薬師如来坐像は高さ2.88m、光背に七仏を付けた巨大な七仏薬師で、裳懸座の周囲に12神将をめぐらしているのは珍しく、桃山時代の仏像中では屈指の作品。
昭和15年(1940)の解体修理の際、創建当初の礎石が発見され、金堂の位置および規模が大体昔のままであることが確認された。
関連記事 ⇒ まとめ038 東寺
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0529 東寺 灌頂院
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
灌頂院 江戸時代 重文
創建は弘法大師の御草創にかかる所であるが、竣工半ばに御入定されたので、東寺第二祖の実恵大徳により完成。それ以後5度目の修造がなされ徳川三代将軍家光公が弘法大師800年御遠忌ま寛永11年(1634年)に再建したものである。毎年4月21日には弘法大師が「一夜に建立」され、龍神が描くとも伝えられる絵馬の参拝で大変にぎわう。
弘法大師が入唐中、修行した中国の青竜寺にならい、密教修行の道場として、承和10年(843)頃、実恵僧都によって建立された。
文明の土一揆のときには難を免れたが、天正13年(1585)の地震で大破した。正面側面ともに7間、単層、屋根は寄棟造り、本瓦葺きとしている。内部は正堂(北部)と礼堂(南部)からなり、その間を「相の間」でつないでいる。このような形の堂を「双堂(ならびどう)」という。正堂には曼荼羅を掛ける大壁がある。
御修法(みしほ) 灌頂院で、毎年1月8日から14日まで行われる行事。宮中から御撫物の代わりに天皇の御衣をあずかり、国家安穏・宝祚無窮・五穀豊穣を祈る。貞和2年(835)弘法大師が大内裏の真言院で行ったのが始めで、東寺に引き継がれた真言宗最高の儀式。
灌頂院閼伽井 正月の御修法のときと、4月21日の御影供(みえく)のときのみ開かれる。この井戸は古来、神泉苑の池に通ずるといわれ、善女竜王を祀っている。井戸に上には屋形があって、御影供の日に廂に朱色で描いた3枚の絵馬がかけられる。この絵馬は弘法大師の筆ともいわれ、また竜神の描いたものが井戸の底から出てくるのだとの伝説がある。当日はこの絵馬の出来栄えによって、その年の農作物の豊凶を占う。
関連記事 ⇒ まとめ038 東寺
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0528 東寺 小子坊
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
小子坊 近代
かつて西院大師堂の一面にあり、建武3年(1336年)6月14日より半年間、北朝の光厳上皇は、ここで政務をみることとなり、尊氏は千手堂(食堂)に居住したといわれる。現存の建物は昭和9年(1934年)弘法大師1100年御遠忌の記念事業として新築。用材はすべて木曽檜を用い、襖絵は堂本印象画伯の筆になり、昭和の代表的な建築物ということができる。
関連記事 ⇒ まとめ038 東寺
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0527 東寺 慶賀門
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
境内より見る
八脚門 3間1戸、切妻造り、本瓦葺き、鎌倉時代の建造、雄健な中に平安朝の流れをくむ優美さがある。
関連記事 ⇒ まとめ038 東寺
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0526 東寺 講堂 向こうに 金堂
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます