アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

人物050 小野小町

2020年11月29日 13時16分14秒 | 人物数々

 

小野小町

36歌仙の一人として、数多くの恋歌を残し、紀貫之に「あはれなるようにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と語らせる。それほど妖しげな魅力あふれる女性だった。

仁明天皇(850年没)の世、小町は皇后のねたみに山科小野の里へ逃れる。小町に魅せられていた深草少将は、山科を訪れた。

 

関連するところは

東山区臨済宗東福寺派 退耕庵。 小町に寄せられた恋文を納めたと伝わる玉章(たまずさ)地蔵尊。

中京区の神泉苑には雨乞小町。

左京区の補陀洛寺(小町寺)には歌碑と小町供養塔。

井出町・玉津岡神社の小町像

福知山市の久昌寺の歌懸薬師像

 

   欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

  随心院  小町伝説が多く残る

   小野小町のゆかりの化粧橋

  化粧水  小野小町の別荘址 小町も使ったのでしょうか

  えっ 知らなかった 小野小町・・・

  小町通  いきな通り名です

  史跡井手057 井堤寺跡   道標井手0281  井堤寺故址 三宅石碑

  寺院伏0225 欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

 


人物049  常盤御前

2020年11月29日 07時56分38秒 | 人物数々

 

常盤御前

時代祭では義朝の死後、清盛に子どもたちの助命を嘆願するため、息子の牛若丸を懐に抱いて六波羅に向かう姿が再現されている。

 

源義朝の妾、近衛天皇皇后の雑仕。今若乙若牛若の母。平治の乱で義朝を失い捕まったとき「3人の子は武士にしないから」と命乞いをして平清盛にかこわれた。のち一条長成と再婚。生没年不詳。

 

源光寺(右京区常盤馬塚町)

寺の東側にある。墓石は84程の自然石で、表面に「源氏義経御母室常盤御前御墓」とある。伝説によると、この地は常盤御前の生誕地といわれ、今若乙若牛若の三子を手放してのち、この墓所の桜の木の下に庵をむすんで冬ごもりをしていたと伝わる。

 

宝樹寺(東山区本町11丁目)

薬師如来坐像は世に子育常盤薬師とよばれ、常盤御前牛若丸の生長を願って日夜祈願をこめた像と伝える。他に常盤御前雪除けの松の残株というのがあり、常盤御前が大和へ逃避の折り、伏見街道の老松の下でしばし雪の降るのを避けたと伝える。また、常盤御前平清盛にしばらく囲われていた屋敷址というのがこの付近にある。(今熊野下池田町付近)

 

常盤御前就捕処碑

逃避行を続けていた常盤御前は、実母が拘束されたことを知り、六波羅に出頭しようと奈良・宇陀の里から戻る途中、伏見で平氏側に捕まったと伝えられる。

(伏見区西奉行町・伏見合同宿舎内)

 

関連記事 ⇒ 寺院北0640 常徳寺 常盤地蔵 牛若丸

       石碑伏0105  一本松

       寺院東0326 寶樹寺 浄土宗

       神社伏0076-6 御香宮神社6  北参道入口 ・ 末社など

       源光寺 義経の母の生誕の地


人物047  桔梗屋辰路 幕末の志士との悲恋

2020年03月23日 07時50分52秒 | 人物数々

京都市山科区の川崎泰市さんは回想する「子供のころから母親らに『お前の大ばあちゃんは島原の勤王芸者やったんやで』とよく聞かされた」という。

1980年(昭和55年)、小川煙村という新聞記者が著した『勤王芸者』(初版・明治43年)を見た。

本は、明治政府の高官木戸孝允(桂小五郎)の妻となった京都・三本木の幾松(松子)ら幕末の志士を支えた京都の芸妓の裏話を、元勤王芸者から取材して執筆したというものです。その中に長州の吉田松陰門下の久坂玄瑞が登場するが、その恋人が芸妓の桔梗屋辰路(ききょうやたつじ)だ。川崎さんは、曾祖母タツと辰路が同一人物と考え始めた。

その辰路ことお辰は1910年(明治43)まで生きていて、煙村はその本人にもインタビューして本を書いており、興味をもった川崎さんは、辰路と玄瑞が初めて会ったという島原の揚屋・角屋に行ってみた。新選組幹部がよく利用したところで、なぜ彼らに追われる志士らが利用したかという疑問はあったが、角屋先代の中川徳右衛門13代当主が「『勤王芸者』に書かれていることは事実です」ときっぱりと証言したという。

川崎さんは「それどころか幕末の角屋で仲居をしていて、『勤王芸者』のなかでも玄瑞と辰路のなかを取り持ったとされる。笹尾とめの回顧記録があることを教えられ、玄瑞と辰路の恋が事実であることが証明できた」という。角屋には、当時の太夫や芸妓の名簿も残っていて、桔梗屋という置屋の項に、辰路の名が墨書さりているのも確認したほか多くの事がわかった。

それによるとお辰の本名は西村、父親は市兵衛、生まれたのは1846年(弘化3)3月25日。18歳で島原の芸妓となり、間もなく角屋で、仲居とめの世話で玄瑞と宴席を同じくして恋人になったという。玄瑞は辰路が美人でしとやかだっただけでなく、詩歌などの教養のあるところにほれたらしい。玄瑞は1863年(文久3)の七卿落ちで、三条実美らに従って京を離れる時、辰路に別れの手紙を送っているが、その末尾の歌はその心情を明白にしている。

「軒端の月の露とすむ さむき夕べは手枕に ついねられねば橘の 匂へる妹の恋しけれ」

玄瑞には国元の萩に妻文子がいた。しかも松陰の実妹である。東奔西走の生活の玄瑞はほとんど萩を留守にしたようだが、1864年(元治元)7月18日の禁門の変で長州勢が敗れ、戦死(切腹)するまで、ずいぶん手紙を送っていたという。

辰路は明治3年、芸妓を廃業して、葛野郡大内村の豪農に嫁ぎ、裕福な生涯を過ごした。

そしてその辰路が1864年(慶応元)に島原で小八郎という子を生んでいるのだ。父親は不明。その小八郎が川崎さんの祖父で、6歳まで島原で育ち、昭和時代まで存命していた。養子縁組などで川崎姓となったが、その二女ユタが川崎さんの母親だ。川崎さんは「もっと曾祖母のことを聞いておけばよかった」と。

禁門の変の直前の6月、辰路、玄瑞の最後の別れはきた。長州兵を率いた玄瑞は天王山の陣営から辰路にあいたい一心で駕籠で角屋に乗り込んだが新選組の警戒厳しく、やむなく引き上げたという。そのあと辰路は話を聞いて、足袋はだしで駆け出し東寺付近で追いついた。ここで玄瑞は「身体を大切にせよ」などと辰路をさし金二十両を渡したというこのくだりは小説にもなり、版画「久坂をお辰」(小村雪袋)にもなっている。

 

島原は、わが国最初の公許の花街で、当初二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町(東本願寺北側)に移転、1641年(寛永18)、現在地に移った。急な移転騒ぎが島原の乱に似ていると島原の名で呼ばれるようになったという。島原には揚屋と置屋があって、揚屋は太夫や芸妓らを一切かかえず、置屋から太夫らをよんで歌舞音曲などを交えて宴会を催す、もてなしの場であったという。公娼制度の遊廓とはまったく関係がなく、その文化性や歴史的意義を周知するために美術館として開館した。

 

関連記事

 建物下008  島原大門 

 建物下007  輪違屋・わちがいや  かつて置屋だった

 角屋 ・ 角屋もてなしの文化美術館

 蔵のある風景  62回 島原・角屋

 

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人物044 池大雅 ・画家

2020年03月10日 06時03分31秒 | 人物数々

関連記事 ⇒ 人物検索 一覧

ゆかりの地

1  寺院上0252  浄光寺 浄土宗  池大雅の墓所

2  地蔵尊下010   真町の地蔵尊  涙の地蔵

3  生誕の地 貴舩神社 神社北0224

 

 


人物046 岩倉槇子

2020年02月23日 17時56分41秒 | 人物数々

病床に伏した維新の元勲・岩倉具視を、明治天皇が見舞う絵がある。

床から起き上がり、手を合わす具視。そのそばに介添えする女性と、少し離れてひれ伏す女性がいる。

介添えの人は具視の先妻の長女増子。ひれ伏す女性は正妻槇子である。

「私は後妻の身。ここは、先妻の子を立てる場面です」と槇子自らが一歩ひいた。

翌日、具視は波乱に満ちた59歳の生涯を閉じる。葬儀は、日本最初の国葬だった。

槇子は膳所藩の武士の娘。若くして京都の御所の前(現在の京都地裁あたり)にあった岩倉邸に兄 賀柔と奉公に上がった。

兄は具視の身辺警護に当たり、槇子は身の回りの世話をした。

この兄妹の献身的な陰の支えがなかったら、岩倉具視は明治維新の表舞台に立つことはなかったといわれています。

具視は下級公家の子として京都に生まれたが、まもなく洛北の岩倉花園村に里子に出された後、14歳で岩倉家に養子に入った。

幼児期から苦難の歳月を過ごした。

妻誠子をめとるが、病気持ちで、側室になっていた槇子が実質、妻の役を務めていた。

槇子が具視のために賢婦ぶりを発揮するのは、この側室時代である。

幕末、公武合体を推進した具視は、尊攘派志士の反感を買い38歳の時、洛外に閉居させられる。

志士の刺客の手を逃れて、幼少の頃過ごした岩倉へと落ちた。槇子も子供を連れて追いかけ、同居する。

洛中の情報から遮断された具視は意見書を賀柔と槇子らに託し、

薩摩藩士との往復書簡で大久保利通らと意思疎通をはかり、自らの難関突破をはかる。

岩倉の里から、気丈な槇子は乳飲み子を抱き、帯の中に密書を忍ばせて田んぼのあぜを駆け抜け、

二里の道を、市中の薩摩屋敷まで往復したという。

賀柔も。夜陰にまぎれて洛中に出没、具視の胸の内を公家や志士に伝え、自ら密会にも加わった。

また、失意の具視を元気づけるため、長男具定と二男具経に、近くの岩倉川で小魚を釣らせて酒のさかなに。

とっくりを抱えて夜道を山端の平八茶屋に通ったという。

具視は四男六女の子沢山。うち槇子は二男三女をもうける。

具定と具経は、後の戊辰戦争で東山道先鋒総督と副総督を務めている。

明治天皇即位による大赦で具視は晴れて自由の身になる。

その後、王政復古を推進して明治新政権に参加。

1871年(明治4年)には特命全権大使として大久保、木戸孝允、伊藤博文らも参加した「岩倉使節団」を率いて欧米各国を視察、

文明開化の礎を築いていく。

5年余りを過ごした岩倉の里を後にした具視は東京に移住。新生日本のかじ取り役として栄華をきわめる。

槇子も、明治7年に正室の誠子が病没してから正室の座におさまった。

時に槇子47歳。名実ともに、政府高官夫人として、華麗なる家族を取り仕切るようになった槇子は、

正室になってからも、謙虚な振る舞いは変わることはなかった。

具視と槇子が苦しい日々を送った岩倉の家屋はいまも、維新史跡・岩倉具視幽棲旧邸として残っている。

槇子は東京都品川区・海晏寺の岩倉家墓所に眠り、

1868年、岩倉村で没した兄賀柔の顕彰碑が京都・東山の霊山に建てられている

 

岩倉具視 関連 記事

史跡左051 一言神社 旧跡 

神社左0186 一言神社

史跡左036  岩倉具視 旧邸 

寺院西0006  西芳寺(苔寺)  単立

石碑 藤井右門宅址・富山射水生まれ・先祖は赤穂浪士

 

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人物034 まとめ017 道元禅師

2020年02月03日 11時21分21秒 | 人物数々

 

1200年 京都に生まれる 宇治市木幡で生まれたと推定される。

3歳  父(内大臣、久我通親)亡くなる

8歳  母(藤原基房の娘)亡くなる。母は死を前に「仏門にはいれ」と諭している。

13歳  比叡山に登る。

18歳  建仁寺に入る 栄西禅師の門をたたく。

24歳  中国へ渡る。

26歳  中国で天童山 如浄和尚と会い、やがて如浄和尚のもとで大悟する。

28歳  中国から帰る。

31歳 深草安養院(現 欣浄寺)に閑居。ここで「正法眼蔵」を書き始める。

34歳 深草興聖寺を開く。いま日蓮宗の宝塔寺がある深草宝塔寺山町は道元が本格的な弘法救生活動に乗り出すため建てた深草興聖寺がかつて建っていたところと伝わる。

36歳 宇治に興聖寺僧堂を建立。

44歳 京都を去って福井へ。越前の武将 波多野義重の招きに応じる。 永平寺を創建した。

     名利に捉われず、理論を捨てて体験による行の宗教を強く主張した鎌倉時代の偉僧

54歳 夏病をえて療養のため京都へ帰る。結核のようだった。

   8月28日 下京区高辻通西洞院西入ルの俗弟子の家で死去。「東山の赤辻」にて荼毘。

           円山の西行庵の真南裏を複雑に入り込んだ所にある

  遺骨は永平寺に埋葬された。

誕生寺 伏見区久我本町3-1   

源光庵 北区鷹峯西桝屋町1038   寺院北0502 源光庵  血天井

天寧寺 北区寺町通鞍馬口下る天寧寺門前町301  天寧寺  曹洞宗 額縁門

興聖寺 宇治市宇治山田27-1

靖国寺 宇治市宇治金井戸7-14

禅定寺 綴喜郡宇治田原町大字禅定寺庄地100

欣浄寺 伏見区墨染西桝屋町1038   寺院伏0225 欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

栄春寺 伏見区桃山町丹下30   寺院伏0324  栄春寺  曹洞宗  総門は伏見城の遺構  長沼宗敬澹斎の墓所 

 

関連記事 ➡  史跡下007  道元が亡くなった所

        まち歩き長0510  おとくにの竹

                     

 


人物018 まとめ018  元三大師 (慈恵大師)

2020年02月03日 11時19分46秒 | 人物数々

 

元三大師良源( 慈恵)

良源延喜12年(912)9月3日、近江国(滋賀県)浅井郡虎姫で生まれる。父は饗場重頼、母は物部憲興の娘月子といい、幼名を日吉丸あるいは観音丸という。延長元年(923)12歳の時仏門に入り理仙大徳に師事する。

良源は得度し、正式の僧となる時期目前に来て、師理仙の突然の死に遭遇し、後に伊勢国朝明ぐんの郡領船木良見の尽力により得度を許されたため良見の一字を得て僧名を良源し名乗り、修行を重ねる。

良源55歳で第18世天台座主となり叡山の諸堂を復興し、山侶2700人に及び中興の祖と号せられる。その間累進して僧正に任ぜられ、つづいて行基以来の大僧正に任ぜられる。名声は高く当時並ぶ者がなかったといわれる。

 

慈恵大師(912~985)は第18世天台座主良源の号で、正月3日に死んだことから元三大師ともいわれる。尊意や相応など当時の天台の高僧の指導を受け、学業の誉高く、承平年間(931~938)の興福寺維摩会で南都の義昭を論破し、応和3年(963)の清涼殿法華会で法相宗の法蔵を説伏するなど、弁才人にすぐれていた。

また、承平5年(935)、および康保3年(966)の火災で荒廃した叡山を復興した功績も大きく、天台宗中興の祖とあおがれている。それとともに、鎌倉時代には慈恵大師に対する特殊な信仰がおこっていきた。

それは33体、66体、99体という多数の慈恵大師像をつくることで、曼殊院の像の銘文によると、33という数は三十三観音をあらわすらしく、この像をつくった目的は、現在もおこなわれている大師の像を印刷した護符を家々の門にはるのと同様、これによって怨霊鬼霊のなす災いからまぬがれようとしたのであった。

この民間信仰的な大師像制作の動機は、鎌倉時代において、大師信仰がひろく民間に普及していたことを物語っている。

 

後世元三大師という俗称が一般的であるが、摩滅大師(豆大師)、角大師、鬼大師で知られ、また「おみくじ」の創始者として広く知り渡、信仰され親しまれている

 

関連記事 ➡  寺院東0367  尊勝院  庚申堂

          廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址

           道標東0111  元三大師

           上善寺   忠臣蔵 ・軽女の墓 がある 

           左0155 横川 元三大師 近道


人物032 まとめ019 最澄 

2020年02月03日 11時18分59秒 | 人物数々

唐で仏教を学び、天台宗をつたえた平安時代の僧

空海(弘法大師)と並び称される平安初期の高僧で、天台宗の開祖。清和天皇の貞観8年(866)贈られた「伝教大師」の諡(おくりな)は、わが国最初の大師号である。767年、近江国滋賀郡の人で、俗称は三津首(みつのおびと)広野。ほくろがく首の左に1つ、左ひじの上に1つあったという。三津首家は、当時の村長クラスの家柄で祖先は中国からの帰化人とされる。

12歳で近江国分寺へ入り、19歳で東大寺で受戒、その直後比叡山に入る。12年間一人で修業した。延暦7年(788)比叡山根本中堂を建立し、30歳、宮中の仏事に奉仕する内供奉十禅師の一人に選ばれる。延暦23年勅を奉じて入唐、天台山に学んだ。空海も同年入唐して長安に学び、大同元年(806)帰国しているが、最澄は1年間の滞在で帰国し天台宗をひろめた。『守護国界章』『顕戒論』などの著があるが、弘仁13年(821)比叡山中の中道院で入寂したとき56歳であった。比叡山と切っても切れないので、比叡大師、根本大師などともいうが、その遺骸は弟子の円仁(慈覚大師)によって石棺に入れられ浄土院に納められた。

 伝教大師 関連  ➡  寺院東0362  金剛寺 八坂庚申堂

        寺院西0149  勝持寺・花の寺  表参道  

        寺院西0128   石の寺  正法寺 真言宗東寺派  

        寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行 

        松ヶ崎大黒天  日蓮宗  

        廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址  

        寺院中0241 善想寺 浄土宗  泥足地蔵   石仏

        寺院右0221  念佛寺  1200年前、母がこの地で亡くなる

        寺院長0171 乙訓寺 真言宗 最澄と空海が初めて出会った寺 ぼたん寺

        曼殊院  


人物030 まとめ022 法然上人

2020年02月03日 11時07分54秒 | 人物数々

 

石の唐櫃に納められて知恩院勢至堂の門内右手に埋められたのだが、比叡山の荒法師たちによって遺骸が掘り出されようとしたので、一時嵯峨の二尊院に移したものの、ここも天台僧によって危険になったので、今度は太秦のの大藪の中(今日の西光寺)に隠し、さらに西山粟野の光明寺へと移してここで荼毘にふしたという。激しい宗派の動きの中で、死後もつねに荒波の中に立った法然であった。

大谷本廟とともに光明寺にも廟堂があるのは、そのためであって、また、知恩院の古門前参道の白川橋にかかる石の太鼓橋は、「忠臣蔵」の天川屋儀兵衛とよく混同されやすい大阪の豪商・天野屋利兵衛の寄進による江戸初期の石像美術品だが、そこを少し入った所の華頂幼稚園前にある幼児の合掌姿の銅像は幼児の法然上人を現した「勢至丸」の像である。

法然上人は美作国久米の時国の子で、幼名は勢至丸といったのである。伝説によると、長承2年(1133)4月7日、母は剃刀を飲み込んだ夢を見て懐妊したといい、父は勢至丸9歳のとき源内武者定明の夜襲を受け、暗殺されたという。そしてその臨終に際して「復讐など毛頭考えてはならぬ。ただ衆生の往生極楽をはかれ」と遺言したといい、しばらくは付近の菩提寺へ弟子入りしたが、その年から勢至丸は比叡山に登ったという。著に『選択本願念仏集』などがある。

なお、後年配流の原因となる過失を犯した門弟というのは住蓮、安楽のことで、鹿ケ谷にある法然院は、その門弟の庵を大文字山の麓から移したもの。延宝8年(1680)知恩院の万無が、これを寺として構えたものである。

なお、東山渋谷通り上馬町の小松谷の俗称で通っている正林寺は、平重盛の灯籠供養をしたとして知られ、その碑を残しているが、また法然上人が流刑の際は、ここから出発したといわれ、本堂には上人の像を安置している。

遺跡は比叡山、八瀬の青竜寺、黒谷の金戒光明寺、知恩寺、嵯峨の清凉寺、東山の知恩院、粟生の光明寺、相国寺の法然水の井桁、西光寺(太秦)、などたくさんある。

 浄土宗の開祖。かくし名は源空、比叡山の源光と皇円に天台宗を学び、のちに、黒谷の叡空について諸宗の奥義を極め、43歳の年、専修念仏にて浄土の法門を開いた。

東山に吉水(よしみず)園があるが、草庵を結んだ地として知られ、また大原の勝林院で南都・北嶺の僧徒と会って法門を論じた大原談義と話題を多くまいたが、門弟の過ちの責を負って一時讃岐(香川県)ら流された。建暦元年(1211)11月17日、許されて京に帰った際、前記の如く慈円和尚に迎えられて、今の知恩院の前身となった大谷の禅房に入り、翌年1月25日、80歳で大往生をとげた。円光大師は後の贈号である。

 関連記事 ➔          人物検索 一覧

 寺院左0440 釈迦堂 境内の掲示物 法然上人

           寺院長0170 光明寺 西山浄土宗  法然上人 蓮生上人

           寺院右0004 西光寺 (さいこうじ)  門が茅葺だ  浄土宗  

           


関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

2019年12月10日 17時30分24秒 | 人物数々

 

 

  第1  関連0002  三宅安兵衛の道標

三宅安兵衛(1842年~1920年)
(みやけやすべえ)
八幡市内の道標の多数を占める三宅安兵衛氏銘の道標は69基ある。ほとんどは1927年(昭和2年)で、84%が集中している。1930年(昭和5年)の2基は浜田青陵氏の書で、三宅安兵衛氏長男清治郎氏銘となっているが、1927年(昭和2年)10月が32基と最も多い。

「京都三宅安兵衛依遺志建之」と碑文にある三宅安兵衛氏は、1842年(天保13年)、若狭小浜で生れ、幕末の京都へ奉公の後、京都で帯織物業を営み、一代で財をなした。
1920年(大正9年)、享年79で死亡したが、その前年、家業を継いでいた長男清治郎氏を呼び、金1万円を渡して「公利公益に使え。用途は一任する」と遺言したと伝えられる。
 遺言によって、清治郎氏は旧蹟案内と道標の建碑を決め、1913年(大正12年)から1930年(昭和5年)の8年間にわたって、南山城一帯を中心に、当時京都帝国大学の考古学講座担当教授であった浜田青陵博士の協力を得て、全数400基におよぶ建碑を実行した。費用総額は2万円(現在の価値にすると約1億円)に達した。八幡市内には、後半の4年間を費し、道標70基近く、その他旧蹟碑を含めると120余基の建立があった。

 

 

101  道標城陽0272  高倉宮冑之社  三宅石碑

102     道標井手0277  井手史蹟・名勝  三宅石碑

103     道標井手0278   井堤荼靡故址  三宅石碑

104  105   史跡井手056 蛙塚 道標井手0279 玉の井  井手0280 井堤蛙舊蹟 三宅石碑

106  史跡井手057 井堤寺跡   道標井手0281  井堤寺故址 三宅石碑

107  寺院右0712 宝樹寺 西山浄土宗  三宅石碑

108  祠右058  ルルゲさん ・・ って  三宅石碑

109 ~ 119  道標八幡0286 三宅安兵衛 道標11基 八幡ふるさと学習館にありました。 

120  史跡八幡066 石清水八幡宮 護国寺跡 三宅石碑

121     史跡八幡067 石清水八幡宮 瀧本坊 三宅石碑  松花堂昭乗 「空中茶室」

122   史跡八幡069 石清水八幡宮 泉坊跡  三宅石碑

123   史跡八幡071 石清水八幡宮 萩坊跡  三宅石碑

124  史跡八幡074 石清水八幡宮 表参道 豊蔵坊 三宅石碑

125 神社八幡0218 石清水八幡宮 社号標 三宅石碑

126 史跡八幡081 八角堂 重要文化財 三宅石碑

127  道標左0297 後花園天皇御遺蹟之地 三宅石碑

128  道標木津川0309 恭仁宮大極殿跡 三宅石碑

129  道標城陽0314 八幡近道の碑  三宅石碑

130  道標城陽0315 梨間の宿の碑  三宅の石碑

131

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133

134

135

 

 

 

 

 

 


関連記事0015 神南辺道心

2019年06月10日 13時51分58秒 | 人物数々

 

泉州堺 神南辺大道心

 神南辺道心(かんなべどうしん)の墓は、堺市堺区旭蓮社にある。
神南邊大道心隆光は、江戸時代の人物で俗名を弥兵衛といい、大和国生駒郡神南村の出身である。
河内国布施村あるいは東足代村の鋳物師(いもじ)といわれている。
幼少の頃は、殺傷を好み、鋳物師としての技量は良いが素行は悪く無頼漢であった。
ある時、夢の中に地蔵菩薩が現れ、今後善行を積めば地獄域から救うとのお告げを聞き、弥兵衛は仏門に入った。
諸国を行脚し各地に道標を建て、橋を架け、また多くの地蔵を建立した。
百舌鳥八幡宮境内の道標石「さかい神南邊」(文政8年(1830年)建立)や、高渚寺の千日井場所に岩喜兵衛と建てた水難者の供養碑などがある。
また、京都御室山八十八カ所の標識の再建に尽力し、御室御所から神南邊(かんなべ)と称する許しと道心号を与えられた。
京都の大仏炎上の際には、全国を行脚して寄付を募り、天保7年(1836年)嵯峨御所より錫杖を下賜、また念珠を堺奉行から贈られている。
旭蓮社門前には「塩風呂薬師佛石像 神南邊道心墓 當寺」の石碑が建てられて、墓は、道心座像の下に神南邊大道心墳と記され、本堂に西側に建てられている。

神南辺大道心隆光は江戸後期、泉州堺の住人。放蕩者であったが、仏門に入り、天保12年(1841)に没するまでの約20年間諸国を行脚して道標や石橋を勧請したという。隆光の遺品は堺を中心に約40点を数える。京都では6点が確認されています。

 

京都市内

1  道標右0127  神南辺道心 の道標 

2  寺院東0334 遺迎院  浄土宗西山禅林寺派

3  道標伏0080  霊場 深草毘沙門天  神南辺隆光  京都一周トレイル F23 

4  まち歩き右0595 御室八十八ケ所 京都の眺望 道標右0128 神南辺道心 

5  道標右0129  神南辺道心の道標 

6 

和歌山県

7  石碑和歌山0201 千度石 淡嶋神社 神南辺石碑

8

 


関連0002  三宅安兵衛の道標

2019年05月03日 07時26分09秒 | 人物数々

三宅安兵衛の道標

三宅安兵衛は京都の呉服太物(綿・麻織物)商として活躍し、一代で財をなした人物です。彼の名が刻まれた道標・石碑は城陽市域に9基あり、安兵衛の長男清治郎によって建てられたものです。清治郎は城陽市を含め、京都とその周辺に合計約400基の石碑を建てました。関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2


1  陵墓府021  以仁王  神社府0108  高倉神社

2   道標西0015-123  西芳寺 あたごみち たんごみち

3    寺院中0018  瑞泉寺  関白秀次を弔う

      道標  金福寺  親鸞聖人御𦾔跡

5      道標  金福寺へ

6       石碑・大黒庵武野紹鴎邸址  名水・菊水の井  祇園祭・菊水鉾

7       毘沙門西芳寺への道標・三宅氏建立

8       石川丈山先生旧蹟詩仙堂   道標・今出川北白川にて

9       道標  大覚寺  三宅道標

10       西行桜跡・松尾神社・西芳寺林泉 常住寺 地蔵院 梅宮 桂離宮   三宅道標

11       西芳寺への道標・三宅氏建立

12       弁財天女八幡宮 大覚寺近道  仙翁旧跡六如道人墓  道標

13    覚寺門前 道標

14    嵯峨釈迦堂前の道標 と 愛宕灯籠

15    嵯峨野の野に道標(みちしるべ) 3つ

16    嵯峨釈迦堂前の道標5本 1ケ所に5本は初めて見ました 

17    広沢の池の道標

18    護浄院  天台宗 勅願所 清荒神

19    道標右0019 大覚寺を西へ

20    道標右0008-12  大覚寺の北に2つ

21     戊辰役戦場址

22    淀川瀬水車旧趾

23        淀城址に 石碑・道標 3本

24    道標伏0143  一口村 安養寺

25    道標右0166  別格本山 広隆寺西門  

26        道標西0194  西国 20番札所 よしみね寺道

27      道標右0202  おんど 車折  遍照寺境内    

28    道標西0206 西芳寺 へ  三宅安兵衛の道標

48   京都考古資料館 西陣の碑 三宅碑

50   寺院左0216  金地院  臨済宗南禅寺派

52   寂光寺  囲碁本因坊の聖地  三宅碑

53   毘沙門天への道標  三宅さんの道標です


久御山町

29   道標久御山0208  淀川渡

30    道標久御山0212 安養寺

31         寺院久御山0558 光明寺  曹洞宗 光明皇后祈願所

32   寺院久御山0559 華台寺 浄土宗 道標・三宅安兵衛

33        道標久御山0211 聖観世音尊像 専念寺

34    寺院久御山0568 浄安寺  浄土宗  三宅安兵衛 石碑

35・95   祠久御山045 神牛石社  寺院久御山0570 大松禅院 三宅石碑 愛宕灯籠

八幡市

36        道標八幡0214 神應寺 曹洞宗 三宅碑

37   石塔八幡001  五輪大石塔 航海記念塔 重要文化財 三宅碑

38   史跡八幡044 源 頼朝公の松  三宅石碑

39   神社八幡0172 三條 古鍛治 相槌神社  三宅石碑  山ノ井戸

40        寺院八幡0581 泰勝寺 松花堂舊跡 三宅石碑

41   寺院八幡0582 本妙寺 三宅石碑2本

42        寺院八幡0583 善法律寺 三宅石碑 慰霊碑 紀元2600年碑

43   道標八幡0216  巡検道 三宅石碑

44   石碑八幡0197  寝物語古跡国分橋  三宅石碑

45   道標八幡0217  巣林菴 三宅碑  仏塔 恩碑

46   まち歩き八幡1041 淀屋辰五郎 旧邸 三宅石碑

47   寺院八幡0588 念佛寺 浄土宗 三宅石碑 

49        道標八幡0219 小野頼風塚 三宅石碑

51   道標八幡0220 金剛律寺故趾  正平役園殿口古戦場  三宅石碑2基

54   道標八幡0221 八幡橋 宇治街道 奈良街道 三宅石碑

55   道標八幡0225  山崎等  三宅石板碑

56   道標八幡0226 妙見宮 舊 常徳寺  三宅碑

57   道標八幡0227 舊 橋本寺 西遊寺  三宅石碑

58   道標八幡0228 湯澤山茶久蓮寺跡  三宅石碑

59        道標八幡0229 南岩倉  三宅石碑

60        道標八幡0230 長柄人柱地蔵尊講田寺  三宅石碑

61        道標八幡0231 和気清麻呂公旧跡 足立寺古跡  三宅石碑

62        道標八幡0232 豊蔵坊信海墓  三宅石碑

63        道標八幡0233 茶臼山古墳跡 三宅石碑

64        神社八幡0170 石清水八幡宮

65   石碑八幡0202 引窓南邸跡 三宅石碑

66        道標八幡0235 安居橋  三宅石碑

67   寺院八幡0597 薬薗寺 薬師如来・重文 三宅石碑

68        道標八幡0236 法園寺  三宅碑

69        道標八幡0237 八幡宮道  三宅碑

70        道標八幡0238 九品寺  三宅石碑

71   道標八幡0239 正法寺  三宅石碑

72      道標八幡0240 左 京街道 東在所道  三宅石碑 

73   道標八幡0241 橋本近道  三宅石碑  

74       道標八幡0242  水月庵  三宅石碑

75       まち歩き八幡1056 松花堂庭園 表門  車塚古墳 三宅石碑

76  道標八幡0243 正平7年役 神器奉安所 岡の稲荷社 三宅石碑

77  道標八幡0244  正平役血洗池古蹟  三宅碑

78  道標八幡0246  万稱山  三宅碑

79・80 石碑八幡0204 正平塚古墳  墓地に二基

81  道標八幡0247 万稱寺跡  三宅石碑

82  道標八幡0248 紅葉寺寶青菴  三宅石碑

83  石碑八幡0205 小野篁公作 十王像 閻魔堂  三宅石碑

86  道標八幡0254  岩田社 岩田渡船場 三丁 三宅道標

87  寺院八幡0653 福王寺  福得地蔵尊 三宅石碑

88  寺院八幡0657  宝壽院 美濃山 浄土宗  三宅石碑がある

89     道標八幡0256 美濃山横穴跡  三宅石碑

90   道標八幡0258 八幡市 二子塚跡  三宅石碑

91     寺院八幡0658 円福寺  三宅安兵衛 石碑

92   道標八幡0260 涙川の旧跡  円福寺の碑 三宅石碑

93     道標八幡0261 戸津の道標  三宅石碑

94     道標八幡0262 獅子塚跡 碑  三宅石碑

 

城陽市

96   道標城陽0270 久世鷺坂の碑  三宅石碑

97      道標城陽0271 長池旧跡の碑  三宅石碑


宇治田原町

84  寺院宇治田原0636 禅定寺 曹洞宗

85  史跡宇治田原048  信西塚  平安時代・平清盛方

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