大本山 妙心寺
昭和44年4月29日 建立
施主 静岡県 館林 金太郎・きわ
こちらは 何が書かれているのか 看板で不明
大正5年 建立
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0624 妙心寺 北総門 重要文化財
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
大本山 妙心寺
昭和44年4月29日 建立
施主 静岡県 館林 金太郎・きわ
こちらは 何が書かれているのか 看板で不明
大正5年 建立
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0624 妙心寺 北総門 重要文化財
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
開山国師550年遠 登山紀念
東京本派寺院有志寄附
まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右1072 妙心寺 境内 歌碑とかかれた石
関連記事 ⇒ 2 花園 地域の寺社記事検索一覧
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
南総門、勅使門とおなじ慶長15年(1610)の造立。潜り通用口・門番所を付設している。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0623 妙心寺 光國院(こうこくいん) 亀姫と関係がある
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
光圀院(こうこくいん)
開祖は梁南禅棟(りょうなんぜんとう)で、元和6年(1620)に美濃加納の城主松平忠隆が父の忠政の菩提を弔うために創建したものである。もと南門前にあり、渡香橋東北の地が旧跡で勅使の休憩所として使用された名院であった。忠隆の当院創建は、祖母亀姫(1625没)の強い意志を受けてのものであった。寛永5年(1628)に亀姫(徳川家康の娘)の菩提所成徳院が松平忠明によって創建され、梁南をもって開祖とした。その位置が現在の光圀院の所在地で、明治にいたってここに光圀院が移建された。明治11年に光圀院と合併している。境内にある行者堂は、もとは近くの法金剛院村にあったもので、移建されて今日に至っている。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0622 妙心寺 長慶院 北の政所 寧々の姉
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
慶長5年(1600)豊臣秀吉の室 北の政所寧々(ねね)の姉にあたる長慶院が、東漸和尚を開山として創建した。
境内には長慶院の墓がある。また、長慶院の画像がある。長慶院晩年(1625没)の画像は江戸初期女性像の名品として知られている
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0621 妙心寺 雲祥院 方広寺の梵鐘に関わる話
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
1 平安宮朝堂院跡(へいあんきゅうちょうどういんあと)
応天門・朝堂院と朱雀門の間にあった門 神社左0157 平安神宮 応天門
2 大極殿遺阯(だいごくでんいし)
3 平安宮内裏弘徽殿跡(へいあんきゅうだいりこきでんあと)
4 平安宮豊楽院跡(へいあんきゅうぶらくいんあと)
平安宮豊楽殿跡(へいあんきゅうぶらくでんあと)
5 平安宮内裏承香殿跡(へいあんきゅうだいりじょうきょうでんあと)
6 平安宮内裏昭陽舎跡(へいあんきゅうだいりしょうようしゃあと)
7 平安宮内裏承明門跡(へいあんきゅうだいりじょうめいもんあと)
8 平安宮内裏宜陽殿跡(へいあんきゅうだいりぎようでんあと)
9 平安宮内裏内郭回廊跡(へいあんきゅうだいりないかくかいろうあと)
平安宮008 歩道縁石に 小安殿跡 北回廊跡 昭慶門跡 と 書かれています
10 平安宮内裏綾綺殿跡(へいあんきゅうだいりりょうきでんあと)
11 平安宮酒殿跡発見の井戸と木簡(へいあんきゅうさけどのはっけんのあとのいどともっかん)
12 平安宮中務省東面築地跡(へいあんきゅうなかつかさしょうひがしめんついじあと)
13 平安宮造酒司倉庫跡(へいあんきゅうみきのつかさそうこあと)
14 造酒司倉庫跡柱穴(みきのつかさそうこあとはしらあな)
15 宴松原(えんのまつばら)
16 平安宮主水司跡(へいあんきゅうしゅすいしあと)
17 平安京大内裏朱雀門址(へいあんきょうだいだいりすざくもんあと)
18 平安京朱雀大路と朱雀門(へいあんきょうすざくおおじとすざくもん)
19 安倍晴明公居館之址(あべのせいめいこうきょかんのあと)
20 小野小町双紙洗水遺跡(おののこまちぞうしあらいのみずいせき)
21 検非違使庁址(けびいしちょうあと)
22 鵺池碑(ぬえいけひ)
23 冷然院跡(れいぜんいんあと)
24 堀河天皇里内裏址(ほりかわてんのうさとだいりあと)
25 閑院内裏跡(かんいんだいりあと)
26 東三条殿址(ひがしさんじょうどのあと)
27 神泉苑東端線(しんせんえんとうたんせん)
28 神泉苑のCG(しんせんえん)
29 橘逸勢貞址(たちばなのはやなりていあと)
30 大学寮址(だいがくりょうあと)
31 弘文院址(こうぶんいんあと)
32 勧学院址(かんがくいんあと)
33 二条駅前文化財情報板(にじょうえきまえぶんかざいじょうほうばん)
34 平安宮一本御書所跡(へいあんきゅういっぽんごしょどころあと)
35 平安宮大蔵省跡(へいあんきゅうおおくらしょうあと)
36 平安宮西限藻壁門跡(へいあんきゅうさいげんそうへきもんあと)
37 北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)
海山によって創立されている。京都東山の方広寺大仏に豊臣秀頼の寄付による梵鐘の銘(東福寺の僧・清韓の撰文)のうち「国家安康、君臣豊楽」の一文から、家康が大阪の秀頼を攻める口実にせんとした時、阿諛(あゆ)する者多かった中にあって、断固これに反対したのが 雲祥院の海山であった。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0620 妙心寺 桂春院 重文
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
平成30年4月23日 撮影
名勝及び史蹟 桂春院庭園
昭和29年1月 建設
文化財保護委員会
桂春院
慶長3年(1598)織田信忠の次男 津田秀則によって創建されたが、秀則の没後無住となったため、寛永9年(1632)美濃国の豪族石河壱岐守貞政は亡父光政の50年忌を営むために再興し、桂南和尚を請じて開山とした。この時寺名を桂春院とあらためた。
方丈は、寛永再興時の建造で、内部は仏間、室中の間を設け、本尊薬師如来像を安置する。方丈各室の障壁画はすべて狩野山雪の筆と推定されている。なかでも金地著色「松に三日月図」4面は佳作である。
庭園
方丈南庭(真如の庭)は簡素な庭
方丈東側(思惟の庭)は16羅漢石等を配置した美しい苔庭
書院前庭(佗の庭)は露地庭
既白庵茶室は二重襖によって仕切られ、目立たぬようになっている
寛永8年(1631)近江長浜城より書院とともに移建された。茶人藤村庸軒はこの席を常に用いた。
寺宝に「無明慧性墨蹟」重文・南宋をはじめ、多くの高僧の墨蹟及び茶道具の名器が所蔵されている。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0619 妙心寺 大雄院(だいおういん) 柴田是真の寺
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
2018年4月23日 撮影
大雄院(だいおういん)
慶長8年(1603)石河市正光忠(いしこいちのかみみつただ)が父光元(みつもと)・祖父光重(みつしげ)追福のため、慧南(えなん)和尚を開山として建立した石河家の菩提寺である。
石河家は光忠以来、尾張藩の目付家老職をつとめた。その一族は妙心寺内に多くの菩提寺を建立し、また妙心寺再興に当たっては寄与した。
方丈は享保12年(1727)光忠の百年の遠忌にあたって再建された。
内部5室には柴田是真(ぜしん)の筆になる障壁画71面によって飾られている。是真は江戸の蒔絵師として名高い。画面の一隅に「柴令哉写」の署名があり、京都遊学中に描いたことがわかる。
書院には法橋洞玉筆「赤壁図」4面、曽我華簫筆「山水人物図」2面、土岐済美筆「山水図」4面の障壁画がある。
軸として海北友松筆「人物図」、長澤芦雪筆「寒山拾得図」がある。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0618 妙心寺 蟠桃院(ばんとういん) 前田玄以の墓
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
安土・桃山時代の天正7年(1579)、創建されている。檀越は寺西織部であった。
もと即心院と称し、現在、経蔵(重文)に納められている
一切経を写経した時の写経所となっていた。
写経は、建仁寺の高麗版蔵経を借用し、12人の僧が8年の歳月を費やしている。
写経の願主は、塔頭水月庵の無門和尚であった。
この水月庵は明治11年(1878)通玄院に合併されて
今日に至っている。
関連記事 ➡ まとめ024 妙心寺
寺院 前回の記事 ➡ 寺院0459 玉右龍院 妙心寺塔頭
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
蟠桃院(ばんとういん)
慶長6年(1601)前田玄以が一宙和尚を開山として創建した。境内墓地には前田玄以一族の墓がある。また仙台伊達家累代の祠堂がある。
玄関はもと聚楽第より移したものといわれる。庭園は枯山水の庭園。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0617 妙心寺 海福院 福島正則の墓
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
海福院
元和2年(1616)福島正則が夬室(かいしつ)和尚を開山として創建した福島家の菩提寺で、福島正則及び一族の墓がある。正則に関する遺物古文書がある。勤王家町尻説久(如水)の墓がある。
庭園は蘺島軒秋里(りとうけんあきさと)の作庭、江戸末期の書院式露路、蹲の形式をとどめている。
狩野探幽は妙心寺法堂の蟠龍(ばんりゅう)を描くにあたって当院に滞在中、酒興に乗じ、新しい唐紙に唐人猿回しの画を無断で描いたため、帰宅した院主にきつく叱られたという。ただ方丈に狩野益信筆「山水図」4面を残している。
押し入れには、茶儀の一切を仕組んだ茶室がある。これはむかし禅僧が歌舞音曲・遊芸・茶花をいましめられたにも拘わらず、ひそかに茶をたしなんだ名残といわれる。
寺院前回の記事 ⇒ 寺院右0616 妙心寺 雑華院(ざつげいん)
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
天正11年(1583)千利休七哲の一人、牧村利貞が一宙和尚を開山として創建した。方丈の前庭は江戸初期の禅院式枯山水の庭園。日蓮宗妙蓮寺の僧玉淵(ぎょくえん)の作庭。書院には土方稲嶺(ひじかたとうれい)・曽我霞簫(かしょう)両画家による淡彩水墨画、24面の障壁画がある。
二条昭実(あきざね)夫人像(織田信長女)および大野治長夫人像は、竜安寺の細川昭元(あきもと)夫人像とともに三名幅とされ、のちの美人画・浮世絵発生の先駆をなすものとされる。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0615 妙心寺 微妙殿
関連記事 ⇒ まとめ024 妙心寺
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます