真宗大谷派
六条道場の石碑(ろくじょうどうじょうのせきひ)。
六条道場とは、京都六条河原の源融の旧邸跡に建立された歓喜光寺。
その所在地から六条道場と呼ばれ、時宗の道場として栄えました。
応仁の乱のあと、高辻烏丸に移転してしまいますが、
それまでの間、この地にありました。
なお歓喜光寺は現在、山科に移転しています。
渉成園(枳殻邸)
東本願寺の飛地境内地(別邸)で、国の名勝に指定されています。
石川丈山がつくりあげた広大な池泉回遊式の庭園に、四季折々の見どころが散りばめられています。
梅、桜、新緑,スイレン、紅葉、鴨の赤ちゃん
この地は、平安時代前期(9世紀末)の左大臣源融(みなもとのとおる)が
営んだ六条河原院の旧蹟という伝承があったことから、
庭園の随所に源融にちなんだ景物が趣向として配されています。
しかしながら、現在は七条坊門小路以北、万里小路(までのこうじ)以東であることから、
河原院との関係する説が出されています。
渉成園は創立以来幾度かの火災に遭い、
現在の建物は1864年(元治元年)の蛤御門の変による炎上以後、明治時代に復興されました。
1936年に国の名勝に指定されました。
高石垣 に 驚きました
どの部分が いいかなぁ
いかがでしたか
南門
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贈従五位赤松小三郎先生記念
昭和十七年建 京都信濃会
慶応三年九月三日於此遭難
赤松小三郎(1831~67)は信州上田藩士。
江戸で蘭学や西洋砲術を学び,勝海舟(1823~99)とともに長崎の海軍伝習所に赴任しました。
のち,京都で私塾宇宙堂を開きました。
薩摩藩から招請を受けましたが,公武合体論を唱えたため,
慶応3(1867)年9月3日,帰宅の途中,薩摩藩士に暗殺された。
この石標は,赤松小三郎が暗殺された地を示すものです。
墓所は 金戒光明寺にある
次の画像は 金戒光明寺のもので 一番左の案内石柱に赤松小三郎と記されています
幕末・上田藩士の名前
赤松小三郎
稲垣信
小河滋次郎
鈴木銃太郎
鈴木親長
正木直太郎
松平忠厚
山極勝三郎
伊香詰所の由来
当詰所は今から220年前(1778)都に大火災があり、本願寺と共に被災しました。
当時第19世乗如上人は、諸国へ再建のため巡行され、そのご努力により再建の運びとなり、
近隣近住は、もとより、全国の信徒が、故郷を離れ11年もの長き間、本山再建に、ご奉仕され、
滋賀県伊香郷の私達 先祖も老若男女を問わず御奉仕されました。
その当時の宿泊所が現在の詰所の言われであります。
再建工事完了の後、達如上人は特に湖北三郡の門徒衆の厚い奉仕の心に打たれ
乗如上人のご寿像と御書並びにこの詰所を下賜され佛恩相続を願われたのであります。
この詰所も時代の流れと共に、広く一般の方にも、ご利用ご愛顧いただいております。
本山、報恩講には、多数の信徒が参詣され、我家同様に宿泊できる、
ふれあいの場として、愛され、ご利用いただいております。
なお、以前の建物は万延元年に火災類焼し、ただちに門徒の方々の、
木材、金品労力やご寄付により再建されました。
しかしそれも築後約150年を経過し、老朽化のため、現の建物を建築したものであります。
これからも私達は、佛恩を報じ、先人への報恩の念怠ることなく、
この由緒ある詰所を守り続けてまいります。合掌
平成18年4月吉日 伊香詰所
発掘費用は 所有者の負担です 発掘する方はどこに何があるかはわかっているようです
つまり、どの時代に 誰の建物が建っていたかはわかっているようです
左の方に 階段状になった石が 見えています
地層でどの年代かとかがわかるのでしょう
この内容はいずれ、考古資料館から
埋蔵文化調査の結果としてパンフレットで発行されるでしょう