井戸ポンプ 前回の記事 ➡ 井戸ポンプ伏017 淀 北城堀 町
関連記事 井戸ポンプ 検索 ➡ 関連0009 手押し井戸ポンプ
五七五
ショウ塚の婆へも誰か綿帽子 /一茶
京ことば デボチン でこ。額。「広いデボチンヤナー」
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ショウ塚の婆へも誰か綿帽子 /一茶
京ことば デボチン でこ。額。「広いデボチンヤナー」
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院南0428 大通寺
五七五
襟巻の匂ひ出でたる眉目かな /虚子
京ことば ツカマエ 鬼ごっこ。「ツカマエしょうか」
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清和天皇の第6皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。
その後、260余年を経た承応元年(1222)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて凡刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したといわれる。後に「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。
足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に務め、元禄年間には今の六孫王神社
が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。
明治44年(1911)には旧国鉄の用地となり逼塞した。
本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女竜王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚寺置文二巻、阿仏尼真蹟、阿佛塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。
下寺町の本覚寺は、遍照心院内に建立された一宇を移したものとつたえ、今も本覚尼像を安置しているが、その墓については現在不明となっている。
阿仏尼
我が子に歌道家を継がせるためにはどんな苦労もいとわない。自分を捨てた恋人を恨み、当時は女の命といわれた髪を切る程の激情に身を任せる半面、賢くて、しっかりと子供を教育していた。そんな女性だった。
「十六夜日記」の著者として知られる阿仏尼の墓、門内右手にある。
大きな自然石の上に置かれた小五輪石塔である。またその傍に建つ高さ2m余りの円柱状の石碑には、墓の修復について説明が漢文体で書かれている。「北林の阿仏尼の墓は久しく荒れたままになっていたが、寛延2年(1749)冷泉為村卿によって修復された。はじめ木札を以って表記されていたが、銘文の磨滅するのをおそれ、石に刻み写し、宝暦7年(1757)大通寺の衆等によって建立した」云々としるされている。阿仏尼の墓は、はじめ東寺の北、八条町に源実朝夫人本覚尼(遍照心院願主)の墓と共にあった。俗に゛安井塚゛という。寛延2年(1749)歌道家元の冷泉為村が墓の荒廃を歎き、成就院(遍照心院塔頭)の僧心源西堂とはかって修理したとつたえる。その後、塚は明治28年(1895)西北の西八条の総墓地に移されたが、明治44年(1911)国鉄梅小路貨物駅の建設にともなって取り払われ、墓は大通寺とともに現在の地に移したとつたえるが、本覚尼の墓の行方は分からない。
阿仏尼は平度数の養女。若くして安嘉門院(後堀川天皇準母)に仕え、安嘉門院四条または右衛門佐と呼ばれた。30歳を過ぎた頃、藤原為家の側室となり、為相(冷泉家祖)・為守を生んだ。嵯峨小倉山の山荘に住んでいたが、為家の没後、先妻とのあいだに生まれた為氏とのあいだに所領に関する争いが起こり、建治3年(1277)その訴訟のために鎌倉へ行った。
この折りの紀行文が「十六夜日記」である。しかし採決ははかどらず、弘安6年(1283)4月8日、鎌倉で客死または帰路後没したともいわれ、また享年60歳とも75歳との説もあってよく分からない。
また阿仏尼の墓が大通寺に存在する理由も明らかでない。
因みに六波羅蜜寺の東あたりに阿仏尼が住んでいたといわれる阿仏屋敷があったと伝わるが、詳しいことは分からない。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院南0427 東寺境内
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北向不動明王 左 京油小路通
是ヨリ右 右よと八わた
二町半 左ふしみ
右 京油小路通
天明五乙巳之歳建 寄進講中
関連記事 ➡ 寺院伏0402 北向山不動尊
道標 前回の記事 ➡ 道標右0149 境内参道桜楓・・
五七五
みどり子の頭巾眉深きいとをしみ /蕪村
京ことば チョロコイ たやすい。「そんなこと、チョロコイことヤ」
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東に位置する 慶賀門 にて
東寺真言宗の総本山で、「教王護国寺」という。創建以来、一度もその位置が変わっていないこと、また密教美術に関する多数の宝物を有する。当寺は桓武天皇が平安京造営に際し、国家鎮護のため、羅城門をはさんで朱雀大路の東西に建立された官寺の1つ。東寺では弘仁14年(823)弘法大師空海が補された。大師は天長2年(825)、仁王護国の本尊を安置して教王護国寺と称し、ながく真言密教の根本道場とした。大師が在世中に竣工したのは講堂だけで、五重塔は50余年後の元慶7年(883)に竣工した。平安時代には延暦寺とならんで顕密二教といわれ、わが国宗教界に君臨する大寺となった。鎌倉時代初期に源頼朝が文覚上人のすすめで復興に着手した。次いで後白河天皇の皇女宣陽門院が霊夢に感じて東寺に帰依し、荘園を寄進されてより面目を一新した。以後弘法大師信仰の1つの中心となった。
さらに後宇多法皇は徳治元年(1306)、前大僧正禅助より灌頂をうけ、6ケ条の事書をしたため、当寺の興隆を誓われたから、多数の塔頭子院が増加した。
文明18年(1486)の土一揆には、東寺は本拠となり、創建以来初めての大規模な火災にみまわれた。
天正19年(1591)豊臣秀吉によって新しい寺領が交付され、徳川氏も庇護につとめた。毎月21日には大師入滅の3月21日に因んで市が出される
食堂
昭和5年(1930)12月の失火後の再建で、堂内には本尊として千手観音立像(重文)を安置していたので、観音堂ともよばれたが、今は聖衆文殊菩薩、地蔵菩薩立像とともに宝物館に移されている。
東寺真言宗の総本山で、「教王護国寺」という。創建以来、一度もその位置が変わっていないこと、また密教美術に関する多数の宝物を有する。当寺は桓武天皇が平安京造営に際し、国家鎮護のため、羅城門をはさんで朱雀大路の東西に建立された官寺の1つ。東寺では弘仁14年(823)弘法大師空海が補された。大師は天長2年(825)、仁王護国の本尊を安置して教王護国寺と称し、ながく真言密教の根本道場とした。大師が在世中に竣工したのは講堂だけで、五重塔は50余年後の元慶7年(883)に竣工した。平安時代には延暦寺とならんで顕密二教といわれ、わが国宗教界に君臨する大寺となった。鎌倉時代初期に源頼朝が文覚上人のすすめで復興に着手した。次いで後白河天皇の皇女宣陽門院が霊夢に感じて東寺に帰依し、荘園を寄進されてより面目を一新した。以後弘法大師信仰の1つの中心となった。
さらに後宇多法皇は徳治元年(1306)、前大僧正禅助より灌頂をうけ、6ケ条の事書をしたため、当寺の興隆を誓われたから、多数の塔頭子院が増加した。
文明18年(1486)の土一揆には、東寺は本拠となり、創建以来初めての大規模な火災にみまわれた。
天正19年(1591)豊臣秀吉によって新しい寺領が交付され、徳川氏も庇護につとめた。毎月21日には大師入滅の3月21日に因んで市が出される。
毘沙門堂 江戸時代
天慶2年(939)平将門の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されてた兜跋毘沙門天立像(現宝物館・国宝)を天元元年(978)7月9日大風にて羅城門が倒壊の後、当寺に移し食堂に安置したりしたが、文政5年(1822年)現在の堂を建立してお祀りした。創建1200年の事業で平成6年(1994)に修復された。
金堂
南面している。創建は延暦15年(796)と伝わる。文明18年(1486)に焼亡した。今のは慶長8年(1603)豊臣秀頼の再建である。入口は正面に3ケ所、両側面に1ケ所。背面に1ケ所。昭和15年(1940)解体修理の際、創建当初の礎石が発見され、金堂の位置および規模がおおよそ昔のままであることが確認された。
関連記事 ⇒ まとめ038 東寺
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0426 壽延寺 日蓮宗
五七五
紙ぶすま折目正しくあはれなり /蕪村
京ことば ドンツキ 突き当たり。「そのこドンツキ右ヤ」
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平成29年3月上旬 撮影
花 前回の記事 ➡ まち歩き右0653 サザンカ 鈴なり
五七五
米かひに雪の袋やなげ頭巾 /芭蕉
京ことば チョクチョコバル しゃがみ込む。 「ちょっとチョコチョコバッてミー」
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市電のあるところ ➡ まち歩き伏0365 小学校 校庭に市電がありました
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0702 大内小学校の碑
五七五
背蒲団紐が赤くて姐御かな /虚子
京ことば ダンバシゴ 家の中の階段。「ダンバシゴはキーつけて降りヤ」
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洋風二階建ての校舎・唯一の純ヨーロッパ風
元大内校の西洋造り二階建て本館の写真が残っているが、おそらく京都唯一の西洋風建築だっただろう。九条村から現在地へ移転開校したのは明治19年4月で、校名も葛野郡修道小学校と命名された。
たぶん首をかしげる人がいるだろう。確かに東山区にも明治25年に修道校と改称され今日に至る小学校がある。「四書五経」の漢籍から命名されると、同じ校名になることが多い。
例えば「格致校」は現松ヶ崎校の旧校名だし、他府県にもある。また明倫校や明徳校というのも多い。
葛野郡修道校は大内校と改称し、大正7年京都市へ編入された。明治の学校建築をすべて見たわけではないが、山梨県・長野県・愛媛県・静岡県などに残っている明治建築は、擬洋風とか藤村式建築とか呼ばれ、日本の棟梁が造った擬洋風建築である。最近、米国人のある大学教授に擬洋風建築の写真を見せたら「僕からいわせたら、これはみなヨーロッパの感じではないね、中国か日本の感じだね」といったが゛、元大内校の写真を見せたら、これはヨーロッパ風だというのではなかろうか。
大内校から大正14年に光徳校、昭和3年に南大内校がそれぞれ分離独立したことは、京都市が南部に発展した経緯を物語っている。
大内小学校は明治5年東寺境内に東寺廻り村小学として創設され、以後八条学校脩道小学校と校名を改称 明治19年現在地に移転し 大正2年更に校名を大内尋常小学校と改称した 開校以来124年の歩みの中に1万3千余名の卒業生を世に送り出した 平成7年2月校区の人々の賛同を得て安寧小学校との統合を決定し 新しい統合校 梅小路小学校に後を託して 平成8年3月その輝かしい歴史の幕を閉じた
大内小学校の碑
校歌
春うららなる 大内の庭に
萌ゆる若草 しげくたくまし
つつむ力に 百千の花と
咲きて競わん 美しの色香
照らす光と 教えのつゆに
若葉しげりて 端枝はのびぬ
いてや励みて 学びの庭に
良き実結ばん 望みの秋を
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0701 祇園の田中図子(小路)
五七五
律僧の紺足袋穿つ掃除かな /子規
京ことば ダンナイ さしつかえない。「いなくても、ダンナイ」
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昭和の御大典 昭和3年11月10日
大正の御大典 大正4年11月10日
平成の御大典 平成2年
1 御霊神社
2 梛神社
4 櫟谷七野神社
5 愛宕山 石碑
6 白雲神社
7 要法寺の寺号標
8 岡崎神社
9 満足稲荷神社
10 名和長年 戦没地
11 若一神社
12 記念植樹 石碑 10月4日
13 新日吉神宮 10月10日
16 神社下0125 福神社
21 神社城陽0209 天満宮
26
27
28
29
30
年が一致
2 東三条院跡
3 熊野神社 社号標
5 本能寺跡 石碑
6 龍田稲荷神社
7 上善寺・千本今出川 寺号標
9 石碑 室町幕府・花の御所跡 今出川通室町東北角
10 八神社
11 白峯神宮
12 仁阿弥高橋道八宅
13 新日吉神宮
14 閑院内裏址 平安京 石碑
15 嵯峨天皇陵 見晴は抜群
福神社
福神會
御大典紀念
昭和18年1月
松福會
拝殿
神社 前回の記事 ➡ 神社下0124 綱敷行衛天満宮 2つの天満宮が合併
関連記事 ➡ 関連0008 御大典記念のあるところ
五七五
足袋はいて寝る夜ものうき夢見かな /蕪村
京ことば タント たくさん。「タント食べてナー」
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伊 田中圖子
自転車・バイクは歩いて通りましょう と書かれています
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き滋賀0700 雪山ハイキング
関連記事 ➡ 膏薬辻子(こうやくのずし)
五七五
三巡りの日向ぼこりに出たりけり /一茶
京ことば ソヤカテ そうはいっても。「ソヤカテ、学生はしっかり食べなアカンヤロー」
ソーカテとも。
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俗に「洗い地蔵」とよばれる浄行菩薩石像を祀った日蓮宗の寺である。ここは十禅師の森址とつたえ、庫裡の庭先には「五条十禅師宮旧𧐐」としるしるた石碑があり、また、近年境内に十禅師社が復興された。
他に「物見の松」と呼ばれた大木があって、牛若丸がこの木に登って四辺の様子をうかがったといわれ、また付近の民家には「弁慶血洗いの井」と称する井戸もあったと伝えるが、今はすべて民家の密集いるところとなって廃滅した。
あらいぢぞう の のぼり
当寺開基壇越 顕彰之碑
十禅大明神
十禅師の森址
むかし鴨川の松原橋を東へ渡った南側に森があり、その中に日吉山王七社権現の一つである十禅師を祀った小祠があったので、十禅師ノ森とよばれた。
この森は五条橋で打ち負かされた弁慶が、牛若丸に主従の誓いをしたところと言われ、これに因んで弁慶社と呼ばれた。
この伝説の理由は、室町時代の頃に作られた御伽草子『橋弁慶』に負うところが大きい。同書によれば、牛若丸は父義朝の十三回忌供養のため、平家の侍千人を斬らんと志し、毎夜十禅師ノ森にひそんで平家の侍をねらい、すでに九百九十九人に達した。このうわさをきいた弁慶が、それでは自分が相手となり、ひとあわふかせんものと五条橋まで出かけた。その結果は天下衆知のごとく、弁慶の負けとなり、十禅師ノ森まで引っ立てられ、果ては主従の誓いをせしめられたのだという。この神社は明治維新に際し廃社となり、森も伐り払われてしまった。
あらいじぞう
洗い地蔵
洗い地蔵尊を祀る市内三ケ所のうちの1つである。
高さ60㎝、頭部に髪を束ね、両手を胸の前で合わせている。
明治から戦前にかけては順番札を出す程に長蛇の列が続いたという。
一生懸命に「たわし」でこすると願い事が叶うといわれ、宮川町の芸妓は旦那の浮気どめに地蔵尊の゛前゛をこすると不思議に効果があるといわれる。
因みに他の2ケ所の洗い地蔵尊は「頂妙寺」「本満寺」にもある。いずれも日蓮宗寺院に祀られているのが特色である。
この寺は日蓮宗ですから、鬼子母神をお祀りしています。鬼子母神は子供に関するあらゆる願いをする神さんです。
井戸ポンプ 現役だ
本堂
当寺は宗教法人日蓮宗 興福山壽延寺と申します。
創建は元和2年(1616)徳川中期です。
御本堂には中央に一塔両尊・釈迦如来・多宝如来(日蓮大上人脇には四大菩薩四天王其の他諸尊をお祀りしております)
向かって左側に鬼子母尊神 右側には大黒天を安置して居ります。大黒天は伝教大師の作と言われ門前から大黒町通と言う。本堂北側に妙見堂が有り開運北辰妙見菩薩を祀っています。
山門より入りすぐのお堂は大黒堂で碑は十禅の森の旧跡地主様十禅大明神様です。
次は宗祖日蓮大上人御廟所です。
次のお堂浄行大菩薩を安置しています。先心殿です。
通称あらいぢぞう尊です。
となりのお堂は弁財天を祀っています。江の島弁財天の御分身です。
あらいぢぞう様の御本名は浄行大菩薩と申し上げます。
お釈迦様が末法に使わされました。四大菩薩のお一人で水徳の佛様です。
水は宇宙の原素です。生きとし生ける物はすべて水の恩恵なしでは生きられません。そして水は汚れた物を洗います。人は知らず知らずの間に心を傷つけたり、汚したりしています。そうして病気になります。浄行さまにお願いして祈って下さい。しかし自分の心をきれいにしてお願いしなければいけないのです。お水を佛様にかけて祈るのです。一心に祈るのです。一番良いことは浄行様のお経を唱えることです。法華経を唱えてください。それは南無妙法蓮華経と唱えてください。
法華経を唱える事になります。心から唱えてください。
最後に大事なことは感謝の心です。今日お詣り出来た自分をよろこんで下さい。自分は沢山の人々とかかわっているから生きられるのです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経 合掌
寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0425 建仁寺・惣門 臨済宗建仁寺派
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五七五
一尺の子があぐらかくゐろりかな /一茶
京ことば ソーロト ゆっくりと。「ソーロト持って行き」
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西向きに建っています
目線は東を見ています
迫力のある字体です
昭和9年5月建立
駒札 日焼けして読めないところは空欄にして記載していません。補って読んでください
東山と号する臨済宗建仁寺派の大本山で
鎌倉時代の建仁2年(1202)に臨 である栄西禅師により創建され、 で建仁寺と名付けられた。
当初は天台宗、真言宗、禅宗の三宗 だが、十世の円爾弁円や十一世の て禅宗寺院として確立し、室町時代に の格付け制度である五山の生の下 の第三位となった。
方丈(重要文化財)は、慶長4年(15 )安芸(現在の広島県)の安国寺から移築 町後期の禅宗方丈建築で、鎌倉後期 える勅使門(重要文化財)は、 から「矢根門」とも呼ばれている。寺宝として、俵屋宗達の代表 「花鳥図」「雲龍図」など桃山時代 風絵、水墨画、障壁画を多数蔵して、 法堂の天井には、平成14年(2002)、 仁寺開創八百年を記念して、日本画家小泉淳作氏によって畳百八畳分の「法堂双龍図」が描かれている。栄西は、中国から茶を持ち帰り茶を普及した茶祖としても知られ、毎年四月には方丈で行われる「四頭茶礼」は禅院茶礼の古式を今に伝えている。京都市
東山と号する臨済宗建仁寺派の大本山で、栄西禅師の開創したわが国最初の禅刹として知られる。栄西はわが国へ初めて茶の実を移植し、また『喫茶養生記』を著した鎌倉時代の人で、早くから仏門に入り、天台を究め、2回も宋にわたって禅を学んだ。
建久2年(1191)に帰国し、九州で教義弘通につとめたが、叡山の衆徒の圧迫をうけ、『興禅護国論』を著して、禅宗の末法性・国家性を強調し、天台僧徒に対抗した。正治元年(1199)、鎌倉に下って寿福寺を建立し、鎌倉武士の信仰を得たが、将軍源頼家もまたふかく禅師に帰依し、建仁2年(1202)東山綾小路の河原の地に一宇を建立して、開山とした。造営にあたっては、佐々木定綱・畠山重忠等がその工を助け、三年の歳月を費やし、元久2年(1205)に竣工した。これが当寺のおこりである。
土御門天皇は勅願寺とされ、年号によって建仁寺の号を下賜された。はじめ延暦寺との関係を顧慮して、叡山の末寺という形で止観院・真言院の二院をおき、天台・真言・禅3宗一致の寺として、妥協を図ったが、大覚禅師のときに至って、禅宗のみの寺にあらためた。爾来、武家の信仰をあつめ、室町時代に足利義満が五山制度を設けるや、当寺はその第3位となったが、中世の兵乱にしばしば兵火の厄にあった。天正年間(1573~92)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺退耕庵の恵瓊によって復興されたが、仏殿は未だ再建に至らない。
伽藍は南を正面として南北一直線上に並び、その左右には多くの塔頭子院が並ぶ。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0424 三寶寺 日蓮宗
五七五
五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏かな /芭蕉
京ことば セングリ 次から次へと 「セングリ服を替える」
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2017年2月
滋賀県 JR 湖西線 ガリバーのある駅
朽木 方面のスキー場
ここから 西洋かんじき スノーシュー を使っての 雪山ハイキング に出かけます
積雪は 70㎝ ぐらい 雪の上を登っていきます
先頭を行くのは ガイドさん
一面の 雪 天候もよくて 雪山の眺めも良く 気持ちがいいです
思い出に残る 雪山 ハイキングでした
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き右0699 つるつるのマンホール蓋