京都市内を一周 22.5キロメートル を 6ケ月余りで作らせました
9か所の御土居
1 北野天満宮 ➡ 史跡上025 御土居 北野天満宮
2 平野 鳥居前町➡ 平野鳥居前町の御土居
3 紫野 西土居町 ➡ 西土居町の御土居
4 鷹峯 旧土居町 ➡ 史跡北028 御土居 史跡公園
5 鷹峯 旧土居町 ➡ 史跡北029 御土居 御土居餅の向かい
6 大宮 土居町 ➡ 史跡北030 御土居 最も規模が大きい
史跡に指定されていないが ➡ 御土居 大宮交通公園で
7 紫竹 上長目町 ➡ 史跡北032 御土居 加茂川中学前
8 蘆山寺 上京区北之辺町 ➡ 廬山寺 内の 史蹟
9 西ノ京 原町 ➡ 中京区西ノ京原町 (市五郎稲荷神社)の 御土居
史跡御土居は都市の発達とともに崩壊寸前、かろうじて文化財保護法に守られている。天正19年(1591)豊臣秀吉は、都城荒廃のあとの京都の整理に乗り出し、まず京の周辺に土塁を築き、内側を洛中、外側を洛外と区別した。
東は鴨川沿い、上賀茂の南西から鷹峯へ西行、紙屋川沿いに南下、北野神社を過ぎて六孫王社付近まで伸び、さらに東寺を囲んで鴨川に達する延長23キロにわたる土手。幅員は18mから30m、高さは平均18mに及んだという。
築造に要した人数については不明だがその年の正月に着工してわずか5ケ月で完成したというから、戦乱の世の権力の恐ろしさが想像される。
御土居には10ケ所の門があって敵の侵入に備えた。いまの荒神口、鞍馬口、丹波口、大原口などという呼び名は、この御土居から洛中に入る入口で、またこれによって多くの町名が生まれたという。
他に三条口、大仏口、竹田口、東寺口、西七条口、三条口(西)、嵯峨口、千本口などがある。ただし、御土居は防御だけを目的としたものではない。昭和9年の大風水害のとき、当時わずかに残っていた上賀茂の御土居が洛北一帯の洪水の防壁として大きな役割を果たした。
昭和の地元民は難をのがれると同時に、改めて秀吉の細かな気の配りに感心した。
築造当時の御土居の管理は付近の寺院にまかされていたが、秀吉の死後は加茂川沿いを手始めに急激に破壊していった。四条河原町の繁華街の発展、東山一帯の社寺への参詣者の増加などが原因となり歴史的遺跡も姿を消すに至った。
御土居の名残はわずかになった。昭和5年、史跡になった。中京区西ノ京合町、北区平野鳥居前町、北区紫野西土居町、北区鷹峯旧土居町(史跡公園)、北区大宮土居町、北区紫竹上長目町、上京区寺町広小路上ル北ノ辺町に面影を残すだけになった。
北野天満宮境内には、築造当時に植えられたというケヤキの大木が地中深くに根をおろしている。また、四方を石で固められた縦30㎝、横50㎝ぐらいの洞穴があるが、これがどこに通じているのかはっきりしていない。北野天満宮では「御土居に関係深いものと思われるが、大雨があると滝のように水が流れ落ちる。」と言われている。