深泥池地蔵の由来
京の六地蔵の1つが深泥池地蔵である。
「源平盛衰記」巻6によれば、保元年間(1156~59)西光法師が都街道の入り口に、六体の地蔵尊を安置し、廻り地蔵と名付けた。すなわち四宮河原(東海道)、木幡の里(奈良街道)、造道(鳥羽街道)、西七条(山陰街道)、蓮台野(周山街道)とともに深泥池(鞍馬街道)がえらばれたとのことである。
近世は六地蔵めぐりの定着により、その霊場の1つとなってからは、朝野の信仰を集めるに至った。
八尺ほどある地蔵菩薩立像で、平安期の小野篁公作と伝えられたものであったが、明治初年(1869)の廃仏毀釈のため法難にあい、賀茂の神領外へ追放され、今の寺町頭の上善寺(現鞍馬口地蔵)に祀られている。時を同じくして宝池寺(現浄福寺の前身)も廃寺となり、山を越えて幡枝の浄念寺に預けられた。
明治以降、深泥池村は守護神がなくなったためか、明治2年と16年に二度の災火に見舞われた。しかし勤勉な村民の努力によりやっと復興の目途がたつと同時期に、たまたま京五条の十念寺経由で西光組から当村の事情を察知し、二代目地蔵尊菩薩が奉納された。明治28年5月(1895)である。
御本尊は、御身六尺三寸の立像で、その昔伊勢の海に漂流してしたとのこと。又、奇しくも小野篁公作としわれており、当村は地蔵菩薩に深く御縁があり、村民の信仰心の篤さが窺われる。地蔵堂正面に御詠歌額が掲げられている。
「たちいでて また たちかえる みぞろ池
とみをゆたかに まもるみ仏 」
なお、当時の村総代と西光組頭との御本体授受に関する書状が本堂右奥に保管されてある。本地蔵菩薩の台座にも当時関与した西光組代表者、並びに当村総代の名前が刻まれてある。
毎年8月22日、23日の地蔵盆には町内の善男、善女による門念仏、御詠歌の奉納も盛大に行われる。
ほかに、当時の境内にかなり風化した石仏一体がある。高さ100糎、幅70糎、厚さ30糎、花崗岩製。鎌倉末期から南北朝頃の造立で、弥勒菩薩と推定。首の下で2つに折損したらしく、修理した形跡がうかがえる。その地は別に「御菩薩」とも書く。行基伝説や弥勒信仰など、古い伝承に事欠かぬところであるが、それ故に、この石仏一体しか見当たらないとは腑に落ちない話である。昭和45年頃(1970)、町内の人々や浄福寺住職(上田良準師)にこの疑問を糾した処、次の様な事情が判明した。地蔵堂の前に全部で七体の石仏群があり、村人の崇敬厚い信仰対象であったところが、敗色濃い昭和19年頃、一部の町内役員が防空壕の設置を理由として、勝手に六体の石仏を移動させたという。敗戦以来今日まで行方不明、幻の石仏になってしまったらしい。
幻の石仏とは、釈迦如来像、文殊菩薩、薬師如来、金剛界大如来、延命地蔵菩薩、勢至菩薩の六体で、現有とあわせ七体さんがいつの日かご一緒に祀られる日のくることを村人全員が待ち焦がれている。
松井新郎 記
関連記事 ⇒ 六地蔵めぐり
地蔵尊 前回の記事 ⇒ 地蔵尊井手062 祠は石で作られています
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森山地蔵堂
長池駅前にあり、長池西町森山地蔵講の家々によって祀られています。昔は森山の山中にお堂があり、そこから移してきたという伝承もありますが、成立年代など詳しいことはわかっていません。また、この地蔵堂には虎図蒔絵絵馬があり、銘によると寛永9年(1632)、一吉により奉納されたものです。この絵馬は平成16年(2004)城陽市指定文化財となり、城陽市歴史民俗資料館に寄託され、定期的に公開されています。
地蔵堂 前回の記事 ⇒ 地蔵尊左060 岩倉の町で
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右の石像はお地蔵さんではなく、定印を結ぶ阿弥陀如来坐像(鎌倉期の作という)。表面がすりへって目・鼻・口がはっきりしない。それでいつしか「目無地蔵」と呼ばれるようになった。
地蔵尊 前回の記事 ⇒ 地蔵尊八幡056 地蔵尊 前に石が祀られている
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琴の橋 大日如来由来記
応仁元年(1467)以来11年間世にいう応仁の乱により家屋敷を焼き払われた民、公家は暗夜に乗じてある者は裸同然の姿でわれもわれもと都落ちしていった。都からさほど遠くないこの乙訓の村々にも都落ちしてきた人々が数多くみられた。ある夜のこと暗い野良道を急ぐ数人連れがあった。長い布で身を隠した一人の娘を取り囲むかの様に急ぎ足で行く刀を差した小者がいたわる様に、月明かりに照らされた姫の美しいほおに涙がキラリと走る。「都の父は如何されたであるか。」ちょうど桂(京都市右京区)から寺戸村(向日市寺戸町)へ入る所だった道が川に行き当った。幅が2メートル近くあり深く橋が下り、か弱い姫を守っての逃避行渡れそうにない「せっかくここまで逃げ延びてきたのに」姫と小者も途方に暮れてしまった。身の不運とあきらめかかったその時、川べりに「お前の供がもつ琴を橋のかわりにしてかけなさい。」姫はハッとした「その声は」なんと日頃から信仰している大日如来のものだった。姫はすぐに小者に命じて愛用の琴を川にかけさせ無事に逃げ延びた。そしてあとから追ってきた父と再会安らかな生涯を送ったという。その姫の名、氏、素性もさだかでない。その後この場所に石橋がかけられ琴の橋と呼ばれて永年親しまれていた。その地より今は故人となられた永井、土谷両氏のご努力により当地に安置し琴の橋大日如来と呼び子供たちの身を守り続けている。
向日市寺戸町三ノ坪第4向陽校前市道を南へ50m下がった農業用水路にかかるコンクリート橋
まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き向日1058 家にくいこむ 街路樹
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2019年7月8日 記事追加
前坂の京向地蔵尊
京を向いているのでこの名がある。
台石に石工銘があり「石工京荒神口今津屋平兵衛」とある。
江戸後期の天明から寛政年間富む推定される。
2018年10月11日の記事
古道 若狭街道 京見峠 0.5K
杉坂 2K
真弓 6K
山国 16K
地蔵尊 前回の記事 ➡ 地蔵尊山045 山科 下御廟野町
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こちらの像には 屋根がない
地蔵尊 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0596 単傳菴・らくがき寺 臨済宗妙心寺派 縁結び・比翼地蔵尊
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水嫌い地蔵 八幡の昔話
今から130年ほどの前の話です。八幡さまのある男山の南の麓に橋本という所があります。
橋本は、木津川と宇治川と桂川の3つの川が合流して淀川になる所で、きれいな水が流れて青い光につつまれ、春には菜の花や葦に黄金の花が咲き乱れます。
橋本の渡しは、いつも三十石船や、八幡さまにお参りする人々で賑わい、宿場町として栄えていきました。しかし、一方では、梅雨どきになり大雨が続くと、昔から水がつき、水害に悩まされていたのです。
橋本の小金町に住む久次郎の家には、古い井戸があり、大雨のために水が溜まっていました。
ある日、久次郎がその古い井戸に近寄ると井戸の底から「ウオオーン、ウオオーン、ウオオーン」という不思議な音が響いてきます。家の人達には全く聞こえないのに、久次郎にだけ聞こえるので、不思議に思っておりました。
その夜のことです。久次郎が眠りにつくと「久次郎さんやー、この井戸から出してくれー、出してくれー」とはっきりした声が聞こえるのです。はっと目をさますと、お地蔵様か久次郎の夢枕に立っておられます。
「井戸の底から、ウオオーン、ウオオーンと何やらふしぎな音がしたのは、お地蔵様の声でしたか」と翌日早速、井戸さらえをすることにしました。つるべで井戸の水をくみ出し、久次郎は井戸の中へ降りていきました。
すると、井戸の底からお地蔵さまが現れたのです。両手で抱きかかえるほどの小さなお地蔵さまでした。「これはきれいなお地蔵さまや、さぞ苦しかったことでしょう」と声をかけ、しっかりと抱きかかえて家にお連れしました。これをふしぎなご縁と思った久次郎は、早速家の前に祠を作り、お地蔵さまを大切におまつりしました。
子供たちも大喜びでお地蔵さまのそばに集まり、仲よく遊ぶようになり、それからは病気1つしませんでした。
地蔵盆には提灯をともし、お供えをして楽しく一日を過ごすようになりました。
それ以来、大水が近くまで来ても、このお地蔵様のおられる小金町は、水がつかなくなり、水害にも遭わなくなったことから、いつからか『水嫌い地蔵さま』と呼ばれるようになったのです。
地蔵尊 前回の記事 ⇒ 地蔵尊八幡051 八幡 子安地蔵尊
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