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道標向0060  長岡宮大極殿跡、向日神社、森本遺跡

2016年08月31日 15時17分48秒 | 道標

 

 

道標 前回の記事 ➔  道標向0059  五辻の道標  京都 嵐山方面

今日の俳句

びいと鳴く 尻声悲し 夜の鹿 /芭蕉

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史跡向014  長岡宮大極殿跡  石碑・行幸啓地

2016年08月31日 06時42分41秒 | 史跡・旧跡

 

 

長岡宮大極殿跡

今から約1200年前の奈良の平城京と京都の平安京の間に「長岡京」という都がありました。この公園は、長岡京の中心部にあたり、発掘調査で見つかった遺跡を保存しています。

大極殿・天皇が政治をおこなう、一番重要な建物。

小安殿・後殿ともいい、天皇が大極殿に出向くための控えの間として利用されていたようです。

宝幢・元旦のお祝いの儀式の時に7基の旗をたてました。

うち発掘で見つかった2基を復元しています

 

石碑 史跡 長岡宮跡

 昭和39年4月27日 指定

 

 

長岡京は、桓武天皇が延暦3年(784)11月11日に奈良・平城京から遷した都で、

延暦13年(794)10月22日に平安京に遷るまでの約10年間、ここ向日市が日本の中心地となりました。長岡京の規模は、東西4.3㎞、南北5.3㎞を測り、現在の向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部にあたります。この長岡京の中でも役所が建ち並ぶ地域を「長岡宮跡」と呼んでいます。長岡宮の内部は、いくつかの区画に分けられます。政治・儀式の場である大極殿や朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園などです。大極殿は天皇の即位や元旦の朝賀(正月の儀式)、外国使節の謁見などに用いられた古代の儀礼空間として最も重要な建物でした。(長岡京の場合、桓武天皇一代の都で、即位の儀式はありませんでした)後殿は、大極殿の北側に設けられ、平安京では「小安殿」と呼ばれる建物です。平城京までの都は大極殿のすぐ北側に天皇のすまいである内裏がありましたが、長岡京では独立して離れたため天皇が

大極殿に御す時の休憩所として後殿(小安殿)が機能したようです。

このような長岡京の存在は、古くは江戸時代から知られていましたが明確な場所特定していませんでした。明治28年(1895)、平安遷都千百年記念祭に長岡宮大極殿址保存の機運がおこり、公園東側の石碑が有志金により建立されました。

 

この長岡京跡の発掘調査は、昭和29年(1954)12月末に行われ翌1月に遺跡の存在が初めて確認されました。また大極殿の調査は、昭和34・36年(1959・1961)に宅地開発を契機に確認されその後、京都府による保存整備を経て現在に至っています。

 

 

向日市では、発掘調査などにより発見された長岡京跡の中心部の重要な遺跡を「長岡宮跡」として史跡指定を受け順次買い上げ史跡公園として整備を図り、市民の皆様に広く活用して頂けるように努めています。平成18年(2006)3月現在、史跡に指定された「長岡宮跡」は約9100㎡で、90%を公園として整備しています。

今後も史跡指定地と整備地を拡大させ、皆様に親しまれるよう努めて参ります。

 

 

 

大極殿

東西(桁行)九間、南北(梁間)四間の瓦葺きの四面庇の建物です。

長岡京の廃都後に耕作などにより削られていたため、

柱の規模は明確には確定することはできませんでしたが、

建物の土台となる基壇を発見することができました。

基壇は、東西42.8m(約145尺)、南北21.6m(約73尺)、面積約924㎡(約280坪)で高さが2.4m(約8尺)であったと考えられます。南面に3つの階段、北面に2つの階段と後殿につながる軒廊(屋根付きの渡り廊下)があります。北側の公園の中央まで、コンクリートで1段高くなった部分が基壇を表しています。

後殿

大極殿の真北に建てられた、東西(桁行)7間(27.9m)、南北(梁間)2間(12.8m)、面積357㎡(約108坪)の瓦葺きの建物です。基壇は、大極殿より低く約1.1mの高さと考えられます。

宝幢

大極殿の南の前庭に、元旦朝賀(正月の儀式)の際、東西6m間隔に正確に配列された宝幢と呼ばれる7本ののぼり旗が立てられました。長岡宮の宝幢は、元旦の使用例を示す日本で唯一の遺構です。

長岡宮の大極殿・朝堂院の特徴は、奈良時代の難波宮(大阪市)を解体して移築された点です。それは、一刻も早く平城京(大和)の地を離れ、新しい都を建設するためでした。しかし、一方で、平安京の大極殿や内裏(天皇の住まい)の配置にも繋がる特徴も持っています。奈良から平安時代への過渡期の遺跡として長岡宮跡は歴史上重要な遺跡です。

平成22年(2010) 京都府向日市

 

 

史跡長岡宮跡 大極殿

約1200年前の当地一帯には、現在の東京霞が関のように国の役所が建ち並んでいました。大極殿と朝堂院は、その最も重要な施設です。長岡宮では、回廊(通路のある塀)や築地(土塀)に囲まれた大極殿と朝堂院を南北に配し、瓦葺きの立派な建物が建てられていました。

大極殿のルーツ

大極殿は、天皇が政治を司る場所です。「大極殿」の名は、中国の宮殿の正殿「太極殿」に由来します。「太極」は、万物の根源、天空の中心たる北極星を意味します。

日本の天皇は、中国の天文思想に習って、世界を支配する中心として、

地上に「大極殿」を建てました。

建物の中心には、儀式や謁見の際に天皇が着座する「高御座」(玉座)が、南向きに据えられていました。長岡京遷都の翌年、延暦4年(785)正月の元旦朝賀が行われたと記録にあり、いち早く建設を進めなければならない重要な施設だったことが伺われます。

飛鳥時代以来、歴代の都では、天皇の住まいである内裏の南に連結して大極殿を設けていました。長岡京に都が遷されれると、大極殿は内裏から完全に独立し、

「朝堂院の正殿」としての性格が強まりました。

大極殿は、主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになりました。長岡京の大極殿は、奈良時代から平安時代に移り変わる転換期の朝廷政治を我々に示してくれています。

 

 

国指定史跡

長岡宮跡

古代日本の首都・長岡京

長岡京は、桓武天皇の命により、延暦3年(874)11月11日に奈良・平城京から、山背の(城)国乙訓郡長岡村に遷された古代日本の都です。延暦13年(794)に京都・平安京に遷されるまでの10年間、当地一帯が日本の首都でした。

都の大きさは、東西4.3㎞、南北5.3kmと広大です。

地下に眠るこの遺跡を「長岡京跡」といいます。

当時の詔に「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあり、

地名に因んで「長岡京」と名付けられました。

長岡という地名は、古来より、向日神社のある低い丘陵(通称・向日丘陵)を中心とする一帯を指します。

「長𦊆(岡の異体字)」と墨書された飛鳥時代の土器が、

本市から出土したことがこれを裏付けています。

都の中心地・長岡宮

都は、宮城と京域に分かれます。宮城は、都の北部中央に位置し、天皇が政治を司る大極殿や天皇の住まいである内裏、国儀大礼をおこなう朝堂院、各役所など、国家の中枢部が所在したところです。長岡京の時代「長岡京」と呼ばれ、そのほぼ全域が向日市に含まれます。京域は、宮城を取り囲む街区(道路に囲まれたブロック状の区画)です。中央に朱雀大路を配し、大路と小路を縦横に通して碁盤の目状に区画していました。区画内には、貴族の邸宅や役所に勤務する役人の住宅街、東西の市などが置かれ立派な都市空間を形成していました。

史跡 長岡宮跡

昭和36年(1963)の発掘調査により確認された大極殿跡が、昭和39年(1964)に「長岡京跡」として、国の史跡に指定されました。以後、長岡宮跡に関する重要な遺跡が発見されるたびに、同一名称で追加指定が行われました。

史跡は、文化財の種類のひとつ。歴史上または学術上価値が高いと認められる遺跡は、史跡として指定されます。国が指定した史跡は、一般的に重要文化財に相当します。

 

 

 

 

 天皇皇后 両陛下 行幸啓記念碑  平成22年3月27日  向日市

 

 

石碑 長岡宮 大極殿跡

 

 

 

 

 

 

 

関連記事 ➔  1200前の京都 大極殿

       平安宮 朝堂院跡  大極殿がよみがえった

         

史跡 前回の記事 ➔ 史跡西013  勝持寺子院跡の石塁と石垣

 

今日の俳句

びいと鳴く 尻声悲し 夜の鹿 /芭蕉


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寺院向0184 南真経寺  

2016年08月30日 16時20分43秒 | 寺院

 

 

 本堂

 

 

 開山堂

 

 

 鐘楼

 石碑

 

寺院 前回の記事 ➔  寺院中0183  だるま寺  前半  

今日の俳句

初秋や 海も青田も 一みどり /芭蕉

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まち歩き向0142  五辻の常夜灯

2016年08月29日 22時44分45秒 | まち歩き

 

 

 

五辻の常夜灯

五辻の常夜灯は、幕末の慶應元年(1865)5月に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の1つである京都の千眼講によってたてられた石灯籠です。西国街道に沿った向日町の町並みは、京都から西山の社寺へと参詣する人々でにぎわいました。現在の五辻から、通称゛滝ノ下゛、へと続く坂道は、江戸時代には「西山道」や「梅ケ坂」の名で呼ばれ、善峰寺や光明寺へ通じる参詣道でした。また、江戸時代の終わり頃からは、眼病によく効く水があることで楊谷寺へ参詣する人々が増え、京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に、一対の大きな石灯籠がたてられたのです。

江戸時代、この場所は向日神社の境内地でした。向日神社に伝わる古文書によると元治2年(1865)3月に境内地を拝借して石燈籠をたてたいという千眼講からの願所が出され、同じ年の12月までには聞き届けられています。向日神社文書の中には、許されたお礼と今渡迷惑をかけないという内容の文書とともに、造立する石灯籠の絵図面も残されています。

月日は流れ、道の南側にあった一基は、昭和初期の新道(現在の府道西京・高槻線)建設に際して移設され、現在は長岡京市梅ケ丘にあります。北側の一基も、昭和44年(1969)の歩道工事の時に撤去され、楊谷寺の裏参道にあたる大阪府島本町と長岡京市の境界付近に移されてしまいました。

今回、五辻のポケットパーク整備にあわせて、かつてこの場所にあった灯籠のたつ景観の復活を目指して協議会を設立し復元計画の策定など積極的に活動してまいりました。

この度、向日区の皆様をはじめとして、楊谷寺、京都府、向日市などのご協力を得て、楊谷寺裏参道沿いに移されていた一基を往時の佇まいそのままの姿に、五辻の常夜灯として復活させることができました。常夜灯は、向日町の繁栄を後世に伝えるまちのシンボルです。常夜灯を中心に絆を強めて、まちに活性化が図られることを願っています。

平成24年(2012)10月13日

向日市制施行40周年を記念して

五辻の常夜灯の復元と活き活き向日町協議会

 

 

関連記事 ➔ 道標向0059 

まち歩き前回の記事 ➔ まち歩き中0141 三条台若中 祇園祭・神輿の担ぎ手 三若


今日の俳句

遊びてし のちのしまりや 新学期 /青々


 

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道標向0059  五辻の道標  京都 嵐山方面

2016年08月28日 06時34分38秒 | 道標

 

 

 五辻の常夜灯  ➔  まち歩き向0142

道標 前回の記事 ➔ 道標長0058  草に埋もれて「すく京・・・」 角宮神社前で

 

今日の俳句

小鳥来る 音うれしさよ 板庇 /蕪村


 

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道標長0058  草に埋もれて「すく京・・・」 角宮神社前で

2016年08月27日 10時13分12秒 | 道標

    すく京・・ 

 

道標 前回の記事 ➔ 道標西0057  西山くおんじ道

 

今日の俳句

盆過て 宵闇暗し 虫の声 /芭蕉


 

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神社長0068  角宮神社  

2016年08月27日 06時33分42秒 | 神社

 

 

 

 石鳥居

平成御大典記念

瑞垣 板石参道新築

 

 

 

角宮神社

式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は、本殿向かって左に主神火雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、

右に春日神(三神)を祀る。

乙訓坐火雷神は、玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社、玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大幣をあずかる名神大社として社格の高い社であった。

初見は「続日本紀」の大宝2年(702)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(1221)で灰燼に帰し安易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明16年(1484)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。

長岡京市観光協会

 

 

社号標

 

この石組みは、もと宝永5年(1708)に当神社氏子の石田七郎衛政次氏(現当主 石田政房氏)によって奉納された鳥居が、今般不慮の事故で倒壊しましたので新しい鳥居を再建し、彫刻家 山本哲三氏にデザインを委嘱、もとの素材を使って当神社の「祈雨の神」としての御神徳に因み笠木を船、柱石を島、栗石を水に見立てヽ組み立てたものであります。

平成3年12月

角宮神社

 

 

御大典紀  の文字のある石柱

手水舎

 

文字が書かれているような

拝殿

本殿

 

狛犬

 

 

左から

八幡社 大神宮 稲荷社 向日神社 

 

神社 前回の記事 ➔ 神社長0067  赤間神社 


今日の俳句

盆過て 宵闇暗し 虫の声 /芭蕉


 

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神社長0067  赤間神社

2016年08月26日 08時30分46秒 | 神社

 

 石鳥居

 

 

赤根神社

当神社は赤根天神社と称し、祭神は伊弉諾尊・伊弉なみの尊を祀っている。古い昔より、その神徳を願し、地域住民は家内安全、五穀豊穣を祈願して参り、古い書物や今里自治会館に保管してある古文書にも色々と記録されている。古老の話などでは、その昔、今里には神輿が一基あって向日神社の御旅所でもあった。年間の行事には元旦祭を初め、お節会祭・向日神社還行祭・お千度参りなどがある。その他、五穀豊穣にまつわる祭も盛大に行われている。現在、神社のお守りは今里区民が1年交替で毎月1日と15日に本殿や参道を掃き清め、御神酒をお供えし、鎮守の神として区民の安全を祈願している。近年は、近郷の人びとの参拝もとみに多い。

長岡京市観光協会

宝永6~7年(1709~10) 石田瀬兵衛間政永 寄進

 

 

平成御大典奉祝

伊勢神宮式年遷宮

記念樹 

 

本殿

 

 

赤根天神社

赤根天神社は、伊弉諾尊・伊弉なみの尊を祭神とする。もとは、もとは、井ノ内の旧石田家が奉祀する神社で、応仁の乱で焼失したが、それまでは、この地に石田家の屋敷があり、屋敷内にたつ鎮守社であったという。現在、赤根神社は、今里区民の鎮守として奉られている。今里集落の北端に位置し、社地は南北に長く、南に鳥居をおき、参道は北へのびて本殿・社務所に達する。本殿は、正徳3年(1713)10月の造営と伝えられるが、蟇股・虹梁桧様などの細部意匠は18世紀前期のもので、正徳3年の造営の可能性は大きい。

本殿は、覆屋内に建つこけら葺の一間社流造で、正面に奥行一間の前庇を付けて拝所としている。身舎は、亀腹基壇の上に土台を据えてたち、正・側面三方に高欄付の切目縁をめぐらして、正面に浜床を設けている。身舎内部は二室からなり、内陣正面に板扉、外陣正面に格子戸4枚をたてている。比較的規模の大きい一間社流造で、全体に堅実な造りとなっている。

本殿には、「寳永2歳酉三月日、源平寺町、久右衛門」の刻銘のある瓦製狛犬一対を安置している。また、境内には、宝永6~7年(1709~10)に石田瀬兵衛間政永が寄進した石燈籠や石鳥居が現存している。当社は、在地の土豪の旧鎮守社という由緒も加わって、当地の歴史を語るうえで興味深い存在である。平成12年3月

長岡京市教育委員会

 

 

 

「寳永2歳酉三月日、源平寺町、久右衛門」の刻銘 

 

 

神社 前回の記事 ➔  神社向0066  向日市寺戸 天満宮

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地蔵会や 線香燃ゆる 草の中 /虚子

 

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寺院長0173  大正寺 西山浄土宗 今井九左衛門のお墓

2016年08月26日 06時32分19秒 | 寺院

 西山浄土宗

 

 

 

 

 

今井九左衛門のお墓

昔(1530年 )

 

寺院 前回の記事 ➔  寺院長0172  西向寺  西山浄土宗


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地蔵会や 線香燃ゆる 草の中 /虚子


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