アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

源氏物語遺跡24 斎宮邸跡 

2019年09月21日 06時48分24秒 | 平安京

 

 

斎宮邸跡 平安京右京三条二坊十六町跡

斎宮は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の内親王または女王のことで、「いつきのみや」または「大御神(おおみかみ)の御杖代(みつえしろ)」とも呼ばれる。『日本書紀』によると、垂仁(すいにん)天皇の時代が始まりとされ、亀の甲羅を焼いて占う卜定(ぼくじょう)により斎宮が選ばれた。この制度が確立したのは天武朝以降で、南北朝時代の後醍醐朝をもって終わる。

2000年に行われた西京高校北側グラウンド発掘調査で、東西約15m、南北約40mの池跡や木枠を組んだ泉跡、池に張り出す建物跡など数多くの遺構が検出され、平安時代中期の邸宅跡と判明した。池跡から「齋宮」「齋雑所」と書かれた墨書土器が出土し、泉跡からは平安京跡出土の人形代(ひとかたしろ)では最大のものが出土した。また、池にたいせきした花粉分析の結果、庭にはマツ、カエデ、カキ、サクラなどが植栽され、この十六町跡が平安京内の斎宮の居所の1つと判明した。『源氏物語』 「賢木(さかき)」では、六条御息所は光源氏との恋愛に疲れ、斎宮に卜定された娘(後の秋好中宮)とともに伊勢へ赴くことを決意、光源氏は嵯峨野の野宮へ六条御息所を訪ねる。秋好中宮は母の死後、光源氏の養女となり、冷泉帝の妃となって斎宮女御と呼ばれた。当初は帝となじめなかったが、共通の趣味の絵を通して二人は親しくなっていった(「絵合」)。この六条御息所と秋好中宮の母娘は、歴史上実在の斎宮の母娘(徽子女王と規子内親王)に対比されている。

 

 

 

 

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平安京006 旧 平安京右京三坊北辺並一条

2019年02月02日 07時35分35秒 | 平安京

 

旧 平安京右京三坊北辺並一条

 

この花園団地の区域は、右図のように平安京右京三坊の北部で、三坊の西辺を区切る木辻大路に沿って東西幅約1町(120)になり、南北には一条大路の南辺から、正親町小路・土御門大路・鷹司小路の3町にわたる(路幅を加えて約414)区域を占めている。

平安京は、もとこの辺りに勢力を張っていた秦氏のすすめもあって延暦13年(794)に、桓武天皇が造営された都につけた名である。

この都は計画的に道筋をととのえたものであったが、1200年に近い年月の経過は、ほとんど消え、地上によくのこされていない。

その平安京の跡を求めて、京都工芸繊維大学繊維学部敷地からこの住宅団地に変わる機会をとらえて、昭和51年の夏から発掘調査を約1年間にわたり行い、① 平安京の北京極にあたる一条大路の南側溝や② 土御門大路の北築地塀及び木辻大路東築地塀加えてそれに沿う、溝とそれぞれの一部をみつけ、この二つの築地塀が交差する地点を求めることができた。その地点は今後平安京を復元するには重要な地点となるので、ここに標示するものである。

そのうち上記の①については、ここより北方の箇所で東西に通るのをみつけた。

なおその他の遺跡としてこれより東南方に、平安京以前のものとして、7~8世紀の竪穴住居跡と掘立柱の建物跡を、さらに東北方の区域でも掘立柱建物跡を発見している。このうち東北方の一群の中に、平安時代初期、10世紀の遺物も発見しているので、伝承の宇多院跡を示すものと考えている。

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源氏物語遺跡26 西鴻臚館跡

2019年02月01日 06時00分14秒 | 平安京

 

西鴻臚館跡 平安京右京七条一坊三・四町跡

朱雀大路を挟んで東と西に設置された外国使節を接待・宿泊させる迎賓館。平安時代前期には渤海使節団の来朝に際して用いられ、詩文の交歓が行われた。しかし2つの鴻臚館の維持が負担となり、東鴻臚館は承和6(839)に廃止され、渤海国滅亡後は使節団の来朝も途絶えて西鴻臚館も使用されなくなり、12世紀には個人の領となった。西鴻臚館跡の発掘調査では、区画遺跡が検出され、、旧都(平城宮・難波宮・長岡宮)からの搬入瓦や銭貨のほか、土師器、須恵器、輸入陶磁器など数多くの遺物が出土しており、往時の華やかさが偲ばれる。なお、東鴻臚館跡の石碑は、この北東約400mにある角屋(すみや・重要文化財)の北側にある。

『源氏物語』「桐壺」では、桐壺帝が来朝して鴻臚館に滞在の高麗の相人(人相見)のもとへ、素性を隠して光源氏を遣わして占ってもらい「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる形にて見れば、またその相違ふべし」と准太上天皇になるとの予言を得るといった話がある。

 

 

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源氏物語遺跡17 平安宮西限 左馬寮跡・藻壁殿跡

2019年01月31日 16時37分31秒 | 平安京

 

 

 

平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡

藻壁門は宮城14門の1つで、平安宮西面の南から2番目の門である。切妻・瓦葺の門で正面5間に三扉が付く。焼亡・転倒の記事が多い。この門を入ってすぐの東南に左馬寮があり、さらに東へ進むと豊楽院・朝堂院の北端に至る。

左馬寮は、南にある右馬寮とともに嵯峨天皇の時に再編されたもので、宮中の馬の飼育・調教や馬具、及び諸国の牧を管理する役所で、その長官を左馬頭(さまのかみ)と呼んだ。『源氏物語』「帚木(ははきぎ)」では、「雨夜の品定め」の場面に、光源氏や頭中将とともに女性談議に興じる左馬頭なる人物が登場する。

 

 

 

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源氏物語遺跡36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡)

2019年01月31日 13時33分38秒 | 平安京

 

 

 

法成寺跡

寛仁3(1019)、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂が出現した。平安京外の東一帯に位置することから、「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれている。度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれた(『徒然草』)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。ここには寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑がある。発掘調査では法成寺跡の遺構は見つかっていないが、鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土している。

 

 

 関連記事 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

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平安京005  平安京左京北辺三坊六町

2019年01月31日 06時29分30秒 | 平安京

 

 

平安京左京北辺三坊六町 内膳町遺跡

当マンション建設地は、縄文晩期から弥生時代の集落跡である内膳町遺跡及び、平安京北辺三坊六町跡に該当する。平安時代この地には天皇の食事の調理などを司る内膳司の厨町が存在した。平安中期にはすでにこの内膳町は廃絶し、富裕な受領であった前安芸守藤原資良(すけよし)の邸宅があった。中世には「清浄華院(しょうじょうけいん)」が観応2(1351)に移転し、桃山時代に現在地(京都御苑の東側)へさらに移転する。その後は大名の邸宅が営まれた時代があった。

今回の調査では平安京造営にかかわる様子の一部が明らかとなった。条坊遺構(土御門大路)に先行する北東から南西に斜行する溝と、それを廃絶し埋めた後に成立する土御門大路の一部、平安時代の池が見つかっている。

斜行溝には平安京初期の土器が含まれており、平安京施行当初に物資を運ぶ運河として利用されたものとも考えられる。土御門大路は物資の搬入後に運河を埋めて作られたものと見られ路面からも平安京初期の土器が出土しており、平安京造営の様子の一端を見ることが出来た。この地が私領化されるとともに庭園が整備されたと考えられ、鎌倉時代の前半にはこの地は完全に埋まっている。

中世の遺構(柱穴や土壙)もある程度認められ、清浄華院関係の遺構と考えられる。桃山時代には聚楽第が整備されるとともに大名屋敷が設けられ、金箔の瓦を屋根に乗せて威容をほこったものとものと思われる。当調査地で出土した「橘」文の主は五奉行の一人であった前田玄以(15391602)の可能性が高い。

 

 

関連 ⇒ 平安京ゆかりの地 66ヶ所

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平安京004 土御門邸跡

2019年01月30日 18時54分27秒 | 平安京

 

 

土御門内裏跡   平成八年八月

 

土御門内裏は,鳥羽(110356)崇徳(111964)近衛(113955)三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町規模の里内裏。平安京大内裏を模して造営された最初の里内裏で,もと源師時(10771136)の土御門邸があった。たびたび火災などに遭遇したが,保元元(1156)年の再建が中止されて廃絶した。


 

土御門烏丸邸の沿革

平安京左京一条三坊九町にあたるこの地北は上長者町通、南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通は10世紀 村上天皇皇子具平(ともひら)親王の邸宅が造営され、12世紀に至って、曾孫源師時(もろとき)の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(あきたか)

この地を買得して内裏を模した最初の里内裏を営み鳥羽天皇から崇徳・近衛と続く三代、24年もの間、天皇の御所だった。この里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。鎌倉・室町時代には清浄華院が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。江戸時代の寛永12(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4(1864)烏丸通を挟んで東向かいにある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰考館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。明治時代に入った後は転々と所有者が変わり、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなった。平成8年仲秋

財団法人 古代学協会・古代学研究所

 関連 ⇒ 平安京ゆかりの地 66ヶ所

     平安宮と周辺史跡 37ケ所

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源氏物語の遺跡 40ヶ所

2019年01月25日 17時53分36秒 | 平安京

 

 

1  平安宮内裏遺跡(源氏物語の中心舞台) 上.下立売通智恵光院西入下丸屋町(上京歴史資料館前)

2  平安宮内裏凝華舎跡(梅壺)・飛香舎跡(藤壺) 上.土屋町通出水下る西神明町(民家)

3  平安宮内裏弘徽殿跡    上.出水通千本東入下る東神明町(民家)

4  平安宮内裏清涼殿跡(天皇の居所)  上.下立売通千本東入田中町(民家)

        源氏物語遺跡19 平安宮朝堂院昌福堂跡

5  平安宮内裏承香殿跡     上.浄福寺通出水下る西入東神明町(民家)

6  平安宮内裏蔵人町屋跡    上.下立売通千本東入田中町(民家・店舗)

7  史跡平安宮跡 内裏跡(内郭回廊跡) 上.下立売通千本東入田中町(史跡指定地)

8  平安宮内裏紫宸殿跡     上.下立売通浄福寺西入田中町(民家)

9  平安宮内裏淑景舎跡(桐壺)  上.出水通浄福寺東入田村備前町(民家)

10 平安宮内裏昭陽舎跡(梨壺)   上.浄福寺通出水下る東入田村備前町(ガレージ)

11 平安宮内裏温明殿跡(内侍所跡) 上.下立売通智恵光院西入下丸屋町(ガレージ)

12 平安宮内裏東限跡と建春門跡  上.智恵光院通出水下る分銅町(松林寺)

13 平安宮内裏南限跡と建礼門跡  上.浄福寺通下立売下る中務町(京都市立二条城北小学校)

14 平安宮内裏宜陽殿跡      上.浄福寺通下立売上る下丸屋町(ガレージ)

15 平安宮大蔵省跡・大宿直跡   上.中立売通裏門西入多門町(京都市立正親小学校)

16 平安宮朝堂院大極殿跡     上.千本通丸太町上る小山町(内野児童公園)

17 平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡 中.西ノ京左馬寮町(京都市立朱雀第2小学校)

  源氏物語遺跡17 平安宮西限 左馬寮跡・藻壁殿跡

18 史跡平安宮跡・豊楽院跡(豊楽殿跡) 中.聚楽廻西町(史跡指定地)

  源氏物語遺跡18 史跡平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)

19 平安宮朝堂院昌福堂跡     上.千本通丸太町下る東入主税町(民家)

20 平安京一条大路跡       上.一条通大宮東入石橋南半町(民家)

21 一条院跡(一条院内裏跡)    上.大宮通中立売上る糸屋町(名和児童公園)

22 二条院候補地(陽成院跡)    中.夷川通小川東入東夷川町(夷川児童公園)

23 大学寮跡           中.西ノ京北聖町(京都市立中京中学校)

   源氏物語遺跡23 大学寮跡

24 斎宮邸跡           中.西ノ京東中合町(京都市立西京)

25 朱雀院跡           中.壬生花井町(日本写真印刷株式会社)

26 西鴻臚館跡          下.朱雀堂ノ口町(京都市中央卸売市場第1市場)

   源氏物語遺跡26 西鴻臚館跡

27 羅城門跡           南.九条通新千本東入唐橋羅城門町(唐橋・花園児童公園)

28 鞍馬寺 北山の「なにがし寺」候補地 左.鞍馬本町(鞍馬寺境内、由岐神社横)

29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地  左.岩倉上蔵町北山病院敷地内(旧大雲寺境内)

       源氏物語遺跡29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地

30 雲母坂(比叡山延暦寺の横川への上り口)   左.一乗寺竹ノ内町(関西セミナーハウス敷地)

31 雲林院            北.紫野雲林院町(雲林院)

32 遍照寺境内(夕顔のモデル大顔の舞台)    右.嵯峨広沢西裏町(遍照寺境内) 

      寺院右0014  遍照寺 昔は大規模だった

      道標右0202  おんど 車折  遍照寺境内

      石仏右031  遍照寺の石仏 と 石柱2本

33 棲霞観跡(清涼寺) 源融別業跡  右.嵯峨釈迦堂藤ノ木町(清涼寺境内)

34 野宮(野宮神社)         右.嵯峨野々宮町(野宮神社境内)

35 大堰の邸候補地(明石君邸推定値) 右.嵯峨天竜寺芒ノ馬場町(宿泊施設らんざん)

36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡) 上.荒神口通寺町東入荒神町(鴨沂高校北側グランド南塀沿)

  源氏物語遺跡36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡)

37 蘆山寺(紫式部実家推定地)    上.寺町通広小路上る北之辺町(蘆山寺境内)

38 梨木神社(中川の家候補地)    上.寺町通広小路上る染殿町(梨木神社境内)

39 鳥辺野(葬送の地)        東.妙法院前側町(豊国廟参道・七条通東大路東入北側)

40 大原野神社(藤原氏ゆかりの地)  西.大原野南春日町(大原野神社)

 

41 まち歩き下1594 京の通り・堺町通 NO71 石碑・源氏物語 夕顔


源氏物語遺跡18 史跡平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)

2019年01月25日 13時14分49秒 | 平安京

 

 

史跡 平安宮跡 豊楽院跡

朝堂院の西側にあったのが、豊楽院で、延暦19(800)以後に完成した。規模は東西171m、南北402mあり、この正殿が豊楽院である。東西に楼閣を備え、その南方には回廊でつながる長大な4つの堂が建っていた。豊楽殿には天皇が御して国家的な饗宴が行われ、特に正月元旦、大極殿での朝賀の後の饗宴は盛大であった。しかし、9世紀中ごろ以降は豊楽殿から紫宸殿へ儀式の場が移り、11世紀に入ると次第に荒廃し、康平6(1063)の焼失後は再建されなかった。正月七日この豊楽殿では、前庭に白馬を牽き出して天皇が御覧になり、宴を催す白馬(あおうま)節会がある。『源氏物語』「少女」で、源氏が二条院で白馬節会を行っているが、実際に当時の貴族邸で催されていたかは不明である。1988年に豊楽殿の北縁西側が発掘調査され、緑釉瓦で縁取りされた建物は、東西9(39)、南北4(16)と判明し、検出遺構は史跡指定を受け保存されている。また2007年には豊楽殿北廊跡とその北にあった清暑堂南縁が検出され、幅5.2mの西側階段を構成する凝灰岩の一部が見つかっている。調査の結果、北廊は清暑堂(東西基壇幅35)造営と一連に造作され、当初は単廊で後に拡幅されたことが判明している。平成203月 京都市

 

 重要文化財

 

 

源氏物語 関連 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

 


源氏物語遺跡16 平安宮朝堂院大極殿跡

2019年01月23日 19時49分09秒 | 平安京

 

源氏物語ゆかりの地

平安宮朝堂院大極殿跡

平安宮は大内裏とも称し、国政・儀式・年中行事などを行う宮殿や諸官衙(かんが・役所建物)と天皇に関わる生活空間からなり、今日の東京の皇居と霞が関界隈に点在する役所を合わせたようなものである。その規模は南北約1.4㎞、東西約1.2㎞あり、周囲は築地や壖地(ぜんち・犬走)・隍(ほり・濠)で厳重に囲み、14の門があった。

平安宮の正門の朱雀門を入ると応天門をもつ朝堂院(八省院・はっしょういん)があり、この正殿が大極殿である。東西9間、南北2間の母屋の四面に庇をもち、四周に朱欄をめぐらせ、屋根は緑釉瓦で縁取られ、大棟には一対の鴟尾(しび)がのる平安宮最大の建物である。床は塼敷き(せんじ)で母屋中央に玉座の高御座が置かれる。斎宮が伊勢下向に際して、大極殿において天皇から「別れの御櫛」を額に挿してもらうが、『源氏物語』「賢木(さかき)でも朱雀帝が斎宮(後の秋好中宮・あきこのむちゅうぐう)に別れの御櫛を挿す描写がある。

大極殿は、安元3(1177)の大火後は再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移った。朝堂院の西には饗宴施設である豊楽院(ぶらくいん)、北東には天皇の居所である内裏がある。そのほか平安宮内には、二官八省をはじめとする政治を掌る官衙が建ち並び、内裏の西には宴松原と呼ぶ空閑地があった。大極殿の発掘調査では、南辺と東軒廊跡、昭慶門に取り付く東側回廊跡の凝灰岩の基壇石などが検出され、その成果から現在の「大極殿遺蹟の碑」は、大極殿の北にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが判明している。

平成203月 京都市

 

源氏物語 関連 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

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平安宮004 大極殿 案内板

2019年01月21日 15時28分25秒 | 平安京

 

大極殿跡

平安宮で最も重要な施設である朝堂院の正殿「大極殿」は、平安京遷都の翌年、延暦14(795)には完成。天皇の即位式のほか、正月に行われる朝賀(ちょうが)や御斎会(ごさいえ)、外国使節の謁見(えっけん)など、国家の重要な行事がここで行われた。弘仁6(815)には、地方から19,800人余りの役夫が動員されて大掛かりな修理が行われ、このとき初めて屋根に緑釉瓦が採用されたものと考えられる。

その後、貞観18(876)416日夜半の火災で焼失。元慶3(879)10月に再建(2)されたが、康平元年(1058)226日に再び火災が発生し、応天門と左方の楼を残して焼失。さらに延久4(1072)415日に再建(3)された大極殿も、安元2(1177)428日に焼失し、以後は再建されなかった。

創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造りの建物とみられ、基壇の大きさは推定東西59m、南北24m、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。

大極殿の位置は、最近まで千本丸太町交差点の北側付近と推定されていたが、近年の発掘調査で、朝堂院内のいくつかの建物跡が見つかり、さらに建都から1200年目にあたる1994年には、初めて大極殿の基壇跡が地表下0.6mまで確認され、現在ではほぼその位置が明らかとなっている。

平成74



 

 

 

 

平安京の探索 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

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平安京ゆかりの地 66ヶ所

2019年01月20日 22時12分56秒 | 平安京

1  大覚寺(だいかくじ)  

   石仏右019  大覚寺 大沢の池 石仏群

   まち歩き右0673  大沢の池 大覚寺

   ポスター0062  大覚寺のみほとけ 

   寺院右0016-3  大覚寺 春季名宝展

   寺院右0016-1 大覚寺 (旧嵯峨御所)  玄関まで 

   石鳥居・大覚寺・大沢の池・天神社  31基

   大覚寺 寺号標

   石碑 中御所 址

   寺院右0016-2  大覚寺と大沢の池

   大覚寺の梅 

2  栖霞寺(せいかじ)

3  壇林寺(だんりんじ)

4  嵐山(あらしやま)

5  法輪寺(ほうりんじ)

6  松尾大社(まつおたいしゃ)

7  桂川(かつらがわ)

8  桂別業(かつらべつごう)

9  広沢池(ひろさわのいけ)

10 広隆寺(こうりゅうじ)

11 双ケ丘(ならびがおか)

12 法金剛院(ほうこんごういん)

13 仁和寺(にんなじ)

14 平野神社(ひらのじんじゃ)

15 北野天満宮(きたのてんまんぐう)

16 船岡山(ふなおかやま)

17 雲林院(うりんいん)

18 斎院(さいいん)

19 内裏(だいり)

20 豊楽院(ぶらくいん)

21 朝堂院(ちょうどういん)(八省院)

22 造酒院(みきのつかさ)

  平安宮018 平安宮造酒司倉庫跡 13  造酒司倉庫跡柱穴

23 朱雀門(すざくもん)

   平安宮017 朱雀門 17

24 右京一条三坊九町邸(うきょういちじょうさんぼうきゅうちょうてい)

   平安京006 旧 平安京右京三坊北辺並一条

25 朱雀院(すざくいん)

26 右京六条一坊五町邸(うきょうろくじょういちぼうごちょうてい)

27 西市(にしいち)

28 西鴻臚館(にしこうろかん)

  源氏物語遺跡26 西鴻臚館跡

29 西寺(さいじ)

30 羅城門(らじょうもん)

31 土御門殿(つちみかどどの)

  平安京004 土御門邸跡

32 高陽院(かやのいん)

33 冷泉院(れいぜいいん)

34 神泉院(しんせんいん)

      石碑中0187  神泉苑 東西端

35 東三条殿(ひがしさんじょうどの)

36 東鴻臚館(ひがしこうろかん)

37 東市(ひがしのいち)

38 河原院(かわらいん)

39 西八条第(にしはちじょうてい)

40 東寺(とうじ)

41 東堀川(ひがしほりかわ)

42 綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)

43 朱雀大路(すざくおおじ)

44 西京極大路(にしきょうごくおおじ)

45 一条大路(いちじょうおおじ)

46 東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)

47 九条大路(くじょうおおじ)

48 賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)

49 深泥池(みぞろがいけ)

50 賀茂川(かもがわ)

51 高野川(たかのがわ)

52 鴨川(かもがわ)

53 白川(しらかわ)

54 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)

55 法成寺(ほうじょうじ)

56 吉田山(よしだやま)

57 白河殿(しらかわどの)

58 得長寿院(とくちょうじゅいん)

59 法勝寺(ほっしょうじ)

  白河院・法勝寺 址・・・・平安時代

60 祇園社(ぎおんしゃ)

61 泉殿(いずみどの)

62 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

63 清水寺(きよみずでら)

64 蓮華王院(れんげおういん)

65 法住寺殿(ほうじゅうじどの)

66 鳥辺野(とりべの)

 


石碑 平安京・三条烏丸御所跡

2015年12月20日 11時52分40秒 | 平安京

 

 

三条烏丸御所跡

当該地は、平安京左京四条三坊九町跡に位置しています。この九町は、北側を三条大路、南側を六角小路、西側を室町小路、東側を烏丸小路により四方を画された一町(約120m四方)の中にあり後世には三条南殿三条烏丸御所ともしょうされてまいりました。中右記 や 長秋記 など平安時代後期貴族の日記によると、同九町の地は、三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり、後には、左大臣にまでのぼりせー権勢をふるった藤原実能の邸宅があったことが記されています。昭和62年度に財団法人京都市埋蔵文化研究所が株式会社千總の委託を受けて発掘調査を実施しました。この調査によって、平安時代に造られた島を伴う玉石敷の遺水(庭園などに水を導き入れるための設備)と大小の景石で構成されている庭園跡の一部及び建物の柱跡などを検出しました。これらの遺構は一町規模の寝殿造による邸宅の一角をなすものと見られ、各遺構からは瓦類や土師器、須恵器の他に釉薬を施した緑釉陶器、灰釉陶器などが多数出土しています。中には中国から輸入された青磁・白磁などの、上級貴族の所有を思わせるものも含まれています。寝殿造は日本の庭園及び建築史を研究する上で重要な位置をしめていますが、現存するものはなく、御所、平等院などにその様式をうかがえるにすぎません。この宸殿造とみられる邸宅の一端を発掘調査によって検出したことの意義は大きいといえましょう。

平成元年7月   株式会社 千總 、(財)京都市埋蔵文化財

 

 関連記事 ➡ 三條南殿の遺址  三条烏丸  源頼朝はここで働いていた


白河院・法勝寺 址・・・・平安時代

2015年07月28日 07時35分21秒 | 平安京

白河院並びに法勝寺跡

白河院はもと藤原良房の別荘 白河別業であり、藤原氏北家によって代々受け継がれてきたが、

藤原師実(もろざね)の時、白河天皇(1053~1129年)に献上され、

承保2年(1075年)白河天皇によってこの地に法勝寺が建立された。

法勝寺は尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺とともに六勝寺と総称された寺の一つで、

東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、

南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、

五大堂・八角堂・常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。

中でも、池の中島に建つ「八角九重塔」は高さ約80メートルの壮大な塔であったといわれている

文治元年(1185年)の大地震により、九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、

承元2年(1208年)には九重塔も落雷により焼失したが、

この時は栄西禅師が大勧進となって一部再建した。

しかし、康永元年(1342年)の火災により残る堂舎も焼失し、

その後、覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。

 

京都市指定名勝  白河院庭園

 

 

 

 

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