智弁僧正の墓
智弁とは諡号(しごう)で、正しくは余慶という。智証大師(円珍)門下の逸材として、第20代天台座主となり、また冷泉天皇皇后の帰依を得て観音院の開山となった。正暦2年(991)77歳で寂した。
前回の記事 ⇒ 墓所左009 藤原藤房 遺髪塔
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智弁僧正の墓
智弁とは諡号(しごう)で、正しくは余慶という。智証大師(円珍)門下の逸材として、第20代天台座主となり、また冷泉天皇皇后の帰依を得て観音院の開山となった。正暦2年(991)77歳で寂した。
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中納言 藤原藤房は南北朝時代 後醍醐天皇に仕えた建武中興の功臣であるが、建武元年(1334)10月、恩賞・雑訴決断所などの要職につく。しかし新政を批判、諫言したが容れられず宮中を出て、岩倉の不二房(大雲寺)に遁世した。出家した。その後諸国修行の旅に出る。
この地は大雲寺の掛所不二房の旧址とつたわり、藤房の遺髪塔(宝篋印塔)がつくられた。宝篋印塔の上部(相輪)は失われているが、塔は南北朝時代の典型的な石造宝篋印塔で。
傍らに、寛政2年(1790)に建てた藤房顕彰碑があるとのこと。
関連記事 ⇒ 石碑左0207 萬里小路 藤原公遺髪塔
墓所 前回の記事 ⇒ 墓所左008 源 義経 供養塔
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川上地蔵堂向かいに 義経公供養塔がある。
牛若丸が7歳から約10年間住んだ東光坊跡に、昭和15年(1940)に鞍馬山教団大阪信徒連合会有志者によって建立された。
川上地蔵堂は牛若丸(源義経公)の守り本尊である地蔵尊が祀られている。牛若丸はこの地蔵堂に参拝してから修行に出かけたといわれている。
関連記事 ➡ 義経・弁慶 伝説 源平物語
鞍馬寺 検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺
墓所 前回の記事 ➡ 墓上007 紫式部墓所・小野篁墓所
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2017年12月の記事
小野篁卿墓
遠裔 関係者でしょうか
石川県金沢市・・
東京府巣鴨・・・・ 建立
紫式部墓所
平成2年11月建立 京都洛陽ライオンズクラブ
紫式部墓
紫式部 顕彰碑
紫式部は、藤原為時を父として天延元年(973)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子と言った可能性が多い
祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼児より学芸にも親しみ、穎脱したその才能は夙に認められてゐた。長保元年(999)藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子を産んだが、
同3年、不幸にも夫を喪った。
寛弘3年(1006)頃、内覧、左大臣・藤原道長の長女で一條天皇の中宮として時めいてゐた彰子に仕へ、候名を父の官名に因んで式部と稱した。式部は侍講として中宮に漢文学を教
授する傍、「源氏物語」の執筆に励み、寛弘6年頃、この浩○な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。
寛弘7年頃には、日本思想史の上で稀有な虚無的人生観をめた「紫式部日記」を纏めあげた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院)の側近に仕へまた「紫式部集」を自撰した「源氏物語」は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
歿年については、長元4年(1031)とみなす説が有力である。「河海抄」その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院の塔頭の白毫院の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と傳えてゐるが、この所傳には信憑性が多い。「源氏物語」は、完成後、9世紀に亘って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は廣く海外でも知られ、「源氏物語」は續々と各国語に翻訳された。1964年、ユネスコは、彼女を「世界の偉人」の1人に選んだ。なお、紫式部の居宅は堤第と言ひ、平安京東部の中河に所在した。すなはち蘆山寺のある上京区北の邊町のあたりであるる。
また、一人娘の賢子は、後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙された。11世紀の勝れた閨秀歌人の大成三位とは、賢子のことである。
平成元年(1989)春
文學博士 角田文衛 撰
紫式部、ここに永眠すると聞く
この素晴らしい文化の国
日本の礎を築いた偉人に感謝し
いま追善供養のために
この紫式部顕彰碑を寄進して
報恩行の一つとする。
大阪府豊中市
近藤清一
石匠 山本康裕
小野相公 墓
漢字ばかりで
明治2年3月
加賀 横山政和 建 とある
2015年6月 の記事
墓所入口 堀川通りに面しています
紫式部
小野篁
左が 紫式部 右が 小野篁
紫式部 関連 ➡ 関連0012 紫式部 ゆかりの各地
小野篁 関連 ➡ 関連記事0013 小野篁 ゆかりの各地
墓所 前回の記事 ➡ 墓所滋006 智証大師 廟所
五七五
老武者と指やさゝれむ玉あられ /去来
ことわざ
燎原の火
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智証大師御廟 従是 東半町
昭和15年1月 建立
比叡山東塔に位置する智証大師円珍(814~91)の廟所
大正9年11月 建立
墓所 前回の記事 ➡ 墓下005 源為義 源頼朝の祖父
五七五
塔ひとつ痩身の師の影に似る /小島
ことわざ
薩摩守
源為義の墓
為義は世に六条判官とよばれ、源氏の棟梁であったが、保元の乱に敗れ、朱雀野において処刑された。この墓は権現寺の北にあったが、明治45年(1912)国鉄山陰線の敷設によって移された。
源為義の後裔と称する人が、貞享年間(1684~88)頃に建立した。保元の乱には崇徳上皇に加担し、後白河天皇の軍と戦って敗れた。乱後、捕えられ、息子の義朝の助命嘆願にかかわらず、処刑されたという悲劇的な人物であったので、後の世の同情を得るに至った。為義の塚が現在の中央卸売市場の地に当たることが、当時の絵に残されている。
本当の墓は円覚寺といわれている。現在の岡崎公園北部の地にあったといわれている。室町時代の頃には愛宕山の西麓の水尾に移された。水尾の円覚寺にある貞純親王塔の傍らには、源氏一族の供養塔といわれる石塔数基がある。いずれも岡崎の円覚寺から移したという伝承かある。
建立年 1912年
建立者 京都府
源為義(1096~1156)は平安時代の武将。保元の乱で崇徳上皇方に味方したが敗れ,長男義朝のもとへ降伏し『保元物語』によれば「七条朱雀」で斬首された。
「七条朱雀」すなわち千本七条附近(山城国葛野郡朱雀村)にあった塚と塔が為義の墓所であるという伝承を生み,江戸時代の地誌に記されることが多い。「源為義塔 按保元物語,源為義入道義法,於七条朱雀被斬首,則納円覚寺云々,今朱雀権現堂前竹林,塔之所存則古円覚寺之跡乎」(『雍州府志』巻十),「源為義の塚は権現堂の前[朱雀の六軒町といふ]民家の間にあり」(『都名所図会』巻四)などの記事がある。また『都名所図会』には18世紀中ごろの為義塚周辺を描いたさし絵を載せる。
しかし明治末からの梅小路貨物ヤード整備にともない,権現寺とともに現在地に移転を余儀なくされた。旧地は現山陰線軌道敷内,七条通より少し北の地点であろう。移建の経緯を記したのがこの碑である。現在は塔(五輪塔)および江戸時代初期に建立されたとみられる碑,本碑,および石標六条判官源為義公塚が権現寺門前の一区画に集められている。
源為義旧址在葛野郡大内村大字朱雀
小字堂口二十二番地石塔在焉明治壬
子官有京都停車場擴張之事其塔入域
内因移此地以保存焉旧址在東偏八十
壱度三十四分相距実百三十八間六分
因建石以表之
明治四十五年三月 京都府
建立年 1910年
建立者 高沢虎之助
六条判官源為義公塚
明治四十三年九月建之
広島県高田郡生桑村住人
高澤虎之助建之
平家物語 ➡ 義経・弁慶 伝説 源平物語
墓所 前回の記事 ➡ 墓伏004 元政上人御廟
五七五
ふるさとを 守ってくれる みかんの木 /坂根
ことわざ
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墓標は竹3本を植えてある簡素なもの。これは元政が胸を病んだ時、つねに竹の香を嗅ぎ、竹の葉のそよぎを聞いていれば、病は必ずなおるとの信念に基づいたものとつたえる。
この墓には古来縁切り祈願の信仰がある。それは元政が江戸に出て遊学中、吉原三浦屋の三代目高尾太夫と深くなじんで婚約までしたが、仙台の伊達侯が高尾に惚れ込み、彼女を自分のものにしようとしたが、彼女は元政に操をたてて承知せず、ために隅田川の隅田川の船遊びに際して切り捨てられたといい、元政は彼女の死をいたんで出家したのだといわれる。かかる巷談から縁切り祈願の信仰がうまれ、これを願う女は駒下駄をはき、上人の墓の周囲を竹ほうきで掃除をし、墓標の竹の葉一枚をもらって、相手の男の襟に縫い込んでおくと縁が切れるといわれる。
墓所 前回の記事 ➡ 墓伏003 日像 荼毘所
五七五
鯛釣って値段を店で確認す /内野
ことわざ
石橋を叩いて渡る(いしばしをたたいてわたる)
類・石橋に鉄の杖、念には念を入れよ、浅き川も深く渡れ
対・危ない橋を渡る
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日像は京都妙顕寺で没するが康永元年(1342)遺言により、ここで荼毘(火葬)に付された。今、参道に碑が立っている。また、日蓮、日朗の遺骨も納められたので、西身延、巽の霊山とも呼ばれている。
墓所 前回の記事 ➡ 墓山002 圓如上人 浄土真宗の僧侶
五七五
おみくじの文面だれが作るのか /明日香
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戦国時代の浄土真宗の僧侶。
本願寺第9世法主実如の次男、母は高倉永継の娘・如祐。
妻は叔父の願証寺住持蓮淳の娘・慶寿院。本願寺第10世法主証如の父。
父に先立って没したために歴代本願寺法主には加えられていない。
墓 前回の記事 ➡ 墓001 軍師 嶋左近 の 墓所
今日の俳句
捨石に 腰かけて瞰る 野路の秋 /草城
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