2017年12月の記事 (2017年1月撮影)
2015年5月の記事
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き右0674 でかい オブジェ
五七五
鶏頭の黒きにそゝぐ時雨かな /子規
京ことば アホクサイ 馬鹿らしい。「せっかく来たのに、閉まってるてアホクサイワ」
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ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0080 鬼切丸 別名 髭切 北野天満宮
五七五
化けそうな傘かす寺の時雨かな /蕪村
京ことば アジモ シャシャリモ ナイ 少しの味わいもない
「あんな言い方では、アジモシシャリモナイ感じドスナー」
平成29年のものです
ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0081 梅苑公開 梅花祭 北野天満宮
五七五
しぐるゝや我も古人の夜に似たる /蕪村
京ことば アテ わたし。 「アテかて知ってるワ」 ワテ、ウチ とも。
ポスター 前回の記事 ➡ ポスター0079 花飾り 日本に京都があってよかった
五七五
いそがしや沖の時雨真帆片帆 /去来
京ことば アジナイ まずい。食べ物がおいしくない。「アコのうどんはアジナイサカイやめとき」
京都工芸繊維大学 繊維学部発祥之地
わが国蚕糸業の重要性にかんがみ、政府は蚕糸に関する教育と研究を行わせるため明治32年6月葛野郡衣笠村のこの地に農商務省取管の京都蚕業講習所を創業したその後斯業の輸出産業としての飛躍的な発展に即応して大正3年文部省直轄の学校となり、校名を京都高等蚕業学校と改め次いで昭和6年京都高等蚕糸学校となった更に内外の進運の要請に応えて繊維に関する学科を充実増設し、同19年京都繊維専門学校と改稱 名実ともに繊維全般の学術研究及び教育機関としての威容を具現し昭和24年学制改革により京都工業専門学校と統合して大学に昇格し、京都工芸繊維大学繊維学部となった 同43年8月に校舎の整備拡充のため由緒深いこの衣笠のちから現在の洛北松ヶ崎に移転した。創立以来実に70有余年を経、その間8千名の優れた人材を広く社会に送り出した歴史と功績に輝く母校誕生の地を 永く後世に伝えるため ここに往時の学び舎の面影をしのびつつ 碑文を刻んで記念とする。昭和53年3月建立
京都工芸繊維大学 衣笠同窓会
隣に次の石碑がありました
皇后陛下御野立所
大正8年5月21日
石碑 前回の記事 ➡ 石碑下0146 東鴻臚館跡
五七五
鳶の羽もかいつくろひぬ初しぐれ /去来
京ことば アカル (雨が)止む 「雨がアカル」
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き右0672 嵯峨野にかかる虹
五七五
凩や岩に取りつく羅漢路 /漱石
ことわざ
宵っ張りの朝寝坊
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大沢の池の北岸、護摩堂の横に、20体近い石仏群がならんでいます。比較的大型の7体の石仏は鎌倉中期の造立と思われる古石仏で、
嵯峨野の石仏では有名です
石仏 前回の記事 ➡ 石仏左018 疏水べりの石仏・哲学の道
五七五
こがらしやから呼びされし按摩坊 /一茶
ことわざ
欲の熊鷹股裂くる
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嵯峨の細みち
登りみち
昭和46年 上田・・建立
道標 前回の記事 ➡ 道標北0145 狐篷庵前
五七五
凩や何に世渡る家五軒 /蕪村
ことわざ
横紙破り
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圓山陵墓参考地
古墳の入口
古墳 前回の記事 ➡ 古墳右14 入道塚陵墓参考地
五七五
こがらしやひたとつまづく戻り馬 /蕪村
ことわざ
横槍を入れる
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入道塚 陵墓参考地
どうも 古墳ということです
古墳 前回の記事 ➡ 古墳右13 狐塚古墳
五七五
木がらしの空見直すや鶴のこゑ /去来
ことわざ
世は相持ち
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玄室長3.8m、幅2.3mで、奥壁は3枚で高さ3m。
現在は床が埋まっており高さ2mとなっている。
石棺は現在も埋まっている。
秦氏の古墳。
大覚寺古墳群 4号墳とも言う。
古墳 前回の記事 ➡ 古墳右12 古墳時代の出土物 獣脚硯
五七五
木枯や竹にかくれてしづまりぬ /芭蕉
ことわざ
世は情け
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