アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石仏左030  蹴上  大日如来  義経が関係しているのか

2018年07月31日 06時19分56秒 | 石仏

 

蹴上は三条通の日ノ岡峠(山科区)にかかる上り口、市営蹴上浄水場より日向大神宮の石鳥居前一帯をいう。三条白川橋より山科・大津に至る国道筋にあたり、昔は京都の玄関口であった。

ここが蹴上と呼ばれるようになったのは、安元3年(1177)の秋、牛若丸は金売吉次にともなわれ、奥州へくだる途中、たまたまここを通りかかった平家の武士、関原与市重治の馬が、水溜りの水を牛若丸に蹴りかけた。牛若丸はその無礼をとがめて争いとなり、与市を斬り捨てたという。それよりここを蹴上と呼ぶようになった。と伝わる。

この時斬られた与市主従9人の菩提を弔うために、石仏9体を安置した。そのうち3体がこの石仏といわれる。

一説には、粟田口刑場で処刑された人々の菩提を弔うために安置されたものともみられている。

石仏 前回の記事 ➡ 石仏北029  那智観音 深泥池

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寺院左0491  西福寺 浄土宗

2018年07月30日 06時38分09秒 | 寺院

 

関連記事 ➡  寺院東0380  西福寺  子育地蔵尊

           道標伏0077  西福寺 道標

           寺院伏0223  西福寺  浄土宗   光厳天皇ゆかりの寺

           蔵のある風景  176回  西福寺 付近

           西福寺   浄土宗西山禅林寺派

           西福寺 真宗 大谷派

           

寺院 前回の記事 ➡ 寺院左0490 岩倉 実相院


まち歩き左0831  叡電  岩倉駅 付近

2018年07月29日 07時38分30秒 | まち歩き

間もなく 岩倉駅  2両編成

 

叡電関連 記事 ➡  まち歩き左0623 北大路通を横切る 叡電

              まち歩き左0622 疏水分線  大原田橋

              まち歩き下0499 梅小路公園の市電 昔の市電の写真

              道標  修学院・叡電

              叡電 出町柳駅

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き左0830  蔵の紋 印鑑みたい 実印かな 岩倉で


まち歩き左0830  蔵の紋 印鑑みたい 実印かな 岩倉で

2018年07月27日 05時40分08秒 | まち歩き

 

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き左0829 岩倉 土塀の町並み

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愛宕燈籠059 岩倉中央町  と 地蔵尊左044 延命地蔵尊

2018年07月26日 05時48分32秒 | 地蔵尊

愛宕神社と記されています

関連記事 ➡ 愛宕燈籠 一覧  

地蔵尊 前回の記事 ➡ 地蔵尊左043  川上地蔵尊  牛若丸  鞍馬

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史跡左036  岩倉具視 旧邸 

2018年07月24日 07時05分36秒 | 史跡・旧跡

文久2年(1862)9月から慶応3年(1867)までの5年間、明治維新に功績のあった岩倉具視が幽棲したところである。昭和7年3月、「史跡」に指定された。具視は、幕末の騒乱に際して公武合体を進め、皇女和宮の将軍家降嫁に辞任緑したが、倒幕急進派の弾劾を受け、文久2年9月官職を辞し、西賀茂霊源寺で剃髪し、ここに蟄居した。慶応3年には維新運動の中心になって活躍し、のち明治新政府の右大臣になった。

現在、幽棲旧宅、文庫、管理人宅の3つの建物がある。旧宅は西北にあって平屋建茅葺と瓦葺の2棟からなる。茅葺は玄関座敷で約60㎡、瓦葺1棟は居間勝手等で約74㎡、具視幽棲時の旧態をしのぶことができる。旧宅の東側にある文庫には具視関連の品々を陳列している。庭前には具視の遺髪塚とお手植えの松がある。

 

 

 

 

隣雲軒

元治元年(1864)、大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入して主屋を増築したのがこの旧宅です。岩倉具視は元治元年から

慶応3年(1867)11月までの約3年間、この旧宅で暮らしていました。昭和7年(1932)に東伏見周子(岩倉具視の孫)が「隣雲軒」と扁額に揮毫して名付けました。なお、旧宅正面の庭は昭和3年(1928)10月の建物修復の際、庭園手入として7代目小川治兵衛が関わっていることが近年明らかになりました。

1862年6月12日(文久2年5月15日)、岩倉具視は左近衛権中将に転任した。前年10月の和宮東下の功績によります。岩倉にとってのこの世の絶頂の瞬間です。しかし岩倉の明治以前の出世はここで止まり、この後、暗殺の予告を避けるために11月4日(9月13日)には洛中を出て、霊源寺、西芳寺と移り住み、ここ洛北岩倉へ辿り着くことになります。

対岳文庫

洋館を入った所の展示室の扉の上に「対岳文庫」と書いた扁額があります。対岳文庫設置の翌年の昭和4年春に岩倉具視の孫である東伏見宮周子が揮毫したものです。対岳文庫では「岩倉具視の生涯」や「岩倉家の人々」などの資料を展示しております。

 

関連記事 ⇒ 人物046 岩倉槇子

史跡前回の記事 ➡ 史跡左035  千人塚 大文字山


寺院左0490 岩倉 実相院

2018年07月23日 07時29分30秒 | 寺院

2018年11月12日  画像追加


 

2018年7月23日 

寺院内の 石仏

岩倉山と号し、もとは天台宗寺門派(三井寺)に属する門跡寺院であったが、今は単立寺院となっている。

鎌倉時代初期の寛喜元年(1229)鷹司兼本の子静基僧正の創建。はじめ北区紫野上野町にあったが、のち上京区実相院町に移り、応永18年(1411)義運僧正のときに岩倉大雲寺の塔頭成金剛院の現在地に三転した。その後兵火で罹災したが、寛永年間(1624~44)、足利義昭の孫、義尊僧正に至って復興された。その後、後西天皇皇子義延・伏見宮邦永親王の子義周各法親王が相次いで入室されるに至って寺運は隆昌し、岩倉門跡、実相院門跡と称される名刹になった。

客殿・御車寄など、東山天皇の后、承秋門院の死去に際し、大宮御所の建物を賜ったもので、現存する数少ない女院御所といわれている。寺宝には、後陽成天皇宸翰「仮名文字遣」(重文)、後水尾天皇宸翰「忍」他、狩野永敬をはじめとする狩野派による襖絵を多数蔵する。

関連記事 ➡ 実相院門跡展

         実相院門跡展 幽境の名刹  於*文化博物館

         岸駒居住地  石碑

寺院 前回の記事 ➡ 寺院北0489 心光院 浄土宗

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寺院左0489 心光院 浄土宗

2018年07月20日 06時00分44秒 | 寺院

 

紫雲山と号する浄土宗知恩院派の尼寺で、正保2年(1645)の創建。本堂に安置される本尊阿弥陀如来、両脇侍坐像(重文・鎌倉時代)は、大原三千院の来迎仏と同じく、中尊は来迎相の阿弥陀如来で、半丈六の巨像、脇侍の観音・勢至はやや小さく三体とも寄木造り、藤原末期の様式を伝えている、脇侍は鎌倉末期の作とみられる。

拝観謝絶 とある

石仏

寺院 前回の記事 ➡ 寺院左0488 天授庵  南禅寺塔頭

 


まち歩き北0829 岩倉 アオサギがいました

2018年07月18日 07時05分37秒 | まち歩き

エサを探しているのでしょうか

アオサギ  関連記事  ➡  まち歩き東0716 祇園・巽橋のアオサギ

  高野橋からの眺め 

  葵祭  昔の写真  葵橋で

  高野川の鳥

  川の鳥風景  南区

  山科 琵琶湖疏水 トンネル出口 本日水量 少な目

  鳥を撮影するのは難しい

  眺めのよい広沢の池 アオサギが休息中

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き北0828 岩倉からの比叡山の眺め 近くに見える

  


まち歩き北0828 岩倉からの比叡山の眺め 近くに見える

2018年07月17日 06時07分30秒 | まち歩き

山頂から 左の尾根のへこんだところが 玉体杉のあるところ

山頂から ロープウェイの路線が見える

 

関連記事 ➡ 玉体杉  まち歩き左0763 比叡山 玉体杉

          ロープウェイ  まち歩き左0735 叡山ロープウェイ 見上げる 歩きました

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き北0827 深泥池 天然記念物