京都 大原の里
この日は 平成28年12月5日
あの奥が 大比叡 三角点
琵琶湖 沖ノ島 が見えます
京都 大原の里
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0578 比叡山 ケーブル駅
五七五
都大路 青竹きしむ 辻回し /小林
ことわざ
千石万石も米五合
京都 大原の里
この日は 平成28年12月5日
あの奥が 大比叡 三角点
琵琶湖 沖ノ島 が見えます
京都 大原の里
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五七五
都大路 青竹きしむ 辻回し /小林
ことわざ
千石万石も米五合
この日 平成28年12月5日 ~ 冬季 運転休止になる
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0577 京都一周トレイル 東山コース 74 眺望がよい
五七五
夫婦なら誤解はいずれ氷解す /山田
ことわざ
豆腐に鎹
京都 市街地 北部 一望
中央の森は 京都府立植物園
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0576 京都一周トレイル 東山コース ビュースポット
五七五
都大路 豪華絢爛神宿る /藤山
ことわざ
敵は本能寺にあり
やどり地蔵
子宝授かる「願かけ地蔵」
「やどり地蔵」が作られたのは鎌倉時代といわれている。
「やどり地蔵」の名前の由来は願を掛けると子供が宿るということから宿る地蔵(やどる地蔵)が「やどり地蔵」となったと言い伝えられている
地蔵尊 前回の記事 ➡ 地蔵尊東036 北向地蔵尊
五七五
買い込んだ健康器具は押し入れに /的場
ことわざ
背水の陣
千種忠顕御戦死之地
千種忠顕(?~1336)は,後醍醐天皇(1288~1339)の信任厚く,建武政権では従三位参議,三カ国の国司に補任された。足利尊氏(1305~58)の攻略により政権が瓦解すると,忠顕は足利直義(1306~52)軍と比叡山麓西坂本で戦った。延元元(1336)年6月7日,千種忠顕が戦死した地
卿ハ六条有定ノ子ニシテ夙ニ後
醍醐天皇ニ奉仕ス資性快活ニシ
テ武技ヲ好ミ頗ル御信任ヲ蒙レ
リ元弘元年討幕ノ謀露レ天皇笠
置ニ潜幸シ給フニ当リ卿之ニ扈
従シ城陥リテ天皇六波羅ニ移サ
レ給フニ及ビ卿亦敵ニ捉ヘラレ
シモ特ニ左右ニ近侍スルヲ許サ
ル後天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ
密ニ恢復ヲ図リ元弘三年天皇ヲ
伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝
ヘテ義兵ヲ起サシメ又自ラ兵ニ
将トシテ六波羅ヲ攻メテ之ヲ陥
レ神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ尋デ北
条氏亡ビ車駕京都ニ遷幸アラセ
ラルルヤ卿之ガ先駆タリ天皇厚
ク其首勲ヲ賞シ給ヒ従三位ニ叙
シ参議ニ任ゼラル中興ノ政治参
■スル所亦多シ既ニシテ足利尊
氏大挙シテ京都ヲ攻メ天皇延暦
寺ニ幸シ給フ尊氏弟直義ヲシテ
兵ヲ進メテ行在ヲ侵サシム卿之
ヲ西坂本ニ拒ギシモ利アラズ終
ニ此地ニ戦死ス時ニ延元元年六
月七日ナリ大正八年兵功ヲ追賞
シテ従二位ヲ贈ラル
大正十年五月
文学博士三浦周行撰並書
久我 通久 書
大正10年5月 建立
石碑 前回の記事 ➡ 石碑左0125 浄殺結界跡 と 石仏
五七五
元気かないつも話題にのぼるひと /本西
ことわざ
笑う門には福来る
左の森は 下鴨神社 右方の森は 府立植物園
手前の森は 下鴨神社 奥の 森は 京都御所 その奥は 二条城
国際会議場
山道に こんな大きな石が ありました
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0570 京都一周トレイル 東山コース 70
五七五
山ガールに道を譲ってひと休み /毛利
ことわざ
藪から棒
京都市街 北部
左の森は 府立植物園
左の丸い建物あたりは 国際会議場
遠くの山は 愛宕山
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0568 京都一周トレイル 東山コース 69
五七五
身の丈の暮らしに和む箸二膳 /中村
ことわざ
後生が大事