アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

大宮姫命稲荷大神  めずらしい名称だ

2015年05月31日 22時22分07秒 | 神社

 

鳥居は昭和46年建立

『新撰京都名所図会』によると貧乏稲荷と称されたと伝わる

 

大正10年 記念   昭和 46年 改修

 

大正12年7月建立

 

末社に相当

 

こちらが 本殿に相当

 

鉄パイプで補強されています       

 

 

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町内の国旗掲揚のための石柱

2015年05月31日 06時06分08秒 | まち歩き

戦前のものです、よく見慣れた石柱です 

残っていますここの理髪店が残しているのでしょう

 

国旗の掲揚の方法 参考

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茶屋四郎次郎邸宅跡 石碑

2015年05月30日 14時53分20秒 | 石碑

 

 京の豪商茶屋四郎次郎は,六代まで中京区新町通蛸薬師下るに居を構えてました,

宝永5(1708)年の大火によってこの地に移転しました。

この地は,初代清延(1545~96)が徳川家康に仕えた際に,屋敷地として与えられたものです。

邸宅跡を示すものです。なお,この附近を茶屋町といいます。

 

11月8日 追加

茶屋四郎次郎屋敷址

現在、近畿農政局の敷地となっているこの地は、近世以降将軍家の呉服師として

徳川幕府とむすびつき、また京都の町人頭として栄えた茶屋家代々の屋敷址です。

家康に従い戦陣に出ること53回もあった。三方原の合戦、長久手の役などで奮戦した。

はじめ屋敷は中京区新町蛸薬師下ル東側、百足屋町にありましたが、

慶長の頃、家康からこの地を賜りました。

小川通に面して40間5尺の間口(約75m)があり、奥行きは17間4尺(約32m)、

中程の一部は裏の西洞院通上舛屋町(現丁字風呂町)にまで及び、千坪近い広さであった。

茶屋は屋号で本姓は中島といい、代々四郎次郎を名乗った。

初代清延以来、清忠・清次と続いた。その間、海外貿易にも手を広げ、

業名は遠く万里の波濤にまでとどろいたが、

寛政年間(1789~1801)十代目延因に至って、寛政12年(1800)3月、

幕府へ納める呉服物の価格で御納戸頭衆のカンにさわり、

呉服御用差留め(文化4年、1807年禁を解かれた)の命を受けて以来、

すでに貿易の利を失っている茶屋家は衰微の一途を辿り、

家運は衰退し、明治維新に至って没落した。

墓は洛東、東大谷の墓地内にある。

 

かつては、本阿弥光悦とも親交があったことから、

光悦の隣家に邸を構えたといわれるが、今は跡形もない。

 

関連記事 ➡   茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡


BABY METAL の チケット 確保できなかった

2015年05月30日 11時25分46秒 | 日記

本日 5月30日 10時 発売の 6月21日 幕張メッセの 公演

セブンイレブン  チケットぴあ で 10時に操作し チケット購入しようとしたが

なんと  「空席なし」 で 返ってきた  どうなってんだ

 


昌福寺  乾三十三所 第七番

2015年05月30日 02時08分45秒 | 寺院

標柱は大正 甲子年 建立

 

元禄7年の製造です(1694年)

 

地蔵尊の名は不明でした

 

個性的な字体です

 

乾33所 第7番

 

素朴な石仏  墓所は別な所にあるのですが

 洛陽48願所地蔵尊 ➡ ジャンプ

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本隆寺・・・火災に耐え抜いた

2015年05月30日 00時23分01秒 | 寺院

二度の火災からも延焼せず、焼けず寺といわれました

 

西陣五井 「千代野井」  、「夜泣止の松」  が名高い

 

 

 

 

鐘楼

 

 

南門

 

門の扉にある紋

 

本堂です

 

西陣五井の一つ  「千代野井」

今は使われていない

 

焼けずの寺の石碑

二度の大火に耐えた

 

 

番神堂

石鳥居は明和二年(1765年)建立

石灯籠は元禄年間(1688~1704)の建立

 

経蔵

 

こちらも経蔵

 

祖師堂

 

夜泣止松の説明駒札

 

 

夜泣止松

 

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