関連記事 ➡ まち歩き東0382 伏見人形 丹嘉
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0401 疏水と京阪電車
五七五
ポックリと逝くのは良いが風呂場イヤ /山田
ことわざ
韋編三度絶つ(いへんみたびたつ)
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五七五
ポックリと逝くのは良いが風呂場イヤ /山田
ことわざ
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石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0109 薩摩島津伏見屋敷跡 坂本龍馬・寺田屋事件・逃避先
五七五
美術館一人で来れば良かったな /寺田
ことわざ
井の中の蛙大海を知らず
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平成28年10月31日 撮影
花 前回の記事 ➡ 花滋賀007 小関越えから下りてきて京都で出会った道端の花
五七五
来世は子はそのままでちがう夫 /憤ママ
ことわざ
命は宝の宝
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0400 疏水と橋 相深橋
五七五
不景気は貧乏だから分からない /迫
ことわざ
命ながければ恥多し
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疏水 相深橋 16m 幅2.3m RC橋
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0399 疏水と橋 横縄橋
五七五
仏壇の花はどうしてこちら向き /晶三
ことわざ
犬の川端歩き(いぬのはわばたあるき)
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横縄橋 大正12年8月
伏見区深草上横縄町 深草緯16号線
長さ 16m 幅 2.3m RC橋
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0398 伏見稲荷大社 参道
五七五
栄転も左遷もなくて畑仕事 /福沢
ことわざ
犬が西向きゃ尾は東
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子育て地蔵尊の由来
今は昔、1890年明治23年(京都府紀伊郡伏見深草村)当地にて、琵琶湖疏水の工事中、水田幸次郎氏(現水田治良次氏の厳父)の所有地から石のお地蔵様4体が発掘され、驚いたり有り難がったりで祓い清め、当町に寄贈され当町内会としても手厚く迎え入れ、当町並びに近所の子供の無病息災を祈り、ここに安置するものです。
東一の坪町自治会
地蔵尊 前回の記事 ➡ 地蔵尊伏034 伏見区 深草 榎木橋町
五七五
徒歩出勤 抜きつ抜かれつバスが行く /水戸っぽ
ことわざ
田舎の学問より京の昼寝
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新熊野神社の「梛」のいわれ
当社は古来「梛の宮」ともいわれ、梛(椥とも書く)の名所である。ナギはイヌマキ科の常緑樹。雌雄異株で、葉は多くの縦脈からなり、容易に切れにくいため、縁むすびの樹といい、また実は2つ並んで仲よく実るところから、夫婦円満の目出度い樹とされている。歌聖、藤原定家(鎌倉初期の人)は「千早振る遠つ神代の梛の葉を切りに切りても祓いつるかな」と詠っているように、ナギは罪穢、災禍・病魔などをナギはらう霊験があると信じられ、熊野詣などには、道中安全のお守りとした。またナギは朝凪・夕凪のナギから安全・無事を守り、平和と幸福を招来する霊樹といわれている。
本殿 大樟
現在の本殿は、寛文13年(1673)に造営されたものである。
新熊野神社は、後白河院によって法住寺殿が造営されたとき、その鎮守社として新日吉社とともに、永暦元年(1160)に勧請されたことに始まります。
当社所蔵の「古今熊野記禄」には「遷宮之礼」として、寛文13年(1673)6月、延宝9年(1681)6月27日、正徳4年(1714)10月11日、享保14年(1714)12月25日の年号を記しています。
また寛文12年7月7日付けで普請を許可する記載も見えています。現本殿は、向拝や一部の細部等は江戸時代中期以降のものと見られるものの、内部は古風で、また規模も寛文の記載とほぼ同じであることから、寛文13年に造営された後、延宝9年、正徳4年、享保14年に修理が加えられたものと考えられます。
本殿は桁行3間、梁行1間の入母屋造、妻入で正面に向拝1間を付け、内部は正面通り1間の外陣とその奥2間の内陣に分かれてます。この本殿は、構造形式・平面構成ともに熊野本宮証誠殿と同じで、全国的に見ても、また京都においても他に類例が少なく、さらに熊野本宮証誠殿よりも古いことからも評価されます。
絵馬 八咫烏
狛犬
新熊野神社 ➡ 神社東0093 新熊野神社 6
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0087 お産場稲荷社
五七五
なんにでもなれそうだった若きころ /赤とんぼ
ことわざ
いつも月夜に米の飯
稲葉根王子と荼枳尼天
稲葉根王子は、稲荷神とも稲荷神の姿をした金剛童子とも言われている。稲荷神は東寺の守護神で伏見稲荷大社の御祭神です。東寺の守護神とは土地の守り神、稲を背負っていることから豊穣を約束する神というのが本来の意味だが、現在では商売繁盛の神として信仰されている。荼枳尼天は自由自在の通力を有し、六ケ月前に人の死を知り、死ぬまでその人を加護する仏というのが本来の意味。それが転じて、現在では延命長寿と旺盛な生命力を授ける仏として信仰されている。ちなみに、お稲荷さんの狐の根拠は荼枳尼天の乗り物にある。
熊野三山の「土と梛」の八百年ぶりの対面
後白河上皇は、八百有余年前、紀州国(和歌山県)の熊野三山をこの地に勧請して、現在の新熊野神社をご創建になった。その際上皇は、熊野より土砂、材木、一本一本に至るまで運び、社域を造営し、熊野をこの地に再現されたといわれる。
その昔を物語る生き証人は、上皇お手植えの大樟のみである。
去る昭和63年8月18日、和歌山県観光協会(会長同県知事)主催により「熊野詣再現セレモニー」が、当社で行われた。その節、当社草創の昔を偲び、熊野三山より「土と梛」が運ばれ、大樟さんと八百年ぶりの対面式が行われた。その熊野の土をここに納め、その梛を植樹して、記念とした。
ご神木「梛」の記念植樹
昭和55年庚申年3月17日 満20歳の成人式を挙げられた浩宮徳仁親王殿下は、格別のおぼしめしを以って、当社へご参拝になった。その記念として樹齢20年の「梛の木」を植樹した
新熊野神社 ➡ 神社東0092 新熊野神社 5
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0087 お産場稲荷社
五七五
久しぶりすぎて分からぬこれ恋か /中川
ことわざ
いつまでもあると思うな親と金
本町通から 参道を見る 参道脇に 店が並んでいます
昭和23年12月 建立
神幸道
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0397 野外作品 「仲良し」
五七五
うす目開けどちらの世界かまず確認 /岡
ことわざ
一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う
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文覚荒行(平家物語巻5)
文覚上人は高尾の神護寺を再興した高僧で、俗名を遠藤盛遠と言う。故あって19歳で出家し、那智の滝での荒行は現在でも語り草となっている。あまりの荒行に息絶えた文覚を再び蘇らせたのが、不動明王の命を受けた矜羯羅童子と制多迦童子で、不動明王の守護を得た文覚は、その後も全国の霊地で修業を重ね、やがては祈祷で飛ぶ鳥も落とす「刃の修験者」と呼ばれるようになった。不動明王は煩悩のに悩み苦しむ衆生を見て怒っている。その煩悩を炎で焼き尽くすのが不動明王の役割、焼き尽くした後に残る焼き殻を取り除き、心を清浄に保つのが神の役割。これを神道では禊祓と言い、神と仏が一体となって迷える衆生を救済する。ここに神仏習合の1つの形を見ることが出来る。不動明王(仏) 矜羯羅童子・制多迦童子(神)の逸話は、その思想を物語化したのであろう。
八咫烏
八咫烏は日本神話に登場する三本足のカラスで、神武天皇を樫原宮(即位された)に導いた熊野の神の化身です。三本足鳥伝説は世界各地にあり、いずれも太陽信仰と結びつけて「幸運を呼ぶ鳥」というところにその共通点がある。日本サッカー協会が八咫烏をシンボルマークにしたのは、神武天皇を樫原宮に導いたように、ジャパンをワールドカップに導き、優勝させていただきたいという願いが込められているからです。これらのことから八咫烏は「目標達成の神」「勝利をもたらす神」「幸運をもたらす神」とされている。また、熊野では「身代りお烏さん」といって、我が身に代わって不幸や災難を引き受けてくれる烏神としても信仰されている。
発心門王子と梵天 滝尻王子と帝釈天
発心門王子は人々を熊野信仰の世界に導く案内神、滝尻王子は聖域熊野の入口を守護する神。これが転じて発心門王子は「心願成就の神(心の守護神)」、滝尻王子は「悪霊退散・家内安泰の神(家庭の守護神)」として信仰されてきた。ちなみに発心門とは仏法の入口という意味です。梵天はプラフマーの、帝釈天はイントラの中国語訳で、どちらもヒンドゥー教の神です。仏教ではヒンドゥー教の神々を仏・菩薩に対して「天」と呼び、仏法を守護する神と位置付けているが、その中でも梵天と帝釈天は仏法の二大護法善神とされている。ブラウマ―はヴィシュヌ・シヴァと並ぶヒンドゥー教の最高神で宇宙の創造神。インドラは雷を操る雷神で、阿修羅と戦ったことから武勇の神としても崇められている。
熊野本宮八葉曼荼羅
熊野は神仏習合発祥の地であり、修験道や山岳信仰の聖地でもある。熊野本宮八葉曼荼羅には、その熊野信仰の世界が描かれている。曼荼羅の上部には「役行者と八大童子」、つまり修道験の世界が、中央には熊野12所権現を始めとする熊野の神々が「仏の姿」で、下部には五体王子(藤代王子・切目王子・稲葉根王子・滝尻王子・発心門王子)を始めとする熊野の諸王子が、鬱蒼とした大自然と溶け合って同居している様子が描かれている。また、熊野本宮八葉曼荼羅の左にあるのは八葉の諸仏・諸菩薩を梵時に置き換えたもので、これを梵字曼荼羅という。
新熊野神社 ➡ 神社東0091 新熊野神社 4
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0087 お産場稲荷社
五七五
大丈夫ガッカリするの慣れているわ /本間
ことわざ
一斑を見て全豹を卜す(いっぱんをみてぜんぴょうをぼくす)
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花の窟神社(はなのいわとじんじゃ)
熊野にあるイザナミ命の埋葬地・日本最古の神社
花の窟(はなのいわと)
花の窟は三重県熊野市有馬にあり、日本書紀にはイザナミ命の埋葬地と記されている。現在は切り立った大岸壁の前に鳥居が建っているに過ぎないが、熊野信仰の原点ともいえる場所である。春と秋には例大祭りが行われ、その時には長さ170mの〆縄が張られ、そこに季節の花や果物・扇などが吊り下げられる。イザナキ・イザナミ命と言えば国造り神話であろう。ここでは表面にその光景を描くことで、当社の主祭神イザナミ命の神格を記している。
熊野三山
本宮は熊野川と音無川が合流する地点の中州にあった。そこを大斉原というが、明治22年の洪水で社殿が流出したため、現在地に移築された。大斉原の入口には現在でも日本一の大鳥居が建っており、往時を偲ばせる。那智山一帯は滝を御神体とする自然信仰の聖地で、そこには大小60余の滝がある。そのうちの48滝(那智48滝)が滝篭修行の行場として使われていた。元々は、この48滝を総称して「那智の滝」と呼んでいたが、現在では、このうちの「一の滝(那智大滝:
落差133m)」を「那智の滝」と呼んでいる。
速玉を新宮と言うが、これは熊野の新宮ではなく、元々は熊野川の河口、神倉山の山頂にあった。現在でも神倉神社としてその名を留めているが、神倉神社が速玉の本宮、それが現在地に下りてきたため新宮と呼ばれるようになった。ここでは速玉の火祭りを描いており、天上から降りてきた神の御霊が熊野灘の彼方(浄土)に帰っていく様を描いている
新熊野神社 ➡ 神社東0090 新熊野神社 3
神社 前回の記事 ➡ 神社伏0087 お産場稲荷社
五七五
朝が来ただれも自分の新記録 /このて
ことわざ
一敗地に塗れる(いっぱいちにまみれる)
伊保重一 さんの作品
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0396 疏水と下板橋
五七五
母と妻もめて私はギター弾く /見返り文人
ことわざ
一頭地を抜く(いっとうちをぬく)
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