この寺はもともと寺子屋のようなものであったが、しだいに信者が集まるようになり開基となる。
その後宝暦8年(1785)に寛住法師がお堂を建て現在にいたる。
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この寺はもともと寺子屋のようなものであったが、しだいに信者が集まるようになり開基となる。
その後宝暦8年(1785)に寛住法師がお堂を建て現在にいたる。
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西福寺は、上狛環濠集落内の磯垣内に所在する念仏山浄雲院の山号を持つ寺院です。
創建については、不詳でありますが、永禄3年(1560)に僧道春が中興したと伝えています。
西福寺には山城国一揆を組織した国人衆の一人である狛山城守秀の子孫と考えられる
狛佐馬進秀綱肖像画が残されています。
天正12年(1584)4月9日の狛秀綱の没年月や「常雲禅定門」の戒名裏には狛佐馬進源綱之遺像などの墨書があり、
天正12年に35歳で没した狛秀綱の死後に描かれた肖像画であることが確認されています。
秀綱は織田信長に仕官し、その配下として上狛における地位や勢力の拡大を図ったとみられる人物で、
狛弁財天社の再興も行ったと考えられています。
当寺には、秀綱の肖像画とともに彼の位牌も現存する他、上狛惣墓から発見された墓石も境内に安置されています。
また、11世紀の製作とみられる聖観音立像や
12世紀に制作された阿弥陀如来立像・本尊、不動明王立像の他、
天文14年(1545)の台座銘を有する地蔵菩薩立像を所蔵しています。
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鎌倉時代の石造物
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浄土宗 知恩院派
大永元年(1521)村人の要請で建立され開基となる。
天正7年(1579)焼失するが、慶長2年(1597)信誉上人により再建される。
安政6年(1859)には、荒れた寺を雷雨上人が中興する。
大正12年(1923)に現在の建物を建立し現在に至る
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院木津川0776 浄光山 西音寺
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創立 文亀2年(1502年) 浄土宗 知恩院派
元禄3年に阿弥陀如来を寄進される
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院井手0775 浄土宗 知恩院派 高倉山 阿弥陀寺
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創立者 僧円輪
度々の水害により資料は流失したが、言い伝えによると創立は奈良時代といわれている。
平安時代末期に後白河法皇の第2皇子、高倉以仁王の菩提寺であったともいわれています。
この以仁王は治承4年(1180)も平家討伐のため全国の源氏に挙兵の令を発したが
平家の大軍におされ南部に逃げる途中、光明山寺の鳥居の前で平家の追手に殺されたという。
この以仁王の死を偲んで刻んだ石仏が現在も、寺の境内に祀ってある。
関連記事 ⇒ 陵墓府021 以仁王 神社府0108 高倉神社
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勝林院
魚山と号する天台宗の寺院。円仁(慈覚大師)が唐から持ち帰り、比叡山に伝承した法儀声明の修練道場として、
弟子の寂源が長和2年(1013)に創建し、後に天台声明の根本道場となった。
声明とは、インドで始まったバラモンの学問の一つであるが、
日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。
文治2年(1186)に、天台宗の顕真が浄土宗祖の法然を招き、
専修念仏について論議した「大原問答」が行われた所でもある。
伝説では、その際に、本尊の阿弥陀如来が手から光明を放って念仏の衆生済度の証拠を示したといわれ、
本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれた。
本尊を安置する本堂は、鐘楼とともに、京都市の有形文化財に、
また、創建当時の梵鐘と境内東側の石造宝篋印塔は、国の重要文化財に指定されている。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院左0771 実行院
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来迎院
魚山と号する天台宗の寺院で、仁寿年間(854~854)に円仁(慈覚大師)が、
唐で学んだ梵唄(梵語の仏教歌謡)などの声明の修練道場とし創建したものである。
声明とは、インドで始まった学問の一つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、
仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。
その後、平安時代末期(1094年)に、融通念佛の開祖・良忍が再興して、円仁に始まる声明を大成した。
この声明は、魚山流と呼ばれ、以後、天台声明の根本道場として栄えた。勝林院と並ぶ声明音律の中心となした。
応永33年(1426)火災によって堂舎を焼失したが、永享年間(1429~41)に再建され、
さらに天文年間(1532~55)に改修したのが現在の建物です。
本堂には、藤原期の薬師・阿弥陀・釈迦三尊仏(重要文化財)を安置し、
寺宝として、伝教大師の得度や受戒に関する文書三点を一巻とした伝教大師度縁案並僧綱牒(国宝)などを蔵するが、
現在は東京国立博物館に寄託している。
山道をさらに約二百メートル上がった所には良忍が声明を唱えていると、
声明の音律と融合して水音が消えたといわれる音無しの滝がある。
本堂内中央に薬師・弥陀・釈迦三尊坐像(重文・藤原時代)を安置する。
脇侍に不動明王立像(鎌倉)と多聞天立像(藤原)があり、
背後の脇壇上には慈覚大師坐像(鎌倉)・元三大師画像(鎌倉)・聖應大師画像を安置する。
永享7年(1435)山城国大原郷来迎院鐘として、大工藤原国次が造った旨を刻まれている
聖應大師良忍の墓がある。
良忍上人は延久4年(1072)尾張国知多郡冨田村の生れ、幼くして比叡山檀那院の良画上人の室に入って学んだが、
天台にあきたらず、23歳の時、大原山に隠遁した平安時代後期の念仏僧。
それより30年余り、この地に住み、一人の念仏を万人に融通して往生を導くという融通念佛の教義を唱えた。
また諸国をめぐって各地に念仏弘通の道場を開いた。長承2年(1132)2月、来迎院にて亡くなった。
61歳。後に聖應大師となられた。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院左0769 浄蓮華院
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宝池山と号する浄土宗知恩院の末寺、本堂には阿弥陀如来像を本尊とし、
境内の大日堂には大日如来像および11面観音立像を安置する。
寺伝によれば、当寺は天正17年(1589)広誉上人無公大和尚によって創建されたとつたえる。
上人は藤原氏の出身といわれ、寛永18年(1641)7月106歳にて入寂した。
現在の建物は嘉永2年(1849)航誉上人によって再建されたもので、寺宝に大般若経600巻を有する。
剪定作業のため5基すべては見られなかった
石造宝篋印塔
東西に並んで5基ある。いずれも最上部の相輪の先端を欠いている。
いずれも鎌倉時代の造彫とみられる。
寺伝によれば付近にあった惣墓から移したものといわれる。
城陽市に現存する石造美術品としては唯一のものです。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院城陽0766 常楽寺 浄土宗
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常楽寺
浄土宗知恩院に属し、本堂には本尊阿弥陀如来像を安置する。
当寺の創建年代は明らかでない。
寺伝によると寛永2年(1625)僧貞誉霊極が中興開山となって再興したと伝えられる。
それより90年を経て僧霊誉よ至って堂舎が大破したので、享保6年(1721)に復旧された。
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浄土宗知恩院の末寺 天文8年(1539) 僧向誉正行によって創建されたと伝えられる。
明治初年付近の東光寺・西光寺を合併した。
本堂には本尊阿弥陀如来立像を安置する。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院城陽0764 極楽寺 本尊は重要文化財
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