御大典紀念植樹
榊 二本 高さ 三尺一寸
倒れたままです
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五七五
すきな歌 熱き心を生きてきた /中
ことわざ
若気の至り
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御大典紀念植樹
榊 二本 高さ 三尺一寸
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淀城之故址
西北 水垂四丁 大下津三丁
北神足廿五丁
山崎ステン所一里 長岡一里
昭和三年春京都三宅安兵衛遺志建之
東北 納所三丁 富之森■丁
横大路廿丁 下鳥羽一里半
淀城は,宇治・桂川合流点と木津川に挟まれた川中の島にあり,廃城となった伏見城に代り,京都警衛の拠点となった。元和9(1623)年松平定綱(1592~1651)が最初の城主となり,享保8(1723)年稲葉正知(1685~1729)が,下総佐倉より移封され明治維新に及ぶ。戊辰戦争時,幕府軍の宿泊所となり,慶応4(1868)年正月2日,この城から京都に向けて進軍した。5日には敗走の幕府軍の入城を拒んだ。この石標は淀城の跡を示すものである。なお,淀君が住んだ淀古城は別の場所であり,文禄4(1595)年廃城となった
淀小橋旧趾 従西南大阪至
右従北 京都街道 富ノ森■丁 東寺二里半
横大路■十丁 七条ステン所三里
下鳥羽■里 北野神社四里
上鳥羽一里半 桂三里半
左従東 伏見街道
中書島一里 木幡二里半
伏見桃山御陵一里半 醍醐二里半
稲荷神社二里半 山科三里半
昭和三年秋 京都三宅安兵衛依遺志建之
淀小橋は宇治川に架けられた橋で,紀伊郡納所村と城下町淀を結んだ。京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋である。淀小橋は淀川改良工事(明治30~同44年施工)の一環として明治36年に宇治川が付け替えられると,その流路からはずれ撤去された。この石標は淀小橋の跡を示すものであるが,最初に建立された地から移設されているので現在地を指すわけではない。
唐人雁木跡
江戸時代、朝鮮国から派遣されてきた外交使節団は主に「朝鮮通信使」とよばれる。その目的は徳川幕府からの招請に応えて朝鮮国王の国書を江戸の将軍に手渡すことであった。
総勢約五百名からなる一行のうち、船団関係者を除く約四百名は大阪から淀川をこの淀まで幕府が手配した「川御座船」とよばれる豪華船で逆上ってきた。そして、ここから京都へ入り、琵琶湖畔の朝鮮人街道を経て、東海道を一路江戸へ向かった。ここでは一行の使臣や随員の轎・輿、荷駄、そして護衛の対馬藩主一行などのための乗り物が用意され、運送用におびただしい人馬が動員された。一行の上陸地点には「雁木」とよばれた特設の桟橋が設けられた。その長さは3.6間(64.8メートル) 幅7間(13.6メートル)と「山城下津町記録」にある。なお唐人とはアジア系の人々を指す当時の用語でこの場合は朝鮮通信使一行を表す。1607(慶長12)年から1764(宝暦14)年までの間に11回、この唐人雁木が上陸、又は帰路の乗船用に利用された。当時と今とでは川筋が変わっており、実際にあったのはここより約200m北方の納所側の地点である
唐人雁木旧趾
昭和三年春 京都三宅安兵衛遺志建之
「唐人」とは江戸時代将軍の代替わりや慶事に際して,朝鮮王から祝賀のため派遣された朝鮮通信使をさす。「雁木」とは船着場の階段の意。通信使は,対馬から瀬戸内海を経て大坂へ着き,大坂から川船に乗りかえ淀川をのぼり,淀城下で上陸し,休憩または宿泊後,京都へ出発し,さらに東海道を江戸へ向かった。上陸地点がすなわち唐人雁木であるが,延享5(1748)年の通信使到着を描いた絵図(淀渡辺家文書)では,仮設の舞台のような船着場が作られていて,本来の意味の雁木を使ったわけではなさそうである。この石標は唐人雁木の跡を示すものである。この石標は唐人雁木の跡を示すものであるが,最初に建立された地から移設されているので現在地を指すわけではない。
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各所の 三宅安兵衛の道標
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0144 田辺治之助 君記念碑
五七五
あれそれで通じ合う日々老夫婦 /尾上
ことわざ
毒を以って毒を制す
稲葉神社
稲葉神社の祭神と淀藩について
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。元亀2年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生れ、長じて稲葉重通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが有名な「春日局」である。
正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。秀吉の没後、慶長五年(1600)関ケ原の合戦の功より徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野の国(栃木県)真岡の城主となり、2万石を領したが寛永5年(1628)江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて5代目の正知の時で享保8年(1723)下総国(千葉県)佐倉より10万2千石で入封した。その後明治4年(1871)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年間にわたり淀藩主であった。
稲葉氏時代の淀城下
昭和7年10月16日
手水舎
手水鉢 御寶
米問屋
元禄8年12月
御祭神
従五位 佐渡守
稲葉正成公
御室 春日局
稲葉神社
神心石
稲荷大明神
日吉大明神
熊野大明神
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神社 前回の記事 ➡ 神社下0117 若一神社 平清盛
五七五
野晒しのベンチが今日の喫煙所 /掛川
ことわざ
毒にも薬にもならぬ
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淀城跡 にあります
慶応4(1868)年正月,鳥羽伏見戦が勃発し,幕府方大坂方面へ敗走した。同5日敗軍は淀城の開門を迫ったが,藩士は城門ととざして入城を拒否した。物頭役田辺治之助は大手門の守衛を指揮し,たまたま警衛を破り侵入した者があったので,藩主が朝敵の名を被らないようにその責任をとり自決した。この碑は田辺治之助の志操を顕彰するもので,戊辰戦争勃発70年に建立された。
子爵稲葉正凱書
慶応4・・・で始まる
慶応四戊辰年正月三日鳥羽伏見ノ役当時我カ淀藩主稲葉正邦公ハ幕府ノ老中職トシテ江戸ニ在リ因テ藩士ハ堅ク城門ヲ鎖シテ留守ス其大手門ハ者頭役田辺治之助君ノ守ル所ナリ五日後退セル藩兵門内ニ闖入シ来ルモノアリ守兵直ニ之ヲ拒ミ出シタルモ時偶々城中ニ在リタル君ハ此ノ報ヲ聞クヤ守門ノ責任ヲ痛感シテ自刃ス其壮烈ナル実ニ士人ノ典型ト謂フベシ今ヤ士道頽廃責任観念ノ缺如セルノ際今年恰モ七十周年ニ相当スルヲ以テ我等同人君ノ高風ヲ欽慕シ相謀リ碑ヲ建テ其事実ノ梗概ヲ記シ後世ニ伝フト云爾
昭和十二年九月
田辺治之助君記念碑建設有志者建之
石工榎並丑松
関連記事 ➡ 史跡伏022 淀城跡
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0143 慰霊碑 淀町出身戦没者
五七五
平凡が幸せの鍵握りしめ /佐藤
ことわざ
七度尋ねて人を疑え
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慰霊碑 淀町出身戦没者
明治27 8年 日清戦争
明治37 8年 日露戦争
昭和54年10月 京都市長 船橋 求己
淀遺族会長 山田 四郎
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石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0142 淀城址
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幸せはどこにでもある柿を剥く /武村
ことわざ
情けも過ぐれば仇となる
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2 山科三之宮
3 神社中0007 西院 春日神社 落ち着いた 雰囲気でした
6 乃木神社 全国にあるのでしょうが ここは、明治天皇陵の近くです
12 寺院八幡0583 善法律寺 三宅石碑 慰霊碑 紀元2600年碑
15 神社北0224 貴舩神社
17 寺院北0714 涌泉寺 日蓮宗 石仏 慰霊碑 洛陽6檀林
18 忠魂碑 大正11年10月建立 帝国在郷軍人會北白川分會 神社左0228 北白川天神宮 石碑・紀元2600年
22 石碑城陽0235 忠魂碑
23
24
子爵 稲葉 正凱 書 と書かれています 城主の子孫かな
判読 難かしい
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石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0141 喜界・淀 姉妹提携記念
五七五
ギャラリーがああやこうやと将棋指す /中井
ことわざ
雉も鳴かずば打たれまい
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姉妹提携記念
2007年10月27日
京都淀ライオンズクラブ 喜界ライオンズクラブ
題字 鹿児島県喜界町町長 加藤啓雄 書
台石 喜界島産 珊瑚礁
記念植樹 花水木
建立 喜界ライオンズクラブ
治承元年(1177) 鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。
翌年、平康頼、藤原成経は赦免されて京に帰ったが、
俊寛は赦されず、この島で亡くなった。
関連記事 俊寛 ➡ ゆかりの地 俊寛
関連記事 淀城址 ➡ 史跡伏022 淀城跡
石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0140 明治天皇御駐蹕之址
五七五
ご町内生きてまっせと窓開ける /山中
ことわざ
河童の川流れ
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治承元年(1177) 鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。
翌年、平康頼、藤原成経は赦免されて京に帰ったが、俊寛は赦されず、この島で亡くなった。
明治天皇御駐輦所観月橋 明治7年2月7日
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。
この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,
京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。
2月7日神武天皇陵参拝のため奈良に向かう途中,この地観月橋(豊後橋)で休憩した。
この石標は明治天皇が休憩した観月橋を示すもの
昭和13年3月 京都府建之
淀川維持区域標
淀川是下至海
京都市伏見区豊後橋町
昭和6年4月1日 内務省
観月橋
昔は紀伊郡と久世郡との境界にあたる重要な橋であった。伏見殿のあった頃は桂橋と称したが
伏見築城のとき、一説に大友豊後守宗麟が秀吉の命によってあらたな橋を造ったことからともいわれる。
のちに指月の南につづく観月の賞地として、観月橋と改めた。
江戸時代には人気を集めた。
関連記事 ➡ 各所にあります 明治天皇 行幸地 など
明治天皇(1852~1912)は,慶応4(1868)年3月21日親征・海軍検閲のため大坂行幸。同日この地淀城で休憩。同月23日大坂行在所となった本願寺別院に到着した。1カ月余大坂に滞在し,閏4月7日大坂を出発。水路八軒屋より守口に上陸し,同日淀城で宿泊。翌日鳥羽で休憩後,京都へ還御。この石標は明治天皇行幸の地を示すものである
明治天皇御駐蹕之址
慶応四戊辰年三月二十一日大阪ヘ 行幸ノ御途次当淀城ニ御小憩ノ後大阪ヘ御出発アラセラレ同年閏」
四月七日車駕還幸水路当城京口浜ニ御着同夜城内ニ御駐泊翌八日京都ヘ還御アラセラル」
今茲十一月 今上天皇陛下御即位ノ大礼ヲ挙ケサセラルヽニ方リ記念ノ為*城温故会之ヲ首唱シ有志」
ノ士相集リ此所ニ碑ヲ樹テ史実ノ梗概ヲ録シ以テ後世ニ伝フト爾カ云フ
昭和三戊辰年十一月明治節日建之
石工榎並丑
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石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0139 唐人雁木 旧跡
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豊作だ夫婦喧嘩も風に散る /広瀬
ことわざ
宵っ張りの朝寝坊
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何のための石でしょう 城の礎石か
淀城の由来
徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じたこの地は淀船経営者、河村与三右衛門の屋敷地で、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。伏見城の天守閣は二条城へ、二条城の天守閣は淀城へ移築されたらしい。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
寛永10年(1633)松平定綱が国替えにより永井尚政が城主となり、寛永14年から2年がかりで木津川付け替え工事を行い、淀と納所の間の間の宇治川には「淀小橋」を架け、また淀と美豆村との間の木津川には「淀大橋」が架けられた。その後、寛文10年(1670)石川定之、宝永8年(1711)松平光煕、松平乗邑と替わり、享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2千石の居城であった。
鳥羽・伏見の戦いのとき、鳥羽街道(大阪街道)や伏見から敗走してきた幕府軍の兵士が、やっとの思いで淀までたどりつき、淀城に入ろうとしたが城門は閉ざされていた。淀藩が幕府軍の入城を拒否したのである。敗残の兵士はやむなく大阪城まで行かねばならなかった。そして慶長4年(1868)1月5日、薩長軍が淀まで進出すると、今度は城門は開かれ、薩長軍を迎え入れたのである。このとき淀藩は幕府を見限っていた。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二ヵ所に取付けられていた。淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を移した「聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上いる以前の雄姿を偲ばせるものである
なお秀吉が天正16年(1588)淀城を修築し、ここに愛妾淀君を囲ったことから、淀の地名は有名になった。淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500メートルの納所にあったと推定されている。
京都市
山城の国 淀藩主 永井尚政の指示で家老 佐川田喜六らに水車を作らせ宇治川より城内に水を引きいれるようにした。仲間として「石川丈山」「松花堂昭乗」「小堀遠州」「本阿弥光悦」などがいた。佐川田喜六は一休和尚を慕い晩年は一休寺のそばに庵を結び生涯を終えたそうだ
はすの花の名前 「淀姫」
1995年全国はすの会で淀姫と命名されました。約260年前よりこの地にあるとのことです。明治18年頃にこの堀に植えられました。淀観光協会
淀城趾 松昔嵐(しょうせきらん) 「松の木の名前」
昭和38年12月18日 棟方志功がこの地を訪れ松の名前を付け 松画に残す
淀城に徳川家よりあずかりの品
国宝 曜変天目茶碗(南宋時代)
高架は 京阪電車
城内を見下ろす
関連記事 ➡ ゆかりの地 朝鮮通信使
まち歩き宇治0945 浮島十三重石塔 日本で現存最大の15メートル
史跡 前回の記事 ➡ 史跡大津021 寺田屋 お登勢の実家は 大津にあった
五七五
初雪やはじめて見たる淀城址 /虚子
名ばかりの淀の城址や大根蒔く /暁明
枯芦に日ざしとどかず淀城址 /青峨
ことわざ
舟に刻みて剣を求む
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まち中に残る 手押し井戸ポンプをまとめてみました
中には現在も使われているものもあります
11 井戸 手押しポンプ
12 ポンプ下01 使われなくなったのに なぜ残っているのか 井戸ポンプ
14 福長神社
15 まち歩き東0250 手押しポンプ がありました
26 まち歩き中1280 京の通り 麩屋町通 NO41 白山神社 神社中0230
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淀川瀬水車旧趾
淀の地には昔から水車が設けられ,12世紀末の『梁塵秘抄』にも淀の川瀬の水車と詠われた。江戸時代には淀城北側,桂川と宇治川の合流点附近に大小二つの水車があった。大は直径8間,小は6間で,川の水を吸い上げ,淀城の泉水に引いていた。この水車は,天正14(1586)年,淀水運支配河村与三右衛門(?~1615)が作ったもので,もとは農業用であった。この石標は水車の跡を示すものである。
昭和三年秋 京都三宅安兵衛依遺志建之
関連記事 ➡ いろいろな 三宅安兵衛の道標
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0141 戊辰役戦場址
五七五
金木犀山門高く車止め /岩谷
ことわざ
肺腑を突く
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