国憂いはかなく京に散る
時は文明開化。東京・鹿鳴館に上流階級が華麗に集い、欧風文化に酔いしれていた時、京都で一人の名もない女性が一瞬、閃光のようにきらめいて、消えた。
1891年(明治24)5月20日夕。京都府庁前の路上で一人の女性が自害して果てた。所持品、遺書などから東京の27歳のお針子・畠山勇子と判明した。警察の検視の後、上京区役所からの連絡で松原大宮の末慶寺に引き取られ、境内の墓地に手厚く葬られた。当時の住職和田準然師は、行き倒れなどの人たちを自坊に埋葬していて、当寺の過去帳には「上京区役所」の記載が多い。
日本政府やロシア帝国や家族などにあてた遺書10通をしたため、自らの剃刀でのどや腹、心臓を突き刺して自害した女性に何があったのか。事件は9日前にさかのぼる。
大津事件で入洛
5月11日午後。ロマノフ王朝が栄華を極めた時の大国、帝政ロシアのニコライ皇太子が来日、京都や琵琶湖などを見学した後、大津市内で警官津田三郎に切りつけられ負傷した。
この「大津事件」を知った勇子は居ても立ってもおられず、衣類を質に入れて旅費をつくり、京都に滞在中の皇太子一行を追って東京・新橋から単身夜行列車で入洛したのだった。
国を憂い、日露両国の国交悪化を心配したの烈女の自害は、世間に大反響を巻き起こした。当時の日出新聞も連日一面で報じ「美人自殺一見の詳報」として自害の様子を生々しく伝え、ロシア宛の遺書まで紹介している。山陰の松江では市民が同地で教師をしていた小泉八雲に、ロシアに英文で詫びの電報を打つよう依頼するなど、勇子は一躍時代のヒロインになった。勇子は、千葉県・鴨川の資産家に生れたが、父が維新の志士たちを支援して財を無くし早死にする。が、幼少のころ、神職に漢学を習い、歴史や政治に興味を示し新聞を読みあさったという。17歳で結婚するが身持ちの悪い夫に説教して離縁された。その後東京に出て商家に勤め、針子などで生計を立てていた。京都市下京区・松原通大宮を西へ二筋目を下った寺の並ぶ通りの一角に末慶寺がある。「当時、このあたりは一面芹田だった。松原通をはさんで北が京都市、南は葛野郡大内村。市内は火葬、村は土葬だった。運ばれてきた遺体をきれいにふき、血に染まったきものは死体とともに埋葬されましたが、遺品はすべて残されました。」と当寺27代目住職鬼頭誠英さんが遺品を見せてくれた。戦い避けるため 黄楊櫛、かんざし、自刃に使った剃刀、財布、自分のへその緒、写真、帯、そして遺書を書いた残りの鶯色の和紙・・・。「いまの女性以上に女らしく国を思う心に感動する。やっと新しい国のかたちができあつつあった時代。何としても大国との戦争は避けたかったのだろう」と鬼頭さんは話す。同寺には勇子自害の後、小泉八雲やポルトガル領事で日本に滞在したモラエスも足を運び、海外向けエッセーの中で勇敢な日本女性として勇子を取り上げ、日本人の死生観にも触れている。
勇子の故郷・鴨川市の観音寺には「烈女畠山勇子墓」の石碑が建ち、初節句に叔父から贈られたひな人形も保管されている。3年前には百回忌法要と遺品展も開催された。住職の森義賢さんは「先代の父が勇子を研究していたので、子供の頃から知っていたが、京都に出向き遺品に触れ、当時あそこまでやった彼女の行動に、あらためて新鮮なときめきを感じた」と話す。
葬式代まで残し。
早朝、京都駅に着いた勇子は本願寺や清水寺などを回り、知恩院で辞世の歌を詠んだ。夕暮れを待って府庁前に白布を敷き、髪を整え、膝が割れないようにひもで膝をくくっていた。「色白く眉濃く人品よき婦人なり」と当時の新聞は報じている。財布には葬儀代五円も入っていたとも。身を清め、わずか一日の京を見て散った短く、はかない女の命。自らの死で平和を願った勇子の思いをよそに、1904年(明治37)、日露戦争が勃発する。
清楚に掃き清められた末慶寺の墓地に眠る畠山勇子の墓は、ひときわ大きい自然石である。時折訪れる若い旅人に、深い緑色の墓石は何を語りかけているのだろうか。
勇子の生まれ故郷は房総半島太平洋岸に面した千葉県鴨川市。畠山家はすでに絶え、戦時中にJR鴨川駅に近い観音寺境内に勇子の石碑が建てられ「軍国の鏡」としてあがめられたという。百回忌を機に、鴨川市や郷土史研究会など市民の手で「畠山勇子」の検証が行われている。十余の寺が密集する中堂寺西寺町の末慶寺境内墓地の奥にある「烈女畠山勇子墓」は高さ3m、幅1mの緑色の立派な自然石で、当時のヒロインぶりがうかがえる。きれいに保管されているくし、かんざし、帯などの遺品やモラエスの書簡を求めて国内外の研究者がやって来るという。
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京都市指定天然記念物
本願寺のイチョウ
昭和61年(1985)6月1日指定
このイチョウは、低い位置から各方向に水平枝や斜上枝が伸びており、特徴的な形状です。これは植栽時から剪定等の行き届いた管理がなされてたためと考えられます。御影堂が寛永13年(1636)の建立であることから、樹齢は約400年と推定されます。
一般に、イチョウは耐荷力の強い樹種ですが、このイチョウも天明8年(1788)や元治元年(1864)の大火の際に、火の粉を浴びながらも生き抜いてきた木です。京都市
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五七五
陽の真下 タオル搾りて八合目 /山本
ことわざ
塞翁が馬
境内地 拡充記念碑
1991年(平成3年)4月4日
浄土真宗本願寺派
総長 藤音晃祐 書
石碑 前回の記事 ➡ 石碑右0130 何が書かれているのか 歌碑かも 御室八十八ケ所
五七五
お墨付きくれたCT異常なし /佐藤
ことわざ
名を棄てて実を取る
2015年6月
やや古い地図では 新徳寺 となっているのですが
名称が変わったのかな
屋葦地蔵尊万年寺 とあります
屋根葺地蔵
御利益は
家再建の力となる
昔は 洛陽六地蔵めぐりの1つであった
平成29年8月17日 画像追加
中央 手前の屋根の上に こちらを向いた猿がいます
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五七五
ため息をそっと漏らしてカプチーノ /喜久永
ことわざ
客と白鷺は立ったが見事
京都市下京区中堂寺西寺町17
江戸時代の医師 賀川 玄悦 の墓所
顕彰碑があるとのこと
碑文は
賀川玄悦
“日本近代産科学のみなもと ここ玉樹寺のひがし一貫町に 十八世紀の名医 賀川玄悦(字は子玄、1700~1777)が住んでいた
玄悦は あらゆる権威にとらわれず 自分の目でたしかめる実証精神から それまで信じられていた 母体のなかの胎児の位置が誤っていることを知り その正しい位置(上臀下首)を はじめて発見した またあふれるばかりのヒューマニティから 難産で苦しむ母体を救う方法を発明した これらは日本医学が 世界に誇る業績の一つである賀川一門は 各地で多くの名医を生み 母子ともに安全に救う方法を完成して日本の産科学の発展に 大きく貢献した。 玄悦の没後二百年にあたり 墓域の修復をおこなう とともに 賀川一門の偉業をたたえるため ここに碑をたてて記念する
一九七七年九月十四日 賀川玄悦先生没後二百年記念顕彰会
平成29年8月13日 画像追加
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川柳
妖精と 呼ばれた妻が 妖怪に /浜
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嵐山 行
四条大宮 行
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半分埋没した 愛宕灯篭 それでも残っている 民家の前
寺院右0002 広隆寺 (こうりゅうじ) 「太子さん」とも言われている
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五七五
かすり傷運命の神微笑みて /前中
ことわざ
九死に一生を得る
嵐山 行
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五七五
変なくせ断ち切れぬまま来てしまった /伊東
ことわざ
木を見て森を見ず
平成28年12月17日 撮影
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五七五
いい便りまだかとポスト覗き込む /寺田
ことわざ
腹に一物