付近の様子
北
西 東
南
明治10年になってようやく当寺に改葬された
墓石が見えます
平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同士とともに
尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、
元治元年7月19日(1864)蛤御門の変(禁門の変)の時、
戦火に乗じて逃走を怖れ六角獄舎で生野挙兵の同士、
天誅組の水郡善之祐以下16名、
池田屋事件の古高俊太郎以下8名の勤王志士とともに未決のまま斬首された。
「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ、
三十七歳の生涯を終えた。
明治10年(1877)西ノ京刑場(西大路太子道一帯)あとから
姓名を朱書きした瓦片と白骨が発見され調査の結果、
これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士37名の遺骨
であることがわかり、改めて当寺に移葬された。
六角獄舎跡の記事はこちら➡ 六角獄舎跡
寺院 前回の記事 ➔ 寺院中0178 円竜寺 真宗大谷派
下のユーザー地図で京都市内の記事探索が出来ます
江戸で お犬さまといわれた将軍、生類憐みの令を出した将軍の母親が玉の輿ことお玉さん・・京都出身です
3代将軍 家光の妻となり家光の4男 綱吉を産む。
家光の死後 桂昌院と名乗る。
徳川五代将軍綱吉公御生母 、3代将軍 家光の妻
昭和8年 建立 と記されています
桂昌院殿 御生家 菩提寺
堀川出水西入ルに八百屋 仁左衛門に2人の娘がいた、寛永16年(1639年)8月仁左衛門が亡くなると仁左衛門の妻は本庄宗利に後妻になった。この時の連れ子がお玉であった。・・・・略・・・
将軍の母親を送り出した京都では「どえらい出世だ」と桂昌院が天下一の果報者にまつりあげられ「私は親戚のものだ」「近所に住んでいた」「一緒に遊んだ」などと話題をさらったらしい。なかでも幸運をつかんだのは、仁左衛門の菩提寺である真敬寺。桂昌院はこの寺を優遇し、おりにふれて金銭を送っていた。寺は豊かになった。寺の記録によると、当時の住職が桂昌院に感謝状を書いている。また、宝永2年(1705年)6月22日桂昌院が76歳で亡くなったとき、4年後 綱吉が亡くなった時住職がわざわざ江戸へ招かれ、葬儀の役を仰せつけられている。桂昌院の墓は東京にあるが、位牌は別格として同寺本尊のそばに安置されている。桂昌院から送られた打掛がある。寺紋も葵の紋が許された。また、同寺では桂昌院から送られた゛9つ目゛寺紋も併用している。
関連記事 ➡ 清凉寺・嵯峨釈迦堂 その他 多数あり
寺院 前回の記事 ➡ 寺院上0103 長源寺 浄土真宗本願寺派
幕末の佐賀藩は,藩財政の窮乏と英国艦船の来訪等により藩政改革の必要に迫られ,
藩主鍋島斉正(閑叟,1814~71)は財政強化と軍事力の再編に尽力した。
佐賀藩は雄藩として公武合体派の指導的な役割を果たし,
斉正は福井藩主松平春岳(慶永)らとともに一橋慶喜(1837~1913)を擁立して
改革派藩主連合の一翼を担った。
佐賀鍋島藩の藩邸ははじめ堺町通四条下るにあったが,
幕末にいたりこの地に移された。
幕末藩士 佐賀藩
堺町四条下ル 鍋島藩屋敷跡 ➡ 石碑 佐賀鍋島藩屋敷跡
石碑 前回の記事 ➔ 石碑上0044 江戸時代 唐津小笠原藩邸址
石碑中0019-1 日本近代医学発祥の地
なお、この地は山脇東洋が刑死者の屍体を解剖したところといわれ、昭和51年(1976年)京都府医師会によって顕彰碑が建てられた。
関連記事➡山脇東洋解剖碑所在墓地
山脇東洋觀臓之地 1754・宝暦4年閏2月7日
近代医学のあけぼの 観臓の記念に
1754年・宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705~1762)は所司代の官許をえて この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった 江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は5年後に「蔵志」としてまとめられた これが実証的な化学精神を医学にとり入れた成果のはじめで 日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする
1976年3月7日
日本医師会 日本医史学会 日本解剖学会 京都府医師会
石碑中0019-2 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)
ここは江戸時代 六角獄舎と呼ばれたところ 宝永5年(1708年)以降、明治維新に至る160年間江戸幕府直轄の獄舎のあったところ 未決囚を収容する施設であって処刑場ではなかった。正しくは「三条新地牢屋敷」と称した。六角通りに面していたから一般には「六角獄舎」と呼ばれた。東西69m、南北53m 3,640㎡゛といわれ罪科の軽重によって構造が異なり、上り屋、本牢、キリシタン牢、女牢などからなっていた。六角獄舎が有名なのは幕末、平野國臣らが無残にも処刑されたことにある。
坂本龍馬の妻になったお龍の父もここに囚われ、龍馬とお龍が六角獄舎の隣の武信稲荷神社の木に登り獄舎の様子を伺ったと話によく出てきます
獄舎は明治維新後 監獄署と改め二条城の西北地に移り、昭和の御大典にあたって山科に三転した。元の地は京都感化保護院となり、昔の遺物はなにもない。
入口に「殉難勤王志士忠霊塔」の石碑と志士たちの首を洗ったという井戸があるにすぎない。
平野国臣殉難の地
幕末尊王攘夷派の指導者平野國臣が処刑された所である。このもと
六角獄舎」があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。国臣はもと福岡藩士で、尊王攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕えられ元治元年(1864)1月17日ここに収容された。ところが同年7月19日長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって、京都市中の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや、幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋が我が国で初めて死体解剖を行った所とも言われ、付近には記念碑も建っている。京都市
山脇東洋のゆかりの地 ➡ 人物007 山脇東洋
関連記事 ➡ 37名の墓所 竹林寺
近辺地域寺社記事 ➡ 中京界隈 堀川西・二条城
前回石碑記事 ➡ 石碑東0018 坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所
次回石碑記事 ➡ 史跡中006-12 石碑中0020 長崎殉教の26聖人発祥の地