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史跡八幡046 西山廃寺(足立寺跡) 三重塔

2019年06月22日 07時28分21秒 | 遺跡・遺物

 

 

西山廃寺(足立寺) 中世建物跡

西山廃寺(足立寺・そくりゅうじ)が建てられた当時の建物は、どのように並んでいたかはよくわからないが、三重塔の東側に残っていたこの建物は、一辺10mの基壇の上に、8.5m四方(3間×3)で、北側中央の間には階段がとりついていたらしく、南北朝時代の檜皮葺(ひわだぶき)のお堂である。元の寺とどのような関連があるのかよくわからないが、この建物の一層下には、奈良時代の礎石や、瓦が埋まっていたから、元の建物がこわれてからそのあとへ新しくこのお堂がたてらなおされたものと考えられる。

 

 

西山廃寺(足立寺)三重塔跡

江戸時代に作られた『山州名跡誌』などの記録によれば、石清水八幡宮の西南方の山中に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)をまつる寺と、和気清磨(わけのきよまろ)をまつる神社があったといい、この寺は、奈良時代に和気清磨が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の命で、九州の宇佐八幡宮へ行き、道鏡を追放せよという神託をそのまま報告したため、両足を切られて流刑にされたが、八幡宮の助けで両足が元通りになったので足立寺(そくりゅうじ)という寺を建てたと伝えられてきた。

 

このあたりに古代寺院跡があることは早くから知られていたが、造成開発のため、昭和43年から48年にかけて何度か発掘調査を行った。元の位置はここから西南50mの所で、海抜35mから60mの急な傾斜面を削って東に堂、西に塔が建てられていたが、遺構はすべて役3mの厚い砂の下に埋まっていた。

塔は一辺10mの基壇の上に、5.2m四方(3間×3)の大きさで、周りの礎石はほぼ原形をとどめており、大きさからみて高さ25mぐらいの三重塔であろう。中央の三角形の巨大に石は、塔の心柱を支える塔心礎(とうしんそ)で、直径36cmの枘穴(ほぞあな)があり、北側に突出した小さいくぼみは舎利孔(しゃりこう)である。こうした形式の心礎は全国で唯一の珍しいもので、貴重な文化財である。

ここから出土したものは、奈良時代前期(白鳳時代8世紀中ごろ)から、平安時代後期(12世紀)までの瓦で、大部分は奈良時代末から平安初期のもので、塼仏(せんぶつ)、二彩壺(にさいつぼ)なども出土している。

出土品からみて、この寺は和気清磨よりも100年も古いころにこの地方の豪族によって建立され、平安時代の終わり頃土砂の下に埋まったことがわかる。

 

 

 

奈良時代の瓦窯(半地下式平窯)

西山廃寺が作られた頃には、この周辺に瓦や土器を焼いた窯が築かれていたが、この窯は、そのうちもっともよく残っていた瓦窯を復元したものである。

手前の舟底形の部分は燃料をもやす所(燃料部)で、たき口には2つの石をたててせばめている。奥の一段高い所が焼成部で、燃焼部との間は窓のついた障壁で区分されている。床には7本のロストルがあって、製品をこの上にのせて、燃焼部からくる炎はロストルの間の煙道を通って奥壁の下にある3つの煙突から外へでていくようになっている。三方の壁には古い瓦を小口積みにしてさし込み、天井は焼きあがった瓦を取り出すときに、こわしたままになっていた。瓦を焼くときは、ロストルにまたがるように瓦を立てて並べ、一時に400枚ぐらいを約一週間かかって焼き上げた。そのうち約20%が不良品になったと思われる。この寺には全体で数万枚の屋根瓦が使われていたと推定される。

この窯は、奈良時代末から平安時代の初めにかけてのもので、3本の煙突をもつ構造は全国でも珍しいものである。

 

 史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡045 小野頼風塚

関連記事 ⇒ 49 八幡  地区 記事検索一覧

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まち歩き久御山1030 久御山公民館の遺跡案内

2019年03月26日 06時48分14秒 | 遺跡・遺物

 

 

 

 

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き久御山1029 何の石柱 野村 講中 と読めます

関連記事 ⇒ 45 久御山  地区 寺社記事検索一覧

 


史跡左035  千人塚 大文字山

2018年06月27日 06時57分24秒 | 遺跡・遺物

 

大文字山に登る坂道の途中に「仙人塚」がある。

これは太平洋戦争中に陸軍がタコツボ堀りの作業中、

地中から発掘した人骨を埋葬し、

地元の人たちが供養にために碑を建てたもの。

史跡 前回の記事 ➡ 史跡左034 貞明皇后御休息所

 


古墳右15  圓山陵墓参考地

2018年01月02日 19時49分49秒 | 遺跡・遺物

 

圓山陵墓参考地

古墳の入口

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右14  入道塚陵墓参考地

五七五

こがらしやひたとつまづく戻り馬 /蕪村

ことわざ

横槍を入れる

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古墳右14  入道塚陵墓参考地

2018年01月02日 11時22分00秒 | 遺跡・遺物

 

入道塚 陵墓参考地

どうも 古墳ということです

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右13  狐塚古墳

五七五

木がらしの空見直すや鶴のこゑ /去来

ことわざ

世は相持ち

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古墳右13  狐塚古墳

2018年01月02日 06時45分12秒 | 遺跡・遺物

 

玄室長3.8m、幅2.3mで、奥壁は3枚で高さ3m。

 現在は床が埋まっており高さ2mとなっている。

 石棺は現在も埋まっている。

 秦氏の古墳。

 大覚寺古墳群 4号墳とも言う。

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右12  古墳時代の出土物  獣脚硯

五七五

木枯や竹にかくれてしづまりぬ /芭蕉

ことわざ

世は情け

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古墳右12  古墳時代の出土物  獣脚硯

2018年01月01日 12時56分50秒 | 遺跡・遺物

 

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右11 グランドの隅にある

五七五

木枯に岩吹きとがる岩間かな /芭蕉

ことわざ

夜目遠目笠の内

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古墳右11 グランドの隅にある

2018年01月01日 06時27分28秒 | 遺跡・遺物

 

バックネットの背後に古墳石室の遺構があり、そばに小堂がある。堂内に祀られている人面石がある。高さ47㎝、幅16㎝、厚さ30㎝の凝灰岩。両眼は不揃い、鼻は右に大きく曲り、分厚い口、不気味な人面彫刻。昭和31年、京都大学考古学教室が調査した広沢古墳から出土したもの。

古墳 前回の記事 ➡  古墳右10  広沢池公園内にある古墳

五七五

山国の風花さえも荒けなく /虚子

ことわざ

嫁を貰えば親を貰え

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古墳右10  広沢池公園内にある古墳

2017年12月31日 21時38分30秒 | 遺跡・遺物

 石で囲まれた部分が 古墳です

古墳 前回の記事 ➡  古墳右09 広沢池の東の山頂に古墳 と 眺め

五七五

時々にふりかへるなり隙間風 /虚子

ことわざ

寄らば大樹の蔭

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古墳右09 広沢池の東の山頂に古墳 と 眺め

2017年12月31日 19時22分08秒 | 遺跡・遺物

広沢の池 と 嵯峨野 一帯

 

 

頂上にある 古墳

右手の山は遍照寺山 

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右08  山越古墳群 古墳三基 と石材

五七五

古池は草履しづみてみぞれかな /蕪村

ことわざ

楽あれば苦あり

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古墳右08  山越古墳群 古墳三基 と石材

2017年12月31日 05時08分00秒 | 遺跡・遺物

山越古墳郡中の三基  古墳時代後期  6世紀後期 ~7世紀初頭

横穴式石室

調査 2010年8月 京都橘大学文学部文化財学科

1つ目

2つ目 と 3つ目

すぐ横に 古墳に使われた 石材置き場 

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右07  印空寺の古墳

五七五

日かがやく諏訪の氷の人馬かな /子規

ことわざ

弱り目に祟り目

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古墳右07  印空寺の古墳

2017年12月30日 13時12分17秒 | 遺跡・遺物

 小さな 古墳です  少し2~3メートルぐらい盛り上がっています

古墳 前回の記事 ➡ 古墳右06 御堂ケ池一号墳 

五七五

一露もこぼさぬ菊の氷かな /芭蕉

ことわざ

楽は苦の種 苦は楽の種

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古墳右06 御堂ケ池一号墳 

2017年12月29日 06時03分47秒 | 遺跡・遺物

 

京都市登録史跡

御堂ケ池一号墳

御堂ケ池一号墳は、右京区梅ケ畑向ノ地町(当該地から北へ約700mの所)にあった古墳で、20数基からなる御堂ケ池古墳群のうち最大のものである。嵯峨野一帯には、古墳時代後期に造られたこのような古墳群が多数みられるが、この御堂ケ池一号墳の規模は、直径約30mの円墳で、横穴式石室(全長8.3m以上、玄室長4m、同幅2.7m)を有している。本古墳の規模は同時代の他の古墳に比べかなりの大型のものであり、付近に存在したムラの最有力家族の墓と思われる。

昭和58年2月に開発に伴い発掘調査を行った際、石室から須恵器・土師器・馬具・刀子などの副葬品が多数出土し、被葬者は石棺・陶棺・木棺を利用して埋葬されていることが判明した。これらのことから、当古墳は6世紀後半に築造され、7世紀前半まで追葬が続けられたものと考えられる。なお、発掘調査後、当古墳のもつ規模等を後世に永く伝えるためにここに移築保存を行ったものである。

昭和60年6月1日登録

通称 さざれ石山の山腹に移築復元されています。

移築した石材は60個以上あり、総重量は110トンにも達しています。

1個の石材が15.5トンを計るものもありました。

石室の復元にあたっては、コンクリートなどは使用せず、漆喰を混ぜた土で石材を固定しながら、ほぼ当初の形に復元しました。巨石を利用した両袖式の横穴式石室は、古墳時代後期の特徴をよく示しており、当時の土木技術や墓制を知る上で貴重な遺構です。

古墳 前回の記事 ➡  古墳府05  石明神遺蹟 と 石碑

五七五

瓶わるゝ夜の氷のねざめかな /芭蕉

ことわざ

埒が明かない

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古墳府05  石明神遺蹟 と 石碑

2016年10月11日 05時07分57秒 | 遺跡・遺物

 

 

現在、大宮売神社の御旅所となっている石明神は、

古墳時代後期の横穴式石室を埋葬施設とする古墳です。

もともとは土で盛られていましたが、長い間に流れてしまい、

石室だけが残っています。

 福井 さんの 碑

明治44年3月   周枳村(すき)

古墳 前回の記事 ➡  古墳04  物集女車塚古墳 石棺も出土

今日の俳句

 秋めくや あゝした雲の 出かゝれば /たけし

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史跡西013  勝持寺子院跡の石塁と石垣

2016年07月14日 10時30分23秒 | 遺跡・遺物

 

 

勝持寺子院跡の石塁と石垣

勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

 京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。この奥に石塁の一部を移築して保存しております。 京都市

 

 

 

 

 

 

石塁

 

 

 

勝持寺子院跡の石塁

この石塁は、15世紀後半(室町時代)に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた石積みの塀(石築地)です。発掘調査により発見されたのは、現在地から南へ約60mの地点です。東西方向の石塁は27m以上の長さで存在したことが確認され、そのうち最も特徴を表している8.5m分をこの場所に移築復元しました。高さは80㎝、基底部の幅も約80㎝です。本来の高さは、上部か崩れているために不明ですが、形状からみてそれほど高くはならないと思われます。使用されている石の大きさは20~30㎝のものが多く、内側には拳大の礫が詰められています。石材は、砂岩・チャート・脈石英など周辺で採取されたものです。このような石塁は、現在の寺院では見られませんが、14世紀初頭に成立した絵巻物『法然上人絵伝』や『春日権現験記』などに描かれた「石築地」と見られ、当時の寺社ではこのような区画施設が用いられたと考えられます。当時の寺院の様子や石積みの技術を知るうえで貴重なものです。

なお、石塁の西方で見つかった石垣は部分的ですが、道路の設計を変更することによって、現地に埋め戻され、保存されています。京都市

 

 

 

 

 

移築された 石垣

 

史跡・遺跡  前回の記事 ➔  史跡上012  名和長年 戦没地