蹴上は三条通の日ノ岡峠(山科区)にかかる上り口、市営蹴上浄水場より日向大神宮の石鳥居前一帯をいう。三条白川橋より山科・大津に至る国道筋にあたり、昔は京都の玄関口であった。
ここが蹴上と呼ばれるようになったのは、安元3年(1177)の秋、牛若丸は金売吉次にともなわれ、奥州へくだる途中、たまたまここを通りかかった平家の武士、関原与市重治の馬が、水溜りの水を牛若丸に蹴りかけた。牛若丸はその無礼をとがめて争いとなり、与市を斬り捨てたという。それよりここを蹴上と呼ぶようになった。と伝わる。
この時斬られた与市主従9人の菩提を弔うために、石仏9体を安置した。そのうち3体がこの石仏といわれる。
一説には、粟田口刑場で処刑された人々の菩提を弔うために安置されたものともみられている。
石仏 前回の記事 ➡ 石仏北029 那智観音 深泥池
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神変大菩薩
大日如来 鎌倉初期の作といわれています
学術上は釈迦如来の坐像とのこと
不動明王
地蔵菩薩
石仏 前回の記事 ➡ 石仏左027 静原 薬王坂 弥陀二尊板碑
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弥陀二尊板碑
赤松の大木の根に巻かれて建っているのは花崗岩の板碑で正面の角形に彫り込んだ内に浮彫りにされている石仏は、蓮座に座る二体の阿弥陀如来です。その下に磨滅していますが、次の通り三行の銘文が刻まれています。
為弘阿弥聖霊
願主 尼蓮性
貞治3年8月3日
在俗出家夫婦の妻蓮性が亡夫弘阿弥の菩提を弔い、後生安楽を祈って建てたものかと思われます。貞治3年は1364年南北朝時代の後期で、以来数百年の風雪に耐えた尊貴な石仏です。 西京区 一参拝人
石仏 前回の記事 ➡ 石仏左026 大原 井手町
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石仏 前回の記事 ➡ 石仏右019 大覚寺 大沢の池 石仏群
五七五
赤ちゃんの目が見つめている5億年 /吉田
京の野菜
鹿ケ谷かぼちゃ ひょうたん形で2~4キロにもなる大型のかぼちゃ。江戸時代に津軽から伝わった菊座かぼちゃを鹿ケ谷で栽培するうちに、現在の形になったと伝えられている。淡泊な味で甘味は少なく水気が多いのが特徴。形のおもしろさから、花材や置物として用いられることも多い。
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大沢の池の北岸、護摩堂の横に、20体近い石仏群がならんでいます。比較的大型の7体の石仏は鎌倉中期の造立と思われる古石仏で、
嵯峨野の石仏では有名です
石仏 前回の記事 ➡ 石仏左018 疏水べりの石仏・哲学の道
五七五
こがらしやから呼びされし按摩坊 /一茶
ことわざ
欲の熊鷹股裂くる
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石仏 前回の記事 ➡ 石仏東013 清水山 付近 京都一周トレイル 18-2 と 19の間
五七五
お隣の猫は吠えると孫が言う /寺田
ことわざ
江戸っ子は五月の鯉の吹流し
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石仏 前回の記事 ➡ 石仏東012 清水寺と清閑寺の間の道にある石仏
五七五
俺を見て子と妻こごえで話してる /鳴門の渦
ことわざ
益者三友損者三友(えきしゃさんゆうそんしゃさんゆう)
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