京都市中には、呉春、円山応挙、岸駒などの居宅跡があって、石標が建っている。明治・大正時代には、その門下の画家たちがたくさん住まいしていた。
景年は鈴木門下に入り、精緻な画風で知られ、同門の松年、久保田米僊らと並び称された画家である。
明倫学区の御倉町(三条通烏丸西入ル南側)に、円山派の今尾景年(1845~1927)が住んでいた。同町の『千總』の主人が、景年の技量を早くから認め、岸竹堂が描いていた刺繍の原画を景年にも描かせていたといわれる。
景年は衣棚二条上ル西側(梅屋学区)の悉皆屋今尾猪助の三男として生まれた。子どものころから絵を器用に描くので、家業の上絵の手伝いをしていたという。景年は上絵だけでは満足せず、どうしても絵師になって本絵を描きたいと願っていた。
その景年の作品が元富有校(中京区)に残っていた。同校の30周年記念(明治33年)を祝って、景年自身が寄贈したと伝わっている。「不老図」あるいは「松芝萬年図」ともいわれている。
また、聚楽校(上京区)には、師匠の鈴木百年の実子である松年と景年が二人で描いた墨画淡彩の「和漢故事人物図」が押絵張屏風6曲一双に仕立てられて残っている。
年譜
弘化2年(1845)8月12日、衣棚通二条北入ルに於いて悉皆業を営む今尾猪助の三男として生まれる。名は永勧、幼名を猪三郎といい、字を子裕と称した。
景年のほかに卿自斎という号もあった。
978年頃~1048年頃 平安時代中期の女流歌人。美人で多感な、情熱あふれた歌人として知られる。越前守をつとめた大江雅致のむすめで、はじめ和泉守橘道貞の妻となって小式部内侍を生んだが、冷泉天皇の第3皇子為尊親王と恋愛し、親王の死後はその弟の敦道親王の愛情を受け、夫から去った。敦道親王とも死別したのちは一条天皇の中宮彰子に仕え、また藤原保昌と再婚したが、不和のため離別した。晩年は小式部内侍とも死別し、出家するなど不幸であった。歌は『新古今和歌集』などにのせられており、情熱をそこにひめたものが多い。そのほか『和泉式部集』『和泉式部日記』がある。
「あらざむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな」(病気であの世にゆく前に、この世の思い出にもう一度お会いしたいものです)の歌が『百人一首』の中にある。
ゆかりの地
1 寺院中0067 誓願寺 浄土宗西山深草派 H28.5.9画像追加
清少納言の名が出てくる 記事一覧
1 神社右0012-2 車折神社 表参道 第3鳥居から 本殿まで
4 寺院中0067 誓願寺 浄土宗西山深草派 H28.5.9画像追加
9 まち歩き滋賀0261 歌碑 逢坂の関、逢坂山を歌った 蝉丸・清少納言・三條右大臣
10 寺院左0472 九十九坂 清少納言も登った 鞍馬寺
平安時代中期の代表的女流文学者、随筆「枕草子」の作者として有名。
一生(数え年)
966年・1歳 このころ清原元輔の子として生まれる。清原家は学者の家系で、清少納言は父の指導により小さいころから学問にすぐれる。
980年・15歳 このころ、橘光則と結婚する
986年・21歳 仏教の話を聞く会で、才能を認められる。こののち、一条天皇の中宮藤原定子に仕える。
1000年・35歳 宮仕えをやめる。このころ、「枕草子」を完成する。
1025年・60歳 このころ、亡くなる。
父は歌人の清原元輔。文学的にめぐまれた家系に生まれ、詩歌や漢文との交わりは深かった。橘則光と結婚して則長という男の子を生んだが、家庭生活はうまくいかず、夫と別れた。一条天皇の中宮(いまの皇后)藤原定子に仕えたのはこのころである。そこで摂政(天皇がおさないとき、かわって政治をみた役職)藤原道隆、左大臣の藤原道長らの有力者に接し、藤原公任・藤原行成らの貴族とも親しく交わった。彼女が書いた「枕草子」には、それらの体験を通した当時の宮廷のありさまがえがかれている。
その中に、雪がたくさん降った朝、中宮から「香炉峰の雪はいかならん」と問われたのに対し、すぐさま「香炉峰の雪はすだれをかかげて看る」という白楽天(中国、唐の詩人白居易)の詩をひいて、すだれを高くあげて外が見えるようにした。というエピソードがある。清少納言は教養があって理知的で、またユーモラスな性格であったことがうかがえる。同時代に活躍した紫式部とは才女どうしのライバルであった。
1000年(長保2年)、中宮定子がなくなったあとは宮仕えをやめ、前摂津守・藤原棟世の妻となったが、晩年は寂しい日々を送ったようである。
1283年 1歳 このころ山城国に生まれる
1324年・42歳 後宇多上皇がなくなり、北面の武士をやめて僧となる。東国や木曽路・伊勢なと゜に旅行をしたのち、京都の双ヶ岡に住みつく。
1330年・148歳 このころ『徒然草』を書く。
1336年・54歳 二条為世に和歌を習う。やがて頓阿・浄弁・慶運とともに<和歌四天王>の一人として重んじられる
1352年・70歳 このころ亡くなる
1283?~1352? 鎌倉時代末期の歌人・僧。
五條天神社 牛若丸・弁慶の出会いの場所が近所・・・「義経記」
千本釈迦堂・大報恩寺 800年前の建物・おかめ像・徒然草にも登場
『徒然草』を書き、中世を代表する名文家。
山城の国に生まれた。本姓は占部、俗名は兼好。神主の家の生れ、北面の武士(上皇の御所を守る武士)として、後宇多上皇に仕えていたが、正中元年(1324)に上皇がなくなると、延暦寺で髪をおろして僧となり、東国や木曽路・伊勢などに旅行をし、やがて京都の双ヶ岡に、粗末な家を建てて住み着いた。かれは和歌を二条為世に学び、すぐれた歌人として知られ、頓阿・浄弁・慶運とともに和歌四天王といわれた。かれの和歌は『続千載和歌集』以下のの勅撰集(天皇の命を受けてつくられた歌集)に16首がおさめられており、家集(個人の歌集)に『兼好法師集』がある。かれはまた、有職故実家(朝廷・武家での古来の役職・装束・儀式などを研究する人)・古典研究家としても知られていた。
しかし、兼好の名をとくに有名にしたのは、随筆『徒然草』である。これは、清少納言の『枕草子』や鴨長明の『方丈記』とならんで、わが国の随筆文学の最高のものといわれる。
徒然草 鎌倉時代の歌人・吉田兼好の随筆。上下2巻、244段からなり、元弘元年(1331)までに成立。日常生活のなかでの見聞や感想を、ありのまま書きつづったもので、作者のゆたかな教養と人間味あふれているが、19段「をりふし移り変わるこそ」の文章によれば、『源氏物語』や『枕草子』という古典の上に立って書いていたことがうかがえる。このように平安時代への強いあこがれが見られると同時に、前の時代の文学には見られない現実的なところもある。
序段の「つれづれまるままに、日ぐらし硯にむかひて心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」はとくに有名で、書名になっている。
大原上野の東南の山中に、平安期の初期藤原氏専制の犠牲になった
惟喬親王の墓がある。高さ1.5mの五輪の石塔。
惟喬親王(844~897)は文徳天皇の長男。当然皇太子を約束されながら、母が当時の貴族社会を牛耳っていた藤原一門の出身で無く、嘉祥3年(850)に天皇と右大臣藤原良房の女、明子の間に惟仁親王(清和天皇)が皇太子に立てられた。文徳天皇は惟喬親王を天安2年(858)大宰師に任じ、貞観14年(872)上野太守にされた。その秋、病気のために出家し、いまあるお墓から北250mあたりに隠棲された。また母弟惟仁親王の立太子のとき出家されたともいわれている。出家後、政治のことは縁を切り、自然を友に詩歌に励み、紀有長や在原業平らと文墨を通じて親交を重ね、特に業平とは親交厚くしている。不幸な生い立ちだが、出家を境に平和な余生を送り、寛平9年2月、54歳のとき、この地で亡くなっている。洛北一帯に親王ゆかりの旧跡とつたえるものが多く残っている。
左京区広河原杓子屋町、杜若(かきつばた)豊次郎氏宅に縦10m、横16mの長方形の池があり、珍しい四季咲きのカキツバタが植わっている。惟喬親王が出家後この地に植えられたものだといわれている。墓の近くには親王をまつり、上野町氏神になっている小野御霊神社があり、山を隔てた北区大森東町、長福寺境内には惟喬親王塔というのがある。室町時代のものらしい。北区雲ヶ畑に惟喬神社がある。
親王没後1120年を迎え、親王をしのぶ祭りを毎年続ける滋賀県東近江市の永源寺と連携して企画した。大原では親王亡きあと、しのぶ法要が続いていたが、明治期に千回忌法要を行って以降途絶えた。惟喬親王1120年法要が大原の勝林院で営まれる。惟喬親王は永源寺地区の人々に木地師の技術を伝えたとされています。
関連記事 ➡ 陵墓左026 惟喬親王 陵墓
まち歩き左1098
1 北野天満宮の道標
2 妙心寺北門の道標
3 妙心寺内の道標
4 遭難地
幕末の勤皇家で海防論者。信州松代の藩士、佐久間一学の長男で、名は啓之助。28歳にして修理と通称したか「しょうざん」「ぞうざん」そのよび方が2説に分かれている。
佐藤一斎に蘭学を学び、高島秋帆からその技を習得した。嘉永6年(1853)、浦賀に黒船入港の際、海防の急務を主張し、軍議によってその役を免ぜられたが、逆に多くの心酔者も輩出した。吉田松陰もその心酔者の1人で、折から長崎に来航していたロシアの船に乗り、外国事情の吸収に脱出を試みんと企てたが発覚、その密航事件に師としての立場から引責幽閉されたのが安政元年(1854)のことであった。
元治元年(1864)2月、徳川14代将軍家茂の入洛とともに、各藩の京屋敷は藩士の数をぞくぞく増やし、屋敷で収容できない者は、陣屋を設けて集められ、無気味な緊張感がただよっていた。勤王、佐幕、新選組、天誅組などが入れ乱れ、にらみあっている。そんな京都へ奇妙な男が現れた。テテッポウ(長野地方でフクロウのこと)と呼ばれたその顔は、色白で目と鼻が異様に大きく、ロングヘアーの大男。松代藩士 佐久間象山である。象山が将軍の招きで入洛してきたのは3月の末。洋風の鞍をつけた馬にまたがり、京を行くさまは、しばしば外国人と間違えられたという。
象山は儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術(技術)とし、この2つを融合させ、早くから開国と公武合体論を説いていた。
彼はこの理論をつらぬくことが、やがて日本が世界に号令を発する近道だと主張。この構想は勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らに影響した。また、象山は吉田松陰の密航をそそのかした罪で投獄された。(安政元年 1854)が、このとき獄中で考えた「省けん録」は幕府の無能をそしり、儒学の無識を嘆いた時世論で、このため多くの敵をつくっていた。
入洛後の象山は、4月3日付で幕府の辞令を受けている。「海陸御備向掛手附」というややこしい役だが実際は公武合体の政変(前半)後の朝幕間パイプ役、幕府からの条件は20人扶持に15両の手当。これでは尊攘党の巣くつ京都で安心して役目を果たせない。天下の英傑を自任の象山のプライドは傷つけられた。が、いまはわが身の利害にこだわるときではない。また、自分を京都へ招いてくれた長州や土州藩士の顔が立たない。象山はこの役目を引き受けた。
4月14日、象山は浪士がうろうろする「越前屋」(中京区六角通り東洞院西入ル)から丸太町の鴨川西岸に転居した。これは梁川紅蘭のすすめであったが、部屋が狭く、5月中旬には中京区木屋町三条上ルへ転居した。ここは部屋数も多く、東山や大文字、三条大橋が一望できる。また、親しい長州藩や彦根藩の京屋敷がすぐ近くにあるところ。象山は大いに気に入り、風流にも「煙雨楼」と名付けた。この間、一橋慶喜や将軍家茂らとあって彼一流の時世論、天下治平の策を述べた。そして6月5日に「煙雨楼」から目と鼻のところで溏田屋事件が起きると、天皇の御身を案じ、京は物騒だからと彦根遷都をすすめる・・象山の誠実さの一面であった。7月11日、朝食をすませた象山は、塚田五左衛門、坂口義次郎、馬丁半平、ぞうり取りの音吉の4人をガードに山階宮邸を訪問した。あいにく宮が不在のため、執事の国分番長と面会した。ここで大切な世界地図を持たせて塚田五左衛門を先に帰らせ、残る3人と松代藩の宿陣本覚寺(下京区五条寺町上ル)へ。しかし、ここでも目当ての門人蟻川賢之助、三沢刑部丞の両人が外出中。ついてなかった。象山は本覚寺から「煙雨楼」へ帰るとき、前日から風邪気味の坂口義次郎に音吉をつきそわせ、ゆっくりして還るように言い残した。これも象山の思いやりだった。この後、口取りの半平と家路につき、午後5時ごろ木屋町三条へさしかかった。「煙雨楼」まであと数十メートルほどのところで突然2人の刺客が襲い掛かった。足を切られた象山は馬を走らせた。馬は「煙雨楼」を通り越し、木屋町通を一気に御池へ。ここで待ち伏せしていた別の刺客7、8人に捕えられ、全身に13ケ所の刀傷を受けて死亡した。象山52歳。その日の夕方、三条大橋には「会津・彦根の2藩に組みした国賊につき、天誅を加えた・・・」とかかれていたという。後にこの事件を知った山階宮は次の様な歌を詠んで象山を偲んだ。
浅間山煙りと消えしその人の
名こそ雲井に立ちのこりけり
いま事件現場の木屋町御池上ルに「象山先生遭難之碑」が建つ。故新村出博士を会長とする顕彰会がこの地で長く続けられた。遭難の翌々13日に遺骸は妙心寺大法院に葬られた。墓は松代藩にゆかりの深い妙心寺大法院にある。埋葬の翌7月14日、佐久間家断絶の命が降った。象山が生前心配していた通り、この事件の8日後に蛤御門の変が現実となり、「京のどんどん焼け」の大惨事となった。この時の被害状況は焼失家屋、民家27000余り、土蔵1207、寺社253といわれる。
1 まち歩き上0512 京都御苑 枇杷殿跡 紫式部 仕事場
3 神社西0055 大原野神社 紫式部も参詣した
6 紫式部の娘
8 雲林院
10 清凉寺・嵯峨釈迦堂 本堂・阿弥陀堂・秀頼墓碑・生の六道 源氏物語
11 後冷泉天皇 火葬塚 娘が乳母となる
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