祠 前回の記事 ⇒ 祠久御山045 神牛石社 寺院久御山0570 大松禅院 三宅石碑 愛宕灯籠
関連記事 ⇒ 49 八幡 地区 記事検索一覧
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
祠 前回の記事 ⇒ 祠久御山045 神牛石社 寺院久御山0570 大松禅院 三宅石碑 愛宕灯籠
関連記事 ⇒ 49 八幡 地区 記事検索一覧
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
傳 弘法大師 作 観世音尊像 大松寺
東 新田 二十丁
昭和3年10月 京都 三宅安兵衛 建立
神牛石
神牛石社(しんぎゅうせきしゃ)
神牛石と称する霊石を祀った小社。この石は寛元元年(1243)、興正菩薩叡尊が当地の山福寺(廃寺)に安置していたものと伝える。黒く、形は牛の如く、天下に凶事あるときは、必ず汗を流すといわれ、以来、牛の守護神として崇敬された。神牛石は赤・白・黒の三種あるといわれ、上野国、琵琶湖中にありここのはそのうちの黒石。
西 下津屋 十三丁
昭和3年春 京都 三宅安兵衛
東
北 佐
木津川床 水量標
霊牛石
愛宕山大権現
元禄12年
十三重石塔
叡尊の建立と伝え、三福寺の荒廃後、神牛石とともに現在の地に復元したものと伝わる、高さ3メートル、初重軸部には梵字が刻まれている。宇治の浮島十三重石塔を縮小したもの。
大松禅寺
三宅安兵衛の道標 2つ ⇒ 関連0002 三宅安兵衛の道標
関連記事 ➡ 愛宕燈籠 一覧
まち歩き宇治0945 浮島十三重石塔 日本で現存最大の15メートル
関連記事 ⇒ 45 久御山 地区 寺社記事検索一覧
観音めぐり ⇒ 城南近在三十三所観音巡拝札所 一覧
『平家物語』によると,近衛天皇(1139~55)の代,毎夜黒雲が立ち込めて御所を覆い,天皇を怯えさせていた。源頼政(1104~80)が,怪しい姿を発見し弓矢で射殺したところ,頭は猿,胴体は狸,尾は蛇,手足は虎,鳴き声がトラツグミ,という怪鳥鵺(ぬえ)であった。この碑は,鵺退治で使用した矢の鏃を頼政が洗ったと伝承される池跡を示すものである。なお,元禄13(1700)年に建てられた原碑が摩滅し,現在では北面の題額部に「鵺池碑」の3字が確認できるだけなので,昭和11(1936)年に復元碑が公園の北に隣接する鵺大明神社内に建てられた。碑文は復元碑による。
鵺池碑
元禄13年(復原碑1936年)
建立者 太田毎資(復原碑出水学区有志)
我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有
一池曰鵺池俗伝以為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣今毎資者道潅七
世之孫而頼政卿遠裔也故聞斯事喜適居其地且懼其就泯減因使
予録其事上石鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰
怪鳥当射 志不可敵 休矣邦彦 其声太逖
元禄庚辰三月望日 松崎正祐記
鵺池碑 碑文の大意
わたし(筆者松崎正祐)の主君であるは丹波篠山藩主松平紀伊守が京都所司代に任じられ京都に赴任していたとき,家臣の太田毎資もまた主君に従い京都に滞在していた。毎資の官舎の庭に池があり,鵺池と呼ばれていた。源頼政卿がかつて鵺を射た矢じりを洗った地だと伝えられていた。
実は毎資は太田道灌の七世の孫で,頼政卿の末裔である。だからその地に居をかまえた事をたいへん喜んだ。それだけではなく,この池の伝承が消え失せることを心配し,石碑を建ててわたしに碑文を書かせた。なんと美しい先祖を思う心情ではないか。この碑文は以上のような次第で書いたものである。(以上原碑の碑文)
この地は昔から鵺池と呼ばれていた。池のほとりに碑がある。しかし徳川氏の世になり京都所司代屋敷の中に取り込まれてしまった。だからその当時出版された京都ガイドブックの類には記されていない。
明治の初めに所司代屋敷跡に監獄が置かれた。それでもなお碑は大切に保存された。ただし雨風にうたれ文字は次第にすり減って見えなくなった。昭和2(1927)年に京都監あらため京都刑務所が山科に移転し,昭和9年,跡地に二条公園が設けられた。そのころにはまったく碑文が読めなくなっていたので,心ある人は残念に思っていた。
ところが元看守長青山咸懐氏という人がいて,在職時に原文を写していた。かすかに残る碑文の跡と青山氏が写した碑文の二つを総合したら碑文がはじめて明らかとなった。そこで有志が相談し,もとの碑とは別に新しい碑を建てて碑文を刻み,後世に伝えるものである。(以上昭和11年復元時の碑文)
此地古来称鵺池池辺有碑詳誌其伝説而及徳川氏執政柄地属所
司代之邸内以故当時所刊行名所誌之類或憚而不記焉維新之初
就邸址而置監獄猶用意於保存但碑石則風餐雨虐文字漸磨滅後
撤獄舎昭和九年新設二条公園之比至不可復読有志以為恨也偶
有元看守長青山咸懐氏在職之間手記原文両者相対照而主文始
歴如恨事乃除矣於是有志相謀更選碑石刻之以伝後世云爾
昭和十一年三月望日 出水学区建碑有志
関連記事 ⇒ 神社下0033 神明神社 鵺退治の矢じりがあります 綾小路東洞院
前回の記事 ⇒ 祠北042 岩倉川 十王堂橋 付近 の草に覆われた祠
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
貴船神社 第一鳥居
官幣 中社 貴船神社 明治20年10月 建立
楫取社(かじとりしゃ)
社伝によると、玉依姫は浪花より舟にてさかのぼって来られたとき、ここで楫をとりはずし、貴船に向かわれたという。当社はそのとき、水手として
奉仕していた楫師を祀ったものといわれるが、現在は宇賀魂神を祀り、万福の楫がうまくとれるようにとの信仰がある。
是より・・ 船本・・ 迄拾八町
祠 前回の記事 ➡ 祠左040 薬王坂の付近 山中の祠
関連記事 ➡ 神社左0137 貴船神社
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
木造11面観音立像
浄楽堂に安置されている等身大の像で、ヒノキ材を用いた一木造、彩色、彫眼の技法によって制作されています。丸顔で、片幅広く、肘をゆるやかに体から離して、すらりとした体躯で立ち、小ぶりな眼、低い鼻、平明な肉取りをもつ面相には日本的な優しさがうかがえます。また、肉身の穏やかなふくらみと、それをあらわすに示す条帛の流れ、数少ない裳の衣文の巧みな設定など、美しい間合いが図られています。奈良時代以来の古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作であり、9世紀後半から10世紀前半にかけての制作と推定されるものです。また、当初の板光背を残している点も貴重です。
大原香水 上野町の久保家の庭内にある井泉をいう。同家の説によれば、天長年間(824~34)弘法大師の霊感により、その高弟真済僧正が悪疫をはらい除くために掘り出したものといい、以来井泉の傍らに一宇を建て、瑠璃光薬師如来を安置するにいたったという。この井泉はふだんは水が湧かず、毎年1回、旧暦の6月16日だけ湧出する。しかも早暁から湧きだし、午後に至って止む。俗に「せんき」の水と称し、この水を飲むと疝気・癪気に霊験があるといわれ、当日は井戸より汲み上げた水を、薬師瑠璃光仏を安置した座敷の前庭へ竹樋にて流し、一般参拝客に授与される。この井泉は、むかし久保家の先祖が白狐の危難ほ救った法恩に、白狐がこの奇瑞をあらわしたのだとつたわる。同家には惟喬親王とつたえる僧形坐像を安置する。
祠前回の記事 ➡ 祠南038 稲荷大神
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
祠 前回の記事 ➡ 祠南037 児水不動尊
五七五
手術する瞳に桜焼きつける /栗林
京の味
鯖寿司 若狭から届くひと塩の鯖を三枚におろし、小骨を抜いてから酢でしめ、寿司飯の上に乗せて竹の皮で包んだ棒寿司。鯖の上に薄い白板昆布を乗せるものもある。5月の祭、祇園祭、秋祭など季節を問わず祭りや行事には欠かせないもの。祭りの時には、各家で作ったものを親戚や知人に配り、ともに祝う。
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
つくりが 違う 手入れがされています
六孫王神社の東北にあり、井戸の傍に不動明王を祀っている。もとは遍照心院の門前にあたるので、「尼寺の水」とも言われた。
古来、眼病平癒に霊験ありといわれ、今も清泉が湧き出ている。
祠 前回の記事 ➡ 祠北036 ちいさな祠 大樹が1本
五七五
この街の風情が好きと深呼吸 /寺田
京都の俗諺(ぞくげん)
弘法さんが晴れやったら天神さんは雨や 東寺の弘法市が毎月21日、北野天満宮の天神市が毎月25日に開かれることから、5日程度で天気が変わる縁日の晴雨のサイクルを指していう。
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
天保11年12月(1840年)
祠 前回の記事 ➡ 祠北034 七折稲荷大明神
五七五
5割引きがのこったままの冷凍庫 /樋口
京都の俗諺(ぞくげん)
東男に京女(あずまおとこにきょうおんな) 男性は気前のいい江戸の男がよく、女性は美しくて優しい京都の女がよいということ。
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
両側は 家が建っています
祠 前回の記事 ➡ 祠北035 末菊大明神
五七五
和解する手もあったのか遅かった /木下
京都の俗諺(ぞくげん)
伊勢へ七たび熊野へ三たび愛宕様へは月参り
伊勢神宮、熊野三社、愛宕神社をあげ、月参りする愛宕神社への信仰を強調している
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
祠前回の記事 ➡ 祠下033 島原の弁財天 大銀杏
五七五
いくつまで生きると決めて生きている
京ことば ヨシ ~なさい。「ハヨ寝ヨシ」
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
平成29年1月 撮影
祠が小さくなっています
2015年9月の記事
島原の大銀杏 島原住吉神社の旧境内地 北端に植わっていたこの大銀杏は、
明治維新後の廃仏毀釈により、社格株 ない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。
その後、明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内はこの大銀杏のところまで
拡大されるには至らなかった。
昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、
さらに神木として崇められ、今では樹高20m、幹回り3.5mともに
樹齢300年相応の島原一の巨木となっている。
平成13年11月吉日 島原伝統保存会
嶋原の 外も染るや 藍畠 嵐雪
服部嵐雪(俳人 1654~1707)
昭和5年11月建立
八大 王 と書かれています
祠 前回の記事 ➡ 祠伏032 淀 にあります 高倉大神
五七五
大雪や婆々ひとり住藪の家
ことわざ
禍を転じて福となす
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます